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エテルネル ~光あれ  作者: 夜星
第二章 修道女プシュケ
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魔王の恋

 白いほどにえた太陽光が、魔都まとエリュマンティスの街並みをまぶしく照らしている。

 すべての建物に満遍まんべんなく降り注ぐ光がはね返される中、複雑に入り組んだ街路のあちらこちらでは、人々がせわしなく動き回り商店や露店の集まる所をめざしたにぎわいを見せている。


 ちょうど、真昼のさなかの時間帯であった。


 そんなエリュマンティスの中心にある巨大な魔城〝ディアム城〟の一室──薄暗い屋内で、時折カツン、カツンと乾いた音が鳴り響いている。


 それを発したのは、四隅にせいな彫刻をほりこまれた特注のゆうばんす、美しき人外の存在──幾色もの極上の貴石を散りばめた、深い光沢のある黒いマントに身を包む若き魔王リュネシスであった。


 魔王が座する〝嘆きの御座(デス・スルーン)〟の前には、がんじょうな樫の木で作られた円卓がそなえ付けてある。この卓上に置かれた、いかにも使いこまれた風情のある上質の遊戯盤──〝倒竜棋(ビルディ)〟と呼ばれるアルゴスの将棋──と彼は向かい合っていたのだった。


 円卓を挟んだ魔王の右側に、高貴なドレスをまとったひとりの少女が、ひっそりと横すわりをしている。


 見たものの目を疑わせるほどの、絶美を体現している黒衣の少女──〝炎の魔女アカーシャ〟であった。


 アカーシャは無言で、なめし革をはられた分厚い「魔導書」を一心に見つめていた。

 長いまつ毛を伏せるようにした半眼に宿る紅い瞳が、この上もなく妖美な視線を、難解極まる「魔導書」の紙面上に落としている。


 アカーシャの胸に飾られた唯一の装身具アクセサリー──よいの明星をかたどった〝魔紅玉の首飾り(ルビーのネックレス)〟が、その内側で淡い魔法の光をゆらす。


 それに呼応するがごとく、魔王の耳許をそえる〝クリスタルピアス〟も、継続的にほんのかすかな発光現象をくり返している。


 それらはその場に不可思議な魔法的力場を造り上げ、何人であろうとも容易には近寄ることが許されぬとくな空間を形成していた。


 こくしょくのふたりは長い時間、ほとんど同じ状態で黙したままであった。

 だがそれが、あたかもふたりにとっての自然体であるかのように、ゆるく落ち着いた空気感をかもし出している。


 そこは「静寂の間」と呼ばれるディアム城の広間だった。


 城内にいくつもある広間のうち最も広く、ふたりが最も好んで使う居室であり、そこは事実上の魔王の間となっている。


 あまり太陽の光を好まぬ──特にアカーシャは──ふたりの広間は、開け放たれたバルコニーの大半をおおう黒天鵞絨ビロードの窓掛けになかば遮光しゃこうされ、彼らにとっては程よい調光となっていた。


 その穏やかな雰囲気の中で、魔王は黙々と駒を指し続けている。


 魔少女もまた、静かに読書にふけっている。


 アカーシャは、リュネシスと過ごすこの時間が、何より好きだった。それは彼女にとって、もっとも落ち着いて、自分らしくいられるひと時だったから──。


 魔王が、あまの宮女たちをはべらしていることは気に食わない。たまにだが、宮女たちそいつら全員を自分の魔力で焼き殺してやろうかと本気で思うこともある。


 だが、どうせ人間の娘たちなど、咲いては散るもろはかない存在に過ぎないのだ。そんな取るに足らない人間の女たちに嫉妬するなど、魔族の皇女として永遠の時を生きる魔少女のプライドが許さない。


 だから、そのことは大目に見ることにしている。

 それに考えてみれば〝魔王〟のたしなむ〝遊び〟としては、リュネシスのやっていることは、かなり控えめと言えなくもない。


 それとて、ここ最近のリュネシスは、宮女たちをあからさまに遠ざけているふしがある。

 もう二月近くも彼女たちと交わろうとはしておらず、酒を呑むときですら、その量を加減してほぼひとりで過ごしているという始末なのだ。


 アカーシャには、その理由が解っている。


 何年かに一度、彼は一定期間このような状態におちいることがある。

 人間で言うところのうつ状態──に近いだろうか。その場合、ほとんどの時間を瞑想か今のような孤独なたわむれなどの時間でついやし、ひとり深い思索にひたっているのだ。


──ふふ……。


 アカーシャの唇が、魔王に悟られぬようあでやかな笑みを形作った。


 本当は、思わず声を出して笑いそうになりかけているが、けして彼をちょうろうしたい訳では無い。


 ただアカーシャは、この男のこんなところがたまらなく好きなのだ。一見、誰よりも強いようでいて、それでいながらとても繊細な一面を持ち合わせている、魔王らしからぬ心細やかな部分が──。


 こうなったきっかけは、宰相テュルゴの報告にあった、魔女王軍の国境侵略からたんを発した局地戦争による多数の犠牲──とアカーシャは推察している。


 アルゴス国境の安全は無事守られたものの、かき集められた若者ばかりの増設軍による千人規模の戦死報告がされて以来、リュネシスはずっとこんな調子である。

 言葉にも表情にも一切あらわさないが、意外にも何らかの責任か義務感を感じているのだろう。別に魔王であるリュネシスが、人間たちのために戦う道理などないのだが……。


 誰もが彼を、冷酷無慈悲な悪魔だと考えている。


 しかし、魔少女だけが見抜いているリュネシスの本質──その秘密を知り、そこに触れていいのは、永劫の苦楽をともにする自分だけなのだ。


 ほろ苦い想いを共有する心地よさに、アカーシャの頬がまたゆるむ。


 長年連れい合っている者として、こんな時だからこそ優しい言葉をかけてあげよう。本当の彼を理解し、内助の功を示すことができるのは、他の誰でもない自分だけなのだから……。


 魔少女がそのように考えていた時──せいしゅくに駒を指していた魔王の手が、突然止まる。


 彼はふと、密やかなため息をついていた。

 それに気づいたアカーシャが、さり気なく「魔導書」から視線を外して、玉座に座る魔王を見上げた。


「ねえ、リュネシス」


「うん?」


 魔少女が魔王に──リュネシスだけに、しばしば語りかけてくる親密な口調にこたえるために、彼はたとえ気だるいときでも、なるべく語気を合わせるように努めている。


「あなた最近──」


 紅い瞳を探る感じに動かしたアカーシャの言葉におおいかぶせるせるようにして、心地よい声が響きわたる。


「失礼いたします」


 茶器をのせた盆を大事そうに両手で抱えて、可憐な少女が歩み寄ってきた。


 プシュケである。


 はつろうでのトラブル以降、プシュケは魔王の計らいにより、他の宮女たちから遠ざけられ、個別に彼の食事や酒を運ぶ侍女として仕えていた。

 そして、その聡明そうめいさゆえに、最近では特別に王の間への出入りが許されるようになっていたのだ。


 機嫌の良さに、アカーシャはつい失念していた。

 他の宮女たちが魔王とえんにされている今でも、プシュケだけはそばに置かれていることを。


──ああ、そう言えば……あの宮女ばかどもが余計ないざこざを起こしたせいで、この子だけは特別扱いになってたな……。


 プシュケに話をさえぎられた形になったアカーシャの眉が、ほんのささやかだが不快感をあらわにするように跳ね上がった。


 そんな魔少女のいらちなど何も知らないまま、ふたりの元に近づくプシュケが、クスッと笑った。それだけで沈滞気味だった辺りのムードが、花が咲きほこったようにガラリと変わる。


 少女の失笑ですべてに無関心なはずの男が、心なしか〝ぴくり〟と反応したように見えた。だが、けしてかんさわった訳ではない。


「申し訳ございません。いつもひとりで”〝倒竜棋ビルディ〟をされているのが、つい気になってしまいまして──」


 ゆえに屈託くったくのない目で見つめてくるプシュケと目線を合わせると、魔王は拍子抜けしたように表情をゆるめた。それは、彼がめったに見せぬ穏やかな微笑みと言えるものかもしれない。


 二ヶ月前、エレナたちの暴行から助けてやった後、リュネシスはプシュケを解放しようとした。そのように直接通達をし、魔法も解いてやったはずだが、プシュケははっきりと城にとどまりたいとの意思を示した。


 そしてその数日後、与えていたはずのマントをきれいに洗い清め、心のこもったお礼の言葉とともにリュネシスに手渡してきたのだ。

 丁寧ていねいに折りたたまれたそれを、少女から直接受け取った時──それだけのことだったが、魔王の心の琴線きんせんに触れるものがあった。


 そうして彼は、修道院上がりの新米宮女に、特別な計らいをすると決めたのである。


 このことは、ふたりだけの間にあったことで、他にだれも知らない。


 ただそれ以降、少女はここに来る前がそうだったであろう元のほがらかさを取り戻し、元気に魔王の下で仕えている。


「あ、すごい……全部の駒が一進一退の完全な配列で向き合ってるじゃないですか!」


 何気なく盤上をのぞき込んだプシュケが、驚いたように明るい声を張り上げた。


「すごいですリュネシス様。ひとりで”〝倒竜棋ビルディ〟をするだけでも大変なのに、それをこんな見事に展開させるなんて!」


「ふん、造作もないことだ。世界中にある戦術パターンを戦況に応じて練り上げて修正・展開させていく。まあ、四千はある戦術すべてを暗記したうえで、それをりん応変おうへんに対応させることができれば……の話だがな」


 冷めた態度を取りつつも、リュネシスは得意げに鼻を鳴らした。アカーシャから見ても、ここまで砕けた雰囲気をただよわせる魔王は珍しい。


「あ、あんな難しい戦術を四千も……ひとつ覚えるだけでも大変なのに……」


 プシュケのきれいな翠玉エメラルドの瞳が、感嘆に大きく見開かれた。


「やっぱりリュネシス様はすごいです!天才です!大天才です!!」


 語彙ごいりょくはないが年相応の無邪気なしょうさんに付け加え、憧れの目で見つめてくる少女の視線を、冷ややかに魔王はらしている。

 だが、本心はまんざらでもないのか、唇の端をわずかに嬉しげにつり上げていた。


──こいつら、いつの間にこんなに仲良く!?


 目の前のふたりのささやかな〝たわむれ〟に、アカーシャの瞳の奥に宿る炎がはげしく燃え上がる。


「はしゃぎすぎですよプシュケ!魔王様の前ではしたない!!それに、たしなみの時間には、まだ早くありませんか!?」


 魔王とは対照的に、機嫌をそこねたアカーシャのするどとがった視線が、まだいたいけな少女を真正面から突き刺した。


「申し訳ございませんでした……夕刻のお酒ではなく、お茶をお持ちしたのです」


 アカーシャの怒気を軽やかに受け流しつつも丁重に詫びると、プシュケはバルコニーに出て、小さな白いテーブルに品の良いティーカップを並べ始める。


「ここは日傘を差しているので、そんなに眩しくはありません。リュネシス様もアカーシャ様も、たまにはおいしいお茶でもお飲みになりませんか」


 バルコニーの外で眩しく浮かび上がっている太陽を背にする少女が、あふれる光の中でにっこりと笑った。


          挿絵(By みてみん)


 それを見たしゅんかん魔王は、そよ吹く春の風が、みずみずしい生命いのちとともに優しく流れ込んできたかのような錯覚におちいる。常に魔性をたたえる妖麗ようれいな表情が、その眩しさにかき消され──。


 せつのことだったが、アカーシャはそれを見逃さなかった。


 みょうな静寂が通り過ぎる。無意識に途切とぎれた呼吸とともに、すべてが停止したかのような一瞬が──。


 その一時は、魔王が目を閉ざし内面のゆらぎを断ち切ったことで速やかに消え去った。再び目を開けたときには、すでにいつもの冷徹な王者の風格が立ち返っていた。


 何事もなかったかのように、リュネシスは顔を少しだけ横に傾けて、隣にいる魔少女に目線を送る。


「──茶か。たまにはいいかも知れないな」


「くだらない」


 アカーシャは、耐えがたいと言わんばかりに吐き捨てた。


「日に焼かれながら私たちが、田舎娘の用意した下品なお茶を飲まなければならない意味が解らないわ」


「アカーシャ──」


 甘い声でたしなめようとする魔王を無視して、漆黒の魔少女は「魔導書」を閉ざしながら立ち上がっていた。


「私は遠慮しておく。どうぞご勝手に──」


 一刻も早くこんな場所からは立ち去りたいと言わんばかりの、あからさまなとげをふくませて、魔族の姫は冷ややかに出ていってしまった。


 大切なひとりの存在感を失ったその場が、わびしいまでにシーンと静まり返って──。


「……あの」


 後に残されたふたりっきりの、なんとも言えない気まずさにはさすがに耐えられず、少女は遠慮がちに近づきながら、心苦しそうなうわづかいで上段に位置する魔王を見上げた。


「気にするな……アカーシャはあんな性格だが、いい女だ」


 立ち去った魔少女の背に向かってわずかな吐息をはきながらも、特に意に介した風もない、いつもどおりのリュネシスの口調だった。


 その、本当に今しがたのいさかいを気にかけていない様子に、乙女はほっと胸をなでおろす。


「茶にしよう。おまえの言う通り、今日はそんな気分だな」


 気を取り直すように明るく言いながらリュネシスは立ち上がり、バルコニーに向かって歩きだした。


「はい」


 嬉しそうに返して、プシュケもリスのように軽快な足取りで後に続く。


 バルコニーにはテーブルのそばに、白い木造りの小椅子がふたつ用意されている。そこに近づいたリュネシスは、少し考えてからそのひとつの椅子を選んで、ゆったりと腰を落とした。


 座ったリュネシスの邪魔にならないよう気を配りながら、プシュケは要領のいい動きでティーカップに茶を注ぐ。やがて香り高いハーブの鮮やかな芳香が、周囲にただよっていった。


「アカーシャ様のおっしゃるとおり、あまり高価な物ではありませんが、昔よく母と飲んだハーブティーです。執事さんに頼んで、特別に取り寄せていただいたんです」


 乙女の清々すがすがしい声が辺りの空気に溶け込みながら、ハーブの香りを乗せて響きわたっていく。


「そうか」


 平然とうなずいてからリュネシスは、空いているもう一つの椅子の方にあごをしゃくってみせた。


「?」


 きょとんと無邪気に首をかしげたプシュケだったが、すぐに意味を理解してうろたえる。


「え……でも……」


 続けてリュネシスは、その椅子を人差し指で二度、突くようなぐさをした。


「いいから座れ。おまえがそこにいないと、誰が私の茶の相手をするのだ」


 冷淡な言い方とは裏腹に、どこかしら温もりのある声だった。


「……はい」


 本来なら、魔王と宮女が対等の席につくことは許されない。端正たんせいな顔を赤らめて、プシュケはしばらくもじもじと迷っていた。だがやがて、覚悟を決めたようにしなやかな動作で椅子に座る。


 それを見て〝ふっ〟とリュネシスは微かに微笑み、口元に緩やかに茶を運んだ。熱い液体が喉の奥まで流れ込み、口内がこうばしいハーブの香りのいんに浸されていく。


 リュネシスは〝ふーっ〟と息を吐き出して、薄く目を閉じた。


「気に入って……いただけましたか?」


「……ああ」


 ぶんそうおうな場所に座らされ、ぎこちなく問うてくる少女の緊張を解きほぐすためなのか、リュネシスは優しくこたえた。


「悪くない味だな……」


 魔性のひとみを宿す視線を遥か彼方かなたにまで注ぐ──若き魔王の限りなく美しい横顔が、陽の光を浴びてキラキラと虹色に変色する光の粒子をまとわせている。


 その神秘的な光景に、少女は張りつめていた心を溶かされ思わず見とれてしまう。


「茶などひとりで飲んでもつまらん。おまえも飲め……」


 白昼夢にひたっているような状態のプシュケに、リュネシスの落ち着いた声がかかった。


「……はい」


 現実に引き戻された乙女は、もう余計なことは考えず、素直に空いているティーカップに茶を注ぐと、そっと唇をつけた。彼女の口の中にもほのかに、甘い茶の香りが広がっていく。

