焦燥する妖術師
「あ、アカーシャ様?」
ケルキーは、ぎょっとして北の空を向いた。
それは、強い魔力を持つ者だけが受け取ることのできる一種の精神感応であった。遠い地で呪が炸裂し、大気が燃えて、震えたのを感じたのだ。
何か、ただならぬことが起こったのではないか?
ケルキーの胸が嫌な予感に騒ぎだし、その奥から昏いさざ波が湧き上がってくる。
すでにクレティアル城を完全包囲し、いつでも陥落できる準備は整っていた。
しかし、目前の城の雰囲気も〝何か〟がおかしい。
窓際から立てこもっている兵たちの姿が散見できるが、それにしても人の気配が嫌に薄いのだ。
納得できぬ違和感に警戒したケルキーは、内部の様子を確かめるべく斥候を送り出し、荒ぶる軍を待機させていた。
直情的で誰よりも優秀であるがゆえに、相手を見下してかかる傾向のあるケルキーであったが、それは彼女の一側面に過ぎない。物事の重要な局面——特に戦において大事な判断を要する個別の場面・場面においては、この妖術師は指揮官として意外なほどの慎重さで事に当たった。
相手が格段に劣る存在であろうと油断して無策に走るほど愚かではなく、最悪の事態も想定し、必ず己の利になるような慎重な布石や切り札を二手・三手と用意しておく。
それこそが魔王軍において「名将」としてその名を轟かせる妖術師ケルキーの強みであり、うら若くして〝五妖星〟と呼ばれるほどの立場を確立した所以でもあった。
そうでなければエルシエラにおけるこの戦いも、とっくにベテルギウスひとりに足元をすくわれ、第三魔軍は壊滅に近いダメージを追っていたであろう。
今、ケルキーは斥候からの知らせを待ち、王宮を見渡せる岩場に無言のまま目を閉じて座り込んでいた。周囲は魔物たちによる派手な破壊音や、品のない雑談の喧騒に包まれていたが、彼女は目もくれなかった。
——間違いなく、アカーシャ様に何かがあったのだ……。
ケルキーは今、第三魔軍の指揮官として、新たなる決断の時に迫られていた。
信頼の置ける配下であるはずの、斥候たちの帰還もやけに遅い。
——急がねばならぬ……急がねば!
だが、ここでの最悪の事態も想定しなければならぬ。妖女は思考を巡らせた。
──罠か?たとえ罠でも、恐るべきはベテルギウスひとりのみ。何よりもアカーシャ様が……。
胸がざわざわと苦しくなり、気持ちの悪い危機感を告げている。
——えーい!埒が明かぬ!!
ケルキーは、カッと両目を吊り上げた。
「突撃を開始する!!」
―――― § ――――
幼い頃の夢を、ライガルは今でも見る。
一面の緑の野原に、彼はいた。
そよ吹く春の風が気持ち良く、そして懐かしい──デュアール平原だった。
あたたかい季節特有のうららかな陽気に満ちた青い空の下、どこまでも広がる緑の海原——ライガルは、父と何度この平原に来たことだろうか。
幼いライガルは駆けている。父がゆっくりと後からついて来る。
この頃から多少老いの兆しがあった父は、きっとライガルのように早くは進めなかったのだろう。子供心に浮かれる足を止めて、ライガルは健気に待った。やがて父が幼子に追いつく。
次の瞬間ライガルは、木陰に腰かけて父と話し込んでいた。父が何かを自分に伝えている。
いつもなら、ここで夢が途切れて目が覚める所である。
しかし今は、いつもの儚いシーンとは違い、父の声がはっきりと聞こえてくる。
ライガルは、生きていた。
あの超灼熱地獄の中、最後の力を振り絞り究極奥義〝羅闘龍勁〟を最大発動させ、頑強な闘気の鎧を纏うことで、かろうじて己の身を守り切ったのだった。
そして、アカーシャの〝禁呪〟は、やはり完成されなかった。
彼女自身が、すでに限界に近い満身創痍の状態にあったため、魔眼が無意識の内にアカーシャの肉体に付加をかけないよう〝禁呪〟にセーブをかけ、限りなく完成に近くも、未完成の呪として発動させたからであった。




