破滅の足音
冥府の底からもたらされるような、不気味な呼吸音が響いていた。
生きている者の呼吸では、ない。
異様な響きであった。
まるで、途轍もない邪悪が闇から生まれ出で、呪わしくわだかまっているかのような──それとも〝死″そのものを暗示する喘ぎ、と喩えるべきであろうか。
その者は、辺りの寂静に奇妙に同化しているが、闇の中むせかえるような濃密な気配となって存在していた。
今宵は、うだるように暑い。
熱のこもった気流が絡み合い、人の耳には聞こえぬ禍々しい鳴動となり、大地のあちらこちらに溶け落ちている。
それは、世界が激変するほどの巨大な災厄の兆し──あるいは、もっと別の尋常でない何か──であろうか。
その応えを示すように、遥か天空を荒れた風が流れ、薄月を遮っていた雲が吹き散らされた。
唐突に月明かりが、大地の闇を薄く照らし上げる。
青みがかった光の中、姿を現したのは波打つ黒いぼろを全身に纏い、頭までもフードで覆う痩身の男であった。
その貌には肉がない。
眼窩にも瞳が無く、鼻は削げ落ち二つの穴だけが残っている。
男の貌は、朽ち果てた髑髏であったのだ。
並の人間ならばそれを見ただけで、恐怖に気を喪失してしまいかねぬ凶貌──その者は命なきはずの骸が永劫の生を得ることによって、現世に生み落とされた存在であった。
〝不死王リッチ〟——それが、この男の魔名であった。
魔女王ラド―シャ配下において、最強と称される六人の大悪魔の一人であり、「六魔道」の称号で讃えられる最凶最悪の魔人である。
ふしゅーっ!
盛大な呼気とともに、不死王リッチの右腕が高く掲げられた。
忌み深き一瞬に、時の流れまでが静止したかに思われた。
直後、大地を震撼させるほどの無数の邪悪な気配が、周囲の闇の中から一斉に沸き上がる。
それはリッチの背後に控えていた、数え切れぬ死者の群れであった。
ゾンビやスケルトンと言われる「アンデッド」の怪物を主力にした、死ぬことなき魔物たちの大軍勢——見るもおぞましきそれらが月影の下、凶悪なる害意をもって王都エルシエラに進軍を開始する。
魔王リュネシスと炎の魔女アカーシャが歴史の表舞台から消え去り、しかし、ふたりの暗躍が開始されてから八年後のことであった。
人類は今まさに激動と波乱、そして滅亡の刻を迎えようとしていた。
その夜、長く地上で栄華を誇っていたルスタリアの王都エルシエラは、列国最強と言われる兵士たちの奮闘も虚しく破滅することになる。
だが、それこそが、この地上においてこれから始まる──最強無比の魔王リュネシスと、悪逆非道なる魔女王ラドーシャとの壮絶な戦いの序章でもあったのだ。
―――― § ――――
ルナは何度も寝返りを打っては、ため息を吐いていた。
暑さのせいなのか、今宵は嫌に寝苦しい。
普段は聞こえぬ時計の針の音が、部屋の重い静けさを逆に引き立てて煩わしく耳を打つ。
その音は上品に洗練された、レミナレス王女の寝室に見えない緊張感となって漂っていた。
──なぜだろう……とても嫌な感じがする……。
また、大きく息を吐いて寝返りを打った少女の感覚が、水を差されたように唐突に覚醒した──。
がばっと跳ね起きて、赤紫色の艶やかな髪を翻えす。
同時に噪音と振動がわずかに轟いた。それは、並みの人間ならば感知することもできぬであろう幽かな響きであったが、鋭敏な彼女の知覚は、「迫りくる災厄」として確実に耳に捉えていた。
ルナは急いで窓に駆け寄った。
遠くに、ざわざわと蠢く無数の気配を感じる。
まるで一つの穴から溢れ返る、解き放たれた黒い蟲の群れのような──ルナは息を呑んで、闇が騒めく一点に赤い瞳を凝らした。むろんそこには闇一色の景観しかない。
しかし、正統な竜の血を受け継ぐ少女には、秘められた力としての超感覚が備わっている。
日常では不要な力として発揮されることがないものの、彼女の必要に応じて、赤い瞳は闇夜に落ちた針をも見分ける、「上位魔導士」の魔眼に匹敵する超視力を発現する。
注がれた視線の先には、頑強を誇る城下の街門が破壊され、明らかに魔物と思しき者たちがなだれ込んでくる光景が捉えられた。
それは、忌まわしい死者の群れであった。
白く濁った目と、骨の見える頬、中には四肢の一部が朽ち墜ちた者もいる。
ゾンビと呼ばれる怪物たちであった。
加えて完全に肉体を失い、骸骨だけの姿となっても未だ物質世界に根強い執着を残し、命ある者を憎み蠢き続けるスケルトンなども存在している。
それらアンデッドたちが、緩慢な動きながら歯止めの利かぬ勢いで、夜のエルシウスの城下町に広がっていく。
──ヤバい!何あいつら!?
ルナは慌てて衣服を着替えると、愛用の剣と、幼い頃から御守りとしている紅い宝石の付いた指輪を素早く指に嵌めて、回廊に飛び出し国王の間へと駆けて行った。
すでに回廊は、魔物たちの襲来に対応する衛士たちで騒めきだしており、王女に気づいた一人の兵が走り寄る。
「姫!」
栗毛色の髪が映える逞しい青年であった。城の兵たちの中でも、レミナレス王家を最も間近で守護する近衛隊長エッケルトである。
「エッケルト!街に魔物たちが溢れかえってるよ!母上と父上は大丈夫なの!?」
「すでに報告を受け、国王の間におられます!姫もそちらへ!!」
エッケルトが先導して走り出したので、ルナも後を追って回廊を急いだ。
押し殺そうとする不安が、胸の中で際限なく広がってゆくのを感じながらも、少女は前だけを向いて駆けて行った。