幻夢城
どれほど歩いたことだろうか。
暮れようとする赤い太陽を背に、ルナは進み続けていた。
ひとり旅は初めてであるが、さして不安はない。
どこまでも続く緑の海——デュアール平原の遥か彼方に想いを馳せて、赤紫色の髪の少女は大地の海原を渡り歩いていた。
辺りが、そろそろ暗くなろうとしている。
ルナは肩で息をした。
人並み以上の体力はあるが、すでに長時間休まず歩き続けて来たのだ。
眠気を伴う疲労と空腹感が体を重くしていた。道中の合間に出くわした湧き水を飲んで喉の渇きを潤してきたが、昨夜から丸一日、彼女は何も口にしていない。
さりとて食べる物もなく、休む気にもならず、ルナはほとんど小走りの勢いで相当の距離をここまで進んできた。
だが夜の帳が下りる頃には、さすがに若さの勢いだけで突き進む訳にもいかなくなった。どこか適当な場所で休息が必要だと感じている。
——もう、どこまで来たの?まだまだルスタリアの国境は先だと思うけど……できれば野宿はしたくないな。それに、何か食べたいな……。
ルナはため息をついて、せめて隠れ場所になりそうな岩山ぐらいはないものか、と目を凝らしながら歩いていた。
その彼女の視線が昏い景観の向こうに、単調な平原にはないはずの人工物らしき影を幽かに捉えた。
「ん!?」
ルナはもう一度、しっかりそこを注視する。
「……あれは?」
目に映ったのは、小高い丘の上に聳え立つ白い城塞であった。
それは、奇妙な特徴を備えていた。
東西南北に四つの円塔を備え、四囲は不可解な古代文字の刻まれた城壁に囲まれている。
城そのものの造りは小ぶりながら品格があり、それでいて人の住んでいる気配が全くない。
超感覚を持つルナには遠目ではあっても、なんびとも容易に立ち入ることを許されぬような、神聖な雰囲気が肌で感じ取れた。
——あれは、もしかすると……。
ルナはルスタリアの歴史として、かつて学んだ、ある伝説の賢者の記憶を思い起こした。
それは百年前のエルシエラ大戦において窮地に陥ったルスタリアを救い、その後、歴史の狭間に消え去った〝白銀の賢者〟の異名を持つ男——。
——ベテルギウス・レムリアルの城!?
ルナは思わず足を速めた。見れば城壁に刻まれた魔文字の所々の意味に、はっきりと思い当たりがある。
それはレムリアル家の魔術にしばしば用いられた印であり、ルナが学校で習った知識の片隅にも断片的に存在している。
印には土着の神の霊的加護が示され、悪しき者たちからの魔法攻撃をほとんど受け付けず、また、それに付随する耐久性も表現させている。
そして、城そのものが異次元への関与を意味する、高度な古代文字と古代神も描かれている。
そのために迷信深い者たちの間では、未だ失われた賢者の城として、デュアール平原に幻のように現存していると言われていた。
信じる者の目の前にだけ、蜃気楼の如く現れるという賢者の城の噂話。そして平原での放浪の末、奇跡的にそこに足を踏み入れた者の体験談などが、まことしやかに言い伝えられて、それを真実であると確信する者たちから、いつしかその城は、偉大な賢者への敬意も込めてこう呼ばれるようになっていた。
──ベテルギウスの〝幻夢城〟だ!ラッキー!!ここなら聖域だから、魔物たちも寄ってこないよね。確かこの城はデュアール平原の……ええっと……?
ルナは学校の地理の授業で習った、まれに城が現れると言われる地図上の緯度・経度を思い出そうとした。それが解れば、うろ覚えのクレティアル城の経緯度と照らし合わせ、今いる位置を把握することができるかも知れない。
しかし思い出そうにも、霞のかかったような答えが記憶の奥にたゆたうだけで、知識として呼び起こすことはできなかった。
おせじにも優秀な生徒とはいえぬ彼女にとって、退屈な授業は睡魔との闘いに費やすだけの(そのうえ、勝てることはほとんどない)不毛な時間でしかない。
——ま、場所なんか分からなくていいか……休めたらなんでもいいや。
〝幻夢城〟の入り口は閉ざされていたが、手をかけると少女を受け入れるかのように、苦も無く開いた。
中は、やはりがらんとしており、静まり返った空間が広がっている。
だが不思議なことに、百年も放置されていたはずの城の中は屋根壁の破損一つなく、また埃すらかぶってはいない。
ルナには読み取れなかった古代文字の効力である。
外壁の魔法文字は不可思議な結界の意味合いも込めており、侵入する者を選ぶだけでなく、同時に城内の様々な劣化をも食い止めていたのだ。
しかしながら、ルナにはそのような呪いの力は知る由もない。
——よく分からないけど、さすが〝幻夢城〟……そうだ、この調子だと食べ物ぐらいはあるかも!?
厨房に行って探ってみると、パンやチーズ、そして干し肉や牛乳などがふんだんにあった。それらにも全く腐食している様子はなかった。
たっぷりの食料を手にしたルナの口元が無邪気にほころぶ。空腹感が限界にまで来ていたからだ。
──ごめんなさい。勝手にいただきます!
簡単に食前の祈りを済ませると、ルナはその場で何も考えず大量の食べ物をかきこんだ。
仮にも王家に生まれた者として、こんな品の無い食べ方をしたことはなかったが、今は気にもならない。
むしろ、これぐらい自由な食べ方もたまにはいいと彼女は思った。
それに、あまりに色々な体験があって平静さを失っているせいなのか、人目のない状況でまで行儀よく振る舞う余裕もない。
食事が済むと、どっと疲れが湧き上がり急激な眠気に襲われた。
ルナは、ぼんやりとしてきた頭を抱えて、よろりと寝室を探しだした。
階下の突き当たりに見つけたのは、全体的に白で統一された落ち着きのある部屋であった。
ルナはそこに遠慮なく踏み込むと、そのままベッドに横たわり間もなく——彼女は泥のように眠り込んだ。
動きを見せる者のいなくなった夜に、もう一度、凛とした静けさが広がっていく。




