サムエル法王
エリュマンティスの中心地に、見上げる者を圧倒させる巨大な城がそびえ立つ。
この世に類を見ない、荘厳華麗な建造物であった。
大理石の中でも特に希少な石を用いて造られた外壁が燦爛とした輝きを放ち、内壁は磨き抜かれた黒曜石が堅牢な美を醸し出している。
ディアム城──かつては魔王の住まう城であり、かの者の永劫の威光を象徴する不滅の巨城であった。
だが、今は忌みなる者は消え去り、神に選ばれた法王と正しき心を持つ司教たち──そして有能な大臣たちの住まう神聖な城として、アルゴス全体を統治するために存在する。
一夜明けた翌日。
ルナは、予定よりも早く目を覚ましていた。
昨夜はよく寝むれたおかげで、疲れはすっかり抜けている。そして、胸を焼くような哀しい気分もある程度には──。
宿屋の小さな窓辺に立ってふと見上げれば、アルゴスの空が抜けるように青く澄み切って、果てしなくどこまでも広がっている。
同じ方向には目指すべき絶景なる巨城が、天空を背景に高々と屹立している。
──すごい城だな……。
ルナは、思わず息を呑んだ。
昨夜はしっかりと見ることができなかったが、陽光に照らされ、今始めて目の当たりにするその城は、世界に名だたるルスタリアの名城だった、クレティアル城より一回り以上の大きさはあろうか。
それをしばらく眺めて、城の主に思いを馳せ……。
「よし!」
そこで思考を断ち切ると、少女は可愛らしく両手を握って気合を入れた。
手早く朝の支度を整え、食堂に向かう。
すぐ後に降りてきたベテルギウスたちと一緒に簡単な朝食を済ませ、約束されていた時間よりも少し早めに到着するよう宿を出立した。
都の大路を小一時間ほど歩くと、ディアム城に到着した。
正門前に立つふたりの守衛に、ルナたちの身分と要件を告げると、彼らの表情に緊張感が疾った。
やはり、通達がしっかりと行き届いているのであろう。
守衛たちはすぐに城内と連絡を取り、ほどなくして現れた近衛兵に丁重に迎えられ、三人は法王の下へ案内される。
城内の謁見の間へと続く長い回廊は、絢爛豪華さに満ち満ちていた。
壁や床には所々に色とりどりの貴石がちりばめられ、見事な彫り物や魔法文字が刻まれている。
「すごいね。ここまでくると物語のお城だね」
どこまでも続く回廊と、星屑のように無数に散乱する宝玉を見回しながらルナが小さくため息をつく。
ルスタリアの王女として自分が住んでいたクレティアル城と、どうしても見比べてしまうのだ。
すっきりとした性格の彼女は、基本的に妬み・嫉みという感情は持たない。
それでも、さすがにこれほどの光景を目の当たりにすると、多少は胸がざわついてしまう。
「この部分にかけているお金だけで、普通のお城ひとつ買えるんじゃない?」
心の乱れをごまかそうと目の前の回廊を指さして、明るい冗談を交えたルナの言葉に、似たような思いで辺りに目をやっていたベテルギウスが、感じ良く同意して応えた。
「かつて魔王は、この世界の半分近くの富を占有していたと聞きます。その時の名残でしょうね」
「ふーん」
「ただ……それらの富はある日を境にして、すべてこの国の民に還元され、アルゴスは世界一豊かで幸せな国となりました。そして、歴史も大きく変わり今に至るのです」
近衛兵には聞こえぬような小声で、ベテルギウスは囁いた。
賢者の気遣いに少女は納得したように頷くと、もう余計なことは言わないよう口を閉ざす。
やがて三人は回廊を抜け、広い謁見の間へと通された。そこは、城下を一望できる高みに造られた大ホールである。
それだけで、並の屋敷ほどの広さはあろうか──だが、中央には城全体の豪華さには似つかわしくない質素な席が設けられていて、年寄りがひとり供もつけずに座っている。
不思議な老人だった。
体全体から透き通った善意がにじみ出ている。それは清らかな光のオーラとして、離れた場所にいるルナたちにも、ある種の神聖さとして伝わってくる。
老人は三人の姿を見とめると、ゆっくりと立ち上がった。
「ルスタリアの王女ルナ姫と、双頭守護神のおふた方ですな」
「はい法王様」
すでに目の前の老人を法王と悟っているルナは、王家の娘らしく精一杯かしこまって頭を下げる。
「私はルスタリア王国の王女ルナ・ユースティ・レミナレス。こちらは双頭守護神の異名をもつライガル・ゼクバ・レミナレスと、ベテルギウス・レムリアルです」
紹介を受けて少女の後ろに控える漢たちも、慇懃丁重に礼をした。
そして、形式ばった長口上の苦手なルナに変わり、ベテルギウスが言を引き継ぐ。
「我々は極めて深刻な国難と信じ難い事情により、ここに馳せております。法王様におけましては、突然の我らの来訪に懇切にお迎えいただき、そのご厚情深く感謝いたします」
「いえ。すでに話は聞いておりまするゆえ。ルナ姫──こたびのことを誠に憂います」
聖職者──サムエル法王は、心の底から思いやるような表情をルナに向ける。
年齢だけでなく、身分としても法王の方が上であるのに、うやうやしい──そう見えるほど、うら若い王女に対する言葉遣いは丁寧であった。
「神の意思に従うことが私の務め。ルスタリアのため──ひいてはこの世界のために、できることがあればこの年寄りになんなりとお申し付けください」
「では、恐縮ですが陛下──」
ルナは小さく咳払いをすると、決意を籠めて法王をみつめた。
「どうか私たちを、リュネシスに会わせて」
「リュネシス?」
訝しむ老人に、ルナはもう一度同じことを繰り返した。
「魔王リュネシス。あたしたちは、彼に会いに来たの」
「──」
法王の表情が、不自然に変化した。
それに気づき、ベテルギウスがルナを目配せで制して、彼女に変わって言葉をかぶせる。
「法王様のお立場は、我らなりに理解をしております。ですが時間がありませぬ。我らには、彼らの協力が必要なのです。それは我らのためだけでなく、この世界のためにも──」
複雑な面持ちに変えて沈黙する法王に、ベテルギウスが微笑みかけた。
「アルゴスは素晴らしい国ですね。この国を調べれば、そのことがよく分かります。ほんのささやかな租税だけで、人々は幸せで安全な生活が約束される。国家そのものが戦いを放棄しているのに、けして悪しき者から侵略されることもない。たとえ魔の者たちの進撃を受けることがあっても、彼らは必ず大いなる力で退散させられる」
ここでベテルギウスは、わずかに区切りを入れ──。
「それはなぜでしょう?」
些細な変化も見逃さぬよう、法王を鋭く見据えた。
「我らはただ、神のご加護を受けているのです」
おとなしやかな態度を崩さぬまま、法王は応えた。
「まさか──無礼を承知ながら言わせていただきます」
銀色の男は、ことさら言を強める。
「途方もない魔力を持つ何者かが操る、風や炎の魔術──そして、レアメタルの巨神兵兵団によって、この国が護られているからですね」
「え!?」
話の見えないルナが、思わず声を上げていた。
アルゴスの実情についてすでに色々と聞かされてはいたが、これは初耳であった。
おそらく法王との対話を速やかに済ませるための切り札として、ベテルギウスがこの時まで、あえて伏せていたのであろう。
彼は、構わずに語を継いだ。
「そもそも無敵のレアメタルの巨神兵を造り出した者は、この世でただひとり──そしてそれを稼働させることのできる者も、この世でただひとりかふたり──」
涼し気な男の目元が、ギラリと鋭くなった。
「その巨神兵を一度に百体もの兵団として、意のままに操ることのできる者は、埋もれた伝説の中にしか存在しない魔王リュネシス。あの男以外に考えられませぬ」
法王は黙したままだった。
だが、しばらくの時をおいてから、老人は穏やかな顔を向ける。
「……突飛な話ですな。魔王の存在だけでもあり得ませんが、それが、この国の平和を守っているなどと……」
「いえ。あの男ならばあり得るでしょう。私の知るあの男は、意外にも心ある側面を持っていましたよ。それゆえに魔女王と対峙していた。その魔王にはかつて、愛する人間の娘がいたのです」
それを聞いて、ルナは〝ぎくり〟と固まった。
「彼は、ひとりのうら若き宮女と恋に落ちていた。その娘にだけは、一方ならぬ愛情を注いでいた」
ベテルギウスはまた、絶妙に言を止めてから発した。
「その娘の名はプシュケ。すでに帰らぬ人となっていますが……」
探るように法王の反応をうかがう。
「法王様。あなたの孫娘ですね?」
その言葉で、辺りに重苦しい静寂が落ちた。
ルナは大きく目を見張り、寡黙なライガルはかすかに眉を曇らせていた。そして、法王と賢者の視線だけが、はっきりと宙を交わり合う。
ややあって沈黙を破ったのは、やはりベテルギウスだった。
「自らの失態により愛する娘を失い、哀しみに暮れていた魔王は、その祖父であるあなたの言葉を受け入れぬ訳にはいかなかった。それは、この国を守り、いずれは世界にも平和をもたらすこと──」
ベテルギウスの口調に、思いやるような温度が籠もる。
「およそ魔王の志す事ではありませぬが、短い生涯を閉じてしまった恋人への、せめてもの償いだと考えたのでしょう。あるいは彼女の死をきっかけに、おのれの天命に目覚めたか──」
言い終えて、ベテルギウスは法王を無言で直視した。
老人は天を仰ぎ見て、しばらく黙考していた。やがて──。
「やはり、すべてをご存知でしたか」
法王はしみじみと呟いて、深いため息をついた。その目は、哀しく遠くに向けられている。
「あの御方との……リュネシス様との約束でした。時が至るまでは、何があってもこの国の真実を伏せているようにと……私がその禁を破れば、アルゴス全土にかけられた方術は解け、今の体制そのものが崩壊することにもなりかねぬと……ですが、あなたがたの来訪もリュネシス様は予言されておりました。その時こそが、世界の礎が崩れ去るときだと……あの方はそれ以上何もおっしゃらなかったが、今こそ悟りました。致し方なく隠し立てしてしまい申し訳ありませぬ。ですが、今こそあなたがたを受け入れましょう」
法王は覚悟とともに、落ち着き払った視線を三人に向けた。
「今夜はここにお泊まりください。食事と寝所をご用意いたします。夜更けの時間帯になると、ディアム城の北の外れにある円塔に行くといい。あなた方の求めるものがそこにある」
淡々と語る法王の言葉に、ベテルギウスは変わらない丁重な眼差しを向け続け、ライガルも礼を尽くす形に頭を下げて黙り込んでいた。
ただ、その瞳の奥には、昂りに近い濃い金色が重く渦巻いていた。
そして、ルナは──。
色々と法王に問い詰めたくなる、溢れ返りそうな気持ちを懸命に抑えつつ、ひとり密かな思考を巡らせていた。
──あいつ……人間の恋人がいたんだ……その子のために戦ってたんだ……。
苦い想いがよぎる胸を、切ない鼓動が圧迫していく──少女はひとり、手のひらで心臓の位置する所をそっと押さえていた。




