救援
辺り一帯が、見渡す限りの焦土と化していた。
煙と土埃が舞い上がり、むせるような硫黄の匂いが、もわりと立ち込めている。大地のあちらこちらが渦巻く火に燻ぶっており、岩一つ残ってはいない。
それら岩石すらも、さきほどの凄まじすぎる呪力で瞬時に消滅したからだった。所々に溶岩流が沸き溜まり、ぼこりぼこりと鈍い音を発している。
そんな死の大地の中央に、わだかまる染みのごとき影があった。
〝人〟のように見受けられるが、それにしては動きが全くない。そして、人にしては途轍もない巨躯を有している。
それは、大寺院を守護する鬼神像を想起させる、見事なまでに鍛え上げられた肉体を持つ漢——ライガルであった。彼はまるで石像のごとく、太い腕を頭の上で十字に決めて立ち固まっていた。
ややおいて——。
煙の中から、もう一つの影らしきものが蠢いた。
それは、巨神を思わせるライガルの体躯に比べると、いくつにも割ったように遥かに小さく弱々しく見えた。
だがその小さな体が、意外なまでの底力でゆっくりと漢に近づいていく。折れそうになる膝の脱力を、膨れ上がる憎悪の力でかろうじて補い、一歩一歩を踏み出していく。
「……殺してやる……殺してやる……」
呪いの言葉を何度も唱え、ボロボロに避けた黒衣のドレスを纏う少女——灰と土埃に塗れた貌で、血の涙を垂れ流しながら呻くのは、無惨にも変わり果てたアカーシャの姿であった。
「よくも……人間ごときが、この私の美貌までも……よくも……!」
アカーシャは怒号した。
紅い眸を激怒と狂熱にギラギラと輝かせて、ライガルを睨みつけながら、彼女はふらつく足で歩み寄って行った。
もう、炎を現出する魔力はない。
が、魔眼だけはまだ、剣呑な力を残していた。力尽きて指ひとつ動かせぬライガルの、心臓を止めるぐらいは十分に——。
物言わぬ闘神の間近にまで迫り寄ったアカーシャは、凄絶な笑みを浮かべた。
もし、贄を捧げられた悪魔が邪悪に嗤うとするなら、おそらくこのような貌になるのであろう。
「死ね!ライガル!!」
紅い眸が禍々しい光を帯び、今度こそ無力な漢にとどめを刺さんとした、その時である。
「……よ」
ライガルの唇が、奇跡の力を借りてぼそりと動いた。
素朴で、温かくて、どこまでも懐かしい声を発して……。
「おまえは……とても優しくて、賢い子だ。その力を……正しいことに……使いなさい……」
「?」
ぎくり、とアカーシャの動きが固まった。
そんな彼女に語りかけるかのように、ライガルの口元に朴訥な笑みが浮かび上がっていった。
「父さんは……信じて……いるよ……」
「!」
アカーシャが、目を見開いて絶句する。
「う……」
アカーシャの眸に宿っていた、憎しみの炎がゆらりと揺れる。
「……う、うう……」
その眸の炎が揺れて、揺らめいて、大きくうねって──そして消えていった……。
次の瞬間、魔少女の脳裏を一筋の光が刺し貫いた。
「うう、ううううううううううわあああああああああああああ!!!」
アカーシャは絶叫した。
眸から光彩が消え、未完成な禁呪の発動により内奥で生じかけていた負荷が、今になって彼女の肉体を襲い、全身を真っ赤な炎で包んだ。
「お、お父さん!お父さん!!おおおおおおおおおおおおおお!!!」
地獄の業火を全身に纏い、灰と泥にまみれてもなお美しいその貌を、苦悶の表情に歪めて胸を掻きむしる。
喚き、呻き、よろめき続ける。
「おおおおおおおおおおおおおわああああああああああああ!!!!」
見えない何かに摑まろうと、のたうつようにもがき続ける。
燃える体を懸命に両手で抑えながら彷徨わせる。いつまでも、どこまでも、足掻き、苦しみ、叫び続け……そして——。
今度こそアカーシャが力尽き果て、膝を折って地に伏した。分裂した炎と血が、魔少女の体からぼたぼたと大地の上に流れ落ちていった。
だが、その時——。
どこからか〝風〟が吹いた。
天つ風を思わせる、不可思議な魔力を帯びた〝風〟だった。
その風は、まるで意志を持っているかのようにアカーシャだけを優しく吹き抜け、彼女の全身を燃やす炎を、瞬く間にかき消していった。
