明かせぬ秘密
「……さま……リュネシス様……」
華奢な掌に揺さぶられ、唐突に魔王は目を覚ました。
そこは、だだっ広く豪勢な魔王の寝室であった。
贅を極め数々の豪奢な装飾品に彩られた、虚飾の表徴のごとき部屋である。
そんな場所には似つかわしくない翠色の瞳が、慈しみに満ちた眼差しで魔王を正面から見つめている。
まるで清々しい緑の香りを含んだ風に浄化されたかのように、魔王の内側に満ちていた毒気が、穏やかに抜かれていくのを感じる。
「ああ……おまえかプシュケ」
魔王は微かに荒い息を残しながら上半身を起こすと、目の前にいる少女を切れ長の眼で流し見て低く呟いた。
「大丈夫ですか?とても苦しそうに、うなされていました」
心配そうに隣で見守る少女の──プシュケの、清らかな星を宿す瞳に当てられて、辛そうに額を右掌で抑えていた魔王の──リュネシスの乱れた呼吸が、安らいだ吐息に変わっていく。
「夢だよ……ずっと昔の……おまえまで起こしてしまったか」
魔王らしからぬ詫びの込もったリュネシスの言いように、プシュケは柔らかく首を振り、聖母を思わせる笑みを浮かべた。
「リュネシス様でも、怖い夢を見ることがあるのですね」
その眩しい微笑みを受け、リュネシスは諭された少年がするように、あどけなく苦笑する。
「おまえは意外と、はっきりものを言うんだな」
「すみません。でも……本当に苦しそうでした」
「そうか——」
そっけなく返してリュネシスは少女に背を向けると、そのまま体をゆっくりと寝具の中に横たえていった。常にかかえている深い苦悩に、また再び、ひとり沈み込んでいくかの如く——。
「りゅ、リュネシス様……?」
端麗な顔を動揺の赤い色でわずかに染めて、気遣うふうにプシュケは問う。もしかして、さっきの言葉で彼を怒らせてしまったのか、という少しばかりの焦りがあった。
「リュネシス様……」
やはり何も応えずリュネシスは、静かに眠ろうとしている。そこに気を悪くした雰囲気はまったく感じられなかったので、少女は安心しつつも、若者の背中にためらいがちに身を寄せていき、もう一度応えを促した。
「なぜ最近ずっと、わたしをお傍においてくださるのですか?」
背中ごしに、両手を〝ぎゅっ〟と握りしめている少女の切ない吐息を感じる。リュネシスは、密かに目を開いていた。
「わたしなんかより、綺麗な方はたくさんいます」
そんなプシュケの問いかけをこれ以上無視できず、魔王は仕方なく振り返ると、彼女をそっと抱き寄せながら、今しがたの冷たい態度を埋め合わせるかのように甘い声で囁いた。
「この城にいる女たちは、そろいもそろって皆、馬鹿か欲の深い女たちばかりだ。アカーシャ以外——」
「……」
「頭が痛いことばかりで夢見も悪くなる。だが、おまえといるときだけは、なぜかほとんど嫌な夢を見なくなった。さっきみたいに嫌な夢を……以前はよく見ていたのにな……」
魔王は、乙女の柔らかい頬にてのひらを当てながら、澄みきった翠玉の瞳を覗きこんだ。
「おまえの目は、誰よりも綺麗だな」
プシュケは〝どきり〟と息を止めて、美貌の魔王に見入る。
「リュネシス様の方が……とても綺麗な目………」
自分に何の疑いも持たずに羨望の眼差しを向けてくる少女に、リュネシスはただ、哀愁を滲ませた笑みで返した。氷の中に見えない秘密を宿しているかのように。
そして、悩ましいまでの微妙な沈黙の後に彼は問う。今までどんな宮女にも、尋ねたことすらなかったことを——。
「私も訊きたい——」
「はい」
「おまえはなぜ、こんな所に来た?金や地位を求めてのことではないだろう」
「それは……」
プシュケは、気まずそうに視線を逸らした。
「まあ大体の察しはつくが……ふん。テュルゴも必死だな。おまえのような娘を使ってでも、私を動かそうという訳だ」
「いいえ」
プシュケは言葉に強い意志を込めて、リュネシスを直視した。
「テュルゴ様に、けして強要された訳ではありません」
乙女の翠玉の瞳に、切ない色の光が宿る。
「幼い頃に、リュネシス様に逢ったことがあるからです」
「私に——?」
「はい。逢ったというよりは、街でリュネシス様が、わたしの前を通り過ぎただけですけど……リュネシス様が、家来の方々をたくさん連れて、とても大きな白馬に乗られていて。わたしはお母さんに……母に、絶対に魔王様を見てはいけないと言われていたのに——皆がとても畏れてひれ伏していたのに——どうしても気になって、リュネシス様を見てしまいました」
憂えるように少女は笑う。誰にも話せない何かしらの秘密が、そこには含まれているようだった。
「あのとき少しだけ、リュネシス様と目が合ったんですよ?」
「ほお?」
「覚えてません、よね……?」
「ああ。さすがにそれは——」
また、地上すべての者を恐れさせる魔王らしからぬ態度をとってしまい、リュネシスはそれを自覚しながらも、いかにもバツが悪そうに応えている。
そんな彼を、乙女の温もりが母のように包み込む。
「でも、わたしは覚えてます。わたしの、わたしだけの……とても大切な想い出………」
「そうか……」
プシュケの囁きには不思議な穏やかさが満ちていて、なぜか魔王を、安らかな眠りに誘う。
彼は乙女の、光を織り込んだかのように仄かに輝く亜麻色の髪を、そっと撫でた。ふわりと微かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。
リュネシスは、優しい笑みを頬に浮かべた。それは、最近の彼が無意識の内に、彼女にだけ見せるようになっていた微笑みだった。
「寝よう。またおまえの話を聴かせろ。プシュケ……」
「はい。おやすみなさい——」
プシュケも幸福そうに微笑んだ。
そして、ふたりは身を寄せ合って、静かに眠りについた。