終幕
「……終わった」
魔王は瞑目していた表情に、なおも威厳を籠めて、低く呟いた。
極限状態にまで集中していた意識が解かれ、彼方に浮遊していた魂が今ある肉体に戻っていく。
ややおいて、彼はようやくゆっくりと目を開いた。その視線の先には、白夜の鞍上に体を横たえているアカーシャの姿があった。すでに貌の汚れは拭われ、もとの美貌を取り戻している。
エルシエラでの魔王の威容——〝神霊力″により自分の中にある心象を具現化して、巨大な幻像を現出するこの力には途方もないエネルギーを要する。
アカーシャやケルキーの得手とする幻術や妖術とは違い、物質世界に依り代もなく現し身を現すこの力は、魂を肉体から離脱させ〝神霊力″により限りなく実体に近い霊体を顕現させる、神の——否、魔王の御業であった。
扱いの難しい巨大な力の行使と同時に、双頭守護神を眠らせるために成した、おぼろげにしか知覚していない無限の光の中への強制的な精神潜行——それらにより心身ともに生じた莫大な負荷にぐらりとよろめき、リュネシスは片膝をついたまま、まだ立ち上がれないでいる。
さすがに疲弊を隠しきることができぬ状態だった。それを物語るかのように、うずくまる魔王の黒いマントが、激しい疲労を込めて背中越しに大地いっぱいに広がっている。
「……大丈夫?」
アカーシャが横たえていた体を無理に起こしながら、心配そうに訊いた。
リュネシスは暫くだけ俯いてはいたが、おもむろに貌を上げると何でもないように返した。
「……帰ろう」
「ええ……」
もう強敵ライガルは跡形もなく消え失せていたが、ふたりはあえて、そのことには触れなかった。
ばさっ!と風を起こして、ふたりを乗せたペガサスが力強く羽ばたいていく。
その白夜の鞍上で、魔王は全身を血に染めた満身創痍の魔少女を腕にしっかりと抱きながら、彼女の貌をのぞき込んだ。
「アカーシャ——なぜ最初から私を頼らなかった?」
リュネシスは、黒い姫の貌にまだ少しだけこびりついていた血痕を、指先でそっと拭う。
感情の読み取れぬ声だったが、その気持ちはアカーシャには痛いほど伝わった。わずかだが彼の掌から、癒しの波動が流れてくる。先ほどリュネシスがアクセスした、高位次元の光の残り香であった。
アカーシャは男の腕を愛しげにつかむと自分の胸にそっと添え、心地よさそうに目を細める。
「自惚れないで……あなたが私を護るのではなく……私があなたを護るのよ……」
リュネシスは黙したまま、しばらく前方の景色に目を向けていたが、ややあって勁い表情でアカーシャを見つめた。
「だめだ。もう二度とこんな勝手は許さん」
「……解ったわ」
ふたりの口調は、その言葉とは裏腹に妙に安らかだった。ほろ苦く心地よい沈黙が、ふたりの間を暫し流れて——。
やがてアカーシャが、ふと思い出したように訊ねた。
「ねえ、リュネシス」
「うん?」
「なんで、このことが解ったの?」
アカーシャには解せないことだった。ライガルとの戦いをリュネシスには悟らせないよう、最善の手を打っていたはずなのだ。
「……犬だよ」
リュネシスは、抑揚のない声で応えた。
「え?」
「いきなり現れた子犬が、私の袖に食らいついてしつこく引っ張った。必死に何かを訴えて……そいつの心を読んだから解ったのさ」
「!」
わずかにぎくりとなったアカーシャの背を、安心させるようにリュネシスは優しく撫でた。
「家畜はご法度のはずのディアム城に、なんであんな犬がいたのか分からん。でも、気に入ったから養ってやることにしたよ——私たちの犬にしよう。アカーシャ……おまえが世話をしてやれ」
「分かったわ」
アカーシャは、固まっていた表情を心底嬉しそうに崩して微笑んだ。
そんな彼女に、リュネシスはいたずらっぽい流し目を送った。まるで、無邪気な子供のような目線で──。
「しかし妙だな——あんな牧羊犬の子犬が、なんでディアム城にいたんだ?なあ、アカーシャ……」
「さあ、なんでだろうね?リュネシス……」
アカーシャも、負けじといたずらっぽい視線で返した。
リュネシスは、柄にもなくすっきりとした表情を浮かべながらも、そこから少しだけ改まった口調に変えた。
「無力な子犬がお前を救うために、命がけで私に食らいついてきたんだ。あんな小さな体でな……いじらしくて忠義なやつだ。大事にしてやろう」
「ええ。私たちの犬ね」
また、心地よい静けさが流れて——。
「リュネシス……」
「うん?」
「愛してるわ」
「私もだよ。アカーシャ……」
ふたりはあどけない笑みを零して見つめ合った後、その貌を前方に向け、目の前のどこまでも広がる無限の世界を眺めた。
その世界は、忌み子であるはずのふたりを今は、心温かく迎えてくれているかのように見えた。
麗しい男女を乗せた白馬はもう、ルスタリアの国境を悠々と超え、純白に輝くアルゴスのマトレイ山脈地帯に差し掛かろうとしていた。