風が、旋を巻いた——。
旋は静かに幻妖な動きで、人の姿を模った。それはゆっくりとだが、滑らかな流れで空間の中に溶けていき──。
いつの間にか魔少女の傍らに、強靭な漆黒のマントをなびかせた、美しい若者が立っていた。
舞い上がる土埃すら全く寄せ付けない、煌めきに満ちたプラチナの髪。吸い込まれそうに魅了させる瞳は、碧と金の左右異なる光を宿す。高く細い鼻梁と理想的形状の唇も芸術美と呼ぶに相応しく、まだうら若い少年にしか見えぬ儚い印象とは相反して、全身から発する気配には一分の隙もない。
漆黒の魔少女アカーシャに比しても、全く遜色のない美貌を誇る若者——そして、アカーシャを凌駕するほどの殺気を発する存在——たった今、意識を取り戻したばかりのライガルは、すでに気づいていた。
目の前の極上の黒衣を纏い、神々しいばかりの輝きと、絶大な妖気を放つこの若者こそが、魔王軍の総大将として真の頂点に立つ〝魔王リュネシス〟その者であることを——。
ライガルは、心の底からぞっとした。
立つこともやっとのこの体では、最強無比を誇る〝魔王〟を相手に一瞬たりとも持ち堪えることはできぬ。
だが若者には、瀕死の漢を相手にする意思はないようであった。
「アカーシャもういい」
ライガルには見向きもせず、魔王は魔少女だけに視線を向けて、似つかわしくないまでの繊細さと気遣いで彼女の腕をそっと引いた。
「もう、これ以上戦わなくていい」
「う……リュ……」
残った腕で、震える自分の体を抱くようにして、魔王を見上げるアカーシャの表情には、年相応の少女らしいか弱さが、初めて垣間見えた。おそらく、この若者にだけ見せる貌なのだろう。
「もういいんだ。力と能力ならおまえは明らかに勝っていた。奴もそれぐらいは解っているさ」
アカーシャが無理に立ち上がろうとして、口を開きかける前に、リュネシスは彼女を力強く抱きしめた。彼にできる精一杯の優しさを籠めて──。
「もうやめろ……アカーシャ。私はいつでもおまえの側にいる。頼むから、もう戦わないでくれ。おまえは何も悪くない。後はすべて私に任せろ」
「……う……うん」
その言葉の真意は、他の誰にも理解できないものであったが、アカーシャだけには何よりも大切な意味があった。魔少女の目から、感極まった涙が零れ落ちる——だが彼女は貌を逸らして、意地でもそれを見せようとはしなかった。
リュネシスは無言で、ぼろぼろに傷ついた魔族の姫をそのまま抱き上げる。
すると待っていたかのように、ふたりの背後にゆっくりと近づいてくるものがあった。羽の生えた白一色の巨馬——魔王の愛馬である〝白夜〟と名付けられるペガサスであった。
白夜はふたりの傍まで音もなく歩み寄ると、魔少女をいたわるように前足を折ってその背を晒した。本来、魔王以外には絶対に許さぬはずの神馬の背を——。
アカーシャは思わず表情を和らげて、ようやくリュネシスの腕の中で脱力したかのように見えた。
だが直後、彼女は閉じかけていた目を〝はっ〟と開けると、掠れる声で男に訴えた。
「……リュネシス……お願い……ケルキーを……第三魔軍を止めて」
「?」
「私たちは……永遠にこの世には受け入れられない忌み子だけど……それでも、道だけは踏み外してはいけないわ……」
アカーシャの紅い眸が、これまでにはない勁い光と熱い涙を宿してリュネシスの目を直視した。
魔王は、暫し沈思した。
そして、アカーシャの言葉をしっかりと理解したかのように、彼女の目を見て頷いた。
「わかった」
そう言い切った直後、彼は魔少女と同じような、毅然とした勁い表情をエルシエラの方角に向けていた。
エテルネルをご覧いただきありがとうございます。
もし、本作を《気に入った》あるいは《続きが気になる》と思っていただけたならブックマーク登録か、できれば広告下にある「☆☆☆☆☆」から評価していただけると、とてもありがたいです。
皆様の応援をいただいて始めて、本作を最後まで書き上げる原動力になるからです。
どうかよろしくお願い申し上げます。