不死の王リッチ
——あたしが、この〝精霊の羽衣〟を……。
ルナが羽衣を手に取った、その時——突如として大広間の扉が乱暴に開け放たれた。同時に黒い大量の霧が容赦のない勢いで流れ込み、たちまちのうちに屋内を満たす。
開かれた大扉の向こうに、躯のごとき化け物の姿があった。
そいつは並外れて巨大な体躯を有している。
二メートルを大きく上回るであろうか。ズタズタに裂けたぼろを全身に纏う、負の威厳に満ちた骸骨の化け物であった。
恐怖に色めき立つ人々は、だが動くこともかなわず倒れていった。
流れ込んできた黒い大量の霧を吸い込んだ時点で、ほとんどの人々は即死に近い状態となっていたのだ。
黒い霧は骸骨の体内から瘴気として放たれる、強烈な毒素のようなものだった。
その影響を受けず立っていられたのは、レミナレス王家の三人だけであった。
「ふーむ……私の瘴気を受けても死なぬとは……ひ弱な人間であろうとも竜の王家の血筋という訳か」
王と王妃——そしてルナに視線を定めながら、淀んだ声を発して巨大な骸骨が歩み寄ってくる。
死に臥せっている者たちを平然と踏みつけながら、そいつは黒いぼろと霧を揺らめかせ、異様なまでの自信を放ちながら堂々と近づいてくる。
「レミナレス王家の者どもだな?私は魔女王様配下・六魔導のひとり不死王リッチ……不承ながら、お前たちの命を喰らいに来てやったわ」
言った瞬間ぼろの裾がめくれ上がり、蟲の触覚を思わせる細く鋭利な骨が、目にも留まらぬ速度で伸び切った。
「ぐはっ!!」
喉から声を絞り出すようにして、頑健な王が片膝を崩していた。
不死王の攻撃に、王の胸が刺し貫かれたのだった。
リッチの骨は、鋼鉄もかくやという強度を誇っていた。
刺突として利用すれば鍛え抜かれた槍にも勝る直接攻撃を可能とし、数センチもの厚みのある鉄板を容易に貫通し得るほどの、恐るべき威力を秘めている。
「父上!!」
「あなた!!」
骨の攻撃で心臓をもろに貫かれて、国王はふたりの前で血反吐を吐きながら崩れ落ちていく。
「おのれ!!」
剣を構えて立ち向かおうとする娘の腕を、父王が弱々しく、しかし精一杯の強さで掴んだ。
「に、逃げろ……ルナ……王妃……」
娘を想う気持ちと死にゆく者の悲愴さを混ぜ合わせた表情で、王は短く囁いた。
「ルナ。おまえが勝てる相手ではない……私のことは、いいから逃げろ」
息も絶え絶えに言い切るとあっけなく力尽き、王はがくりと頭を垂れた。
「父上!!」
全身を震わせて絶叫するルナのもとに、ズカズカと不死の王が迫ってくる。
ふしゅーっ!
気味の悪い呼気が響き渡った。
不死の怪物が少女を掴み殺そうと、突き出した左掌を〝ぐわっ〟と広げて無造作に詰め寄ってきたのだ。
「母上!あたしの後ろに下がってて!!早く!!」
胸を焦がされるような哀しみを瞬時に闘志に変え、叫ぶが早いかルナは剣を正眼に構え直した。
慎重に相手を見据えながら、じりっじりっと半歩ずつ横に移動する。
よろめく王妃が安全圏に下がった瞬間——ルナは疾風のごとく不死王に斬りかかった。並の人間では反応することもできぬ、神速の踏み込みであった。
すでに先ほどのリッチの攻撃は目に焼き付けている。まだ他にも能力を隠しているであろうが、これまでの怪物の動きから、速さと技においては自分に分があると踏んでいた。
「てやぁーっ!!」
躍動する気合いとともに、少女の剣が一閃した。
がつーん!!
嫌な金属音が鳴り響き、だが次の瞬間、ルナの体は振り抜いた剣ごと見えない障壁に弾き返されていた。
不死の王が〝にたり〟と笑む。
肉の無い髑髏の貌であっても嗤ったと感じ取れるほど、気味の悪い笑顔だった。
「私はかつて、ルスタリア随一の死霊魔術師だった……」
リッチはおもむろに装飾の施された右腕を掲げた。
そこに嵌められていたのは、髑髏模様が刻まれた黄金の腕輪であった。
それはルスタリアでは誰もが知る、悪名高き〝ラムド伯爵家〟の紋章だった。
その昔ラムド家は、強大な魔力で以てレミナレス王家を乗っ取ろうと画策し、未遂に終わり滅びた一族なのだ。
「私は生前、最強の魔術師であったがゆえに強度の魔法障壁を纏っている。お前のような小娘程度の攻撃では、蚊に刺されたほどのダメージも受けぬわ。むしろ我に挑んだ者の肉体が、我が暗黒魔力に侵され朽ちるのみよ……」
「く!?」
リッチの言葉に、思わずルナの口元が引きつった。
手足の感覚がない——見れば、四肢が完全に白く凍り付いている。
「脆い、脆いのぉ。これがレミナレス王家の力か……ぬははははは!」
不死王の勝ち誇った笑い声が響いた。
「私の体は負の魔力により、超低温に保たれた永久生命体なのだ。お前たち人間は我に触れるだけで、凍てつき死にゆくのみ。さあ、泣け……喚け……叫ぶがいい!!」
立ち上がることもできぬ少女を冷たく見下して、リッチは嘲笑った。
——体が……体が動かない……殺られる……。
自由の効かないルナの体に、絶望という感情がずしりと重くのしかかった。
──ああ……力の差がありすぎる……母上を守れない!
産まれたての小鹿同然の無力な少女の元に、残忍な笑みを浮かべて、不死の怪物が近づいてくる。
「ルナ!!」
だが王妃が、涙に腫らした目で叫びながら、髑髏の怪物と娘の間に両手を広げて立ち塞がった。
「邪魔だ——」
しゅごーっ!
殺気の塊を吐き出しながら、リッチは左手でがしっと王妃の頭部を鷲掴みにする。軽く女の頭ぐらいは握りつぶしてしまうであろう、あまりに巨大で力強い掌であった。
「死ね」
肉の無い歯列が、にやーっと歪んだ。
不死王の手に摑まれた王妃の上半身から、白い陽炎のようなものが浮かび上がる。
それは王妃の命のエネルギーが具現化したものであった。物質化したエネルギーが立ち昇り、リッチの掌に勢いよく吸い込まれていく。
みるみるうちに美しい王妃の顔が、老いさらばえていった。
まるで一秒ごとに数年が経過したかのように、白い張りのある皮膚が醜い皺に刻まれて老いを加速させていく。目は窪み、肉は干からび、髪は瞬く間に白く変色する。
不死王の最も忌まわしき異能——生きる者の命を咀嚼する能力の発現である。容易く王妃の頭を砕く力を持ちながら、彼はあえて最も残酷な殺し方を楽しんでいるのだ。
「は……母上―っ!!」
目の前の見るに堪えぬ惨劇に、ルナは蒼白となった顔を幼子のように歪めて泣き叫んだ。
「やめて!!お願い!!!」
「ぐはははは!!二百年前の我がラムド家のレミナレス王家への恨み!今こそ晴らしてくれようぞ!!」
まるで聞く耳を持たぬ不死者が、どす黒い哄笑を響かせながら、母の命の残り火を有りっ丈まで掠め取ろうとする。
それは、死にゆく者の尊厳までも喰らい尽くす、残虐極まりない行為であった。
もう誰の目にも、王妃が助からないことは明白である。
だが、命の源を搾り取られる直前——それでも母は、精一杯美しく笑いかけてくれたのを少女は見た。
——生きてね、ルナ……私たちの分まで……。
「う、うう……」
泣きじゃくる涙を拭うこともできぬまま、ルナは悪夢を振り払うように頭を振った。
だが、悪夢は消えない。この地上に不死王リッチが存在している限り……絶望の闇がこの世界を支配している。魔女王ラドーシャと六魔導たちが君臨している限り……。
──もう、何もしてあげられないいけど……どうか幸せになってね……ル……ナ……。
消え入りそうな願いと共に、母の最期の命の灯火が無惨にも消し去られた。
「い、いやーっ!!!」
身を裂かれたような、ルナの泣き叫び声が響き渡った。
だが、その時──。
ルナの指に嵌めている紅い宝石の指輪が光り輝いた。未知なる何者かを呼び覚ましたかのような、不可思議な発光現象であった。
直後、それは巨大な焔となって、激しくのたうちながら虚空に現出する。
「むうっ!?」
王妃の遺体を放り投げたリッチが、嫌がるように頭蓋を守る形で両手をかざした。
焔は猛り狂う巨鳥の姿を形作っていた。
その火の鳥は〝ゴゥ〟と唸りを上げてリッチに襲い掛かる動きを見せる。
だが一瞬後、宙を大きく翻ってルナの身と〝精霊の羽衣〟を包み込むと、猛烈な勢いでテラスから飛び去って行った。