 ゆるく心地よい雰囲気を味わいながら、プシュケはもう一度無意識に目の前の若者に目を向けていた。


 その時、かくに飛び込んだ若者の背景を見て気づく。彼がさり気なく、景色がよく見える今の席をゆずってくれていたことに。


──みんななぜ、この人のことを魔王と呼んで恐れるのだろう……。


 プシュケは、切ない胸の高鳴りを覚えた。


──本当は、こんなにも温かいというのに……。


 甘いうずきが、乙女の内側に広がっていった。


──こんなにも美しいというのに…。


 いつの間にか少女の顔が、魔王を見つめたまま朱色に染まって固まっていた。


 プシュケが急に不自然に押し黙ったのに気づき、リュネシスがげんそうな表情を向けた。


「どうした?」


「い、いえ……そう……ちょっと、昔のことを思い出してしまって……」


「昔のこと?」


 とっさにいて出たでまかせだったが、もう引っ込められない。流れにまかせてプシュケは、先ほど言いかけた話を思いつく。


「幼い頃ちょうどこの時間が、毎日のティータイムでした。母がれてくれるお茶はとても美味しくて……」


〝あっ〟と口元を抑えて、また何かを思い返したプシュケが、いたずらっぽい笑みを浮かべる。そうして脇に置いた盆の上にせっ放しだった茶菓子を手に取り、リュネシスの前にそっと並べた。


「母が作ってくれた、こんなお菓子もとても美味しくて……母とふたりで過ごすこの時間が、とても好きでした」


「そうなのか」


 軽い微笑みを右の頬だけに浮かべて、リュネシスはプシュケにすすめられた焼き菓子を、無造作に口の中に放り込む。小麦粉を丁寧ていねいに練って焼いた、ほんのりとした甘さが舌の上で溶けていった。


「これも、おまえが作ったのか?」


「はい。母からの受け売りですが──」


 知らずに両頬までもほころばせたリュネシスは、無言で焼き菓子をふたつ、みっつと口にする。まるで子供に帰ったかのようであった。彼は立ちどころに菓子を平らげると、また満足そうに吐息をついて、乙女が新たに注いだハーブティーを唇に流し込んだ。


 その後、ようやくいつもの自分に戻ると、ゆっくりと茶をすすりながら、今しがたの幼気な態度をごまかすかのように外の景観に顔を向け、目を細めながら呟いた。


「……まあ……悪くない味だったな──」 


「よかった」


 プシュケは明るく笑うと、空になったリュネシスのティーカップに最後の茶を注ぐ。

 ほどよく冷めかけた珀色はくいろの液体が、とくとくと注ぎ込まれ、カップをちょうどよい八分目にまで満たした。懐かしいような清涼な香りが、再び周りに広がっていく。


「リュネシス様」


 きゅうを置いた乙女が、母性のこもる翠玉エメラルドの瞳で魔王を見つめた。


「なんだ」


 リュネシスは、遠くをながめる姿勢のままで問い返した。


「少しお疲れでは……全然眠れていないのではないですか?」


「……」


 プシュケの言うとおりだった。


 リュネシスは、ここ最近全く眠れていなかった。


 不死身の肉体を持つ魔王は、人間のような疲労を感じることはほとんどない。内側から無限にわき上がる魔の力は、肉体の細胞レベルに至るまで際限なき活力を与えている。

 それは己が身にいかなるダメージを負おうとも、驚異的なかつ能力として発動し、瞬時に完璧な肉体再生を実現させることをも可能としている。


 人としての身体を持ちながら、最上位階級の天使や悪魔に相当する能力をあわせ持つ者──リュネシスが〝魔王〟と呼ばれる所以ゆえんである。

 ゆえに彼は、あえて人間のような長い睡眠も必要ではない。

 数日間眠らないぐらいは当たり前で、その気になれば十日間やそこらほどの不眠不休の活動も可能なのだ。


 だがそれも、闘争やそれに近い危機的状況など、せっ羽詰ぱつまった実情があってのことである。人としての肉体を持つ者としての、休息や睡眠に対する欲求は、ささやかにだが持ち合わせている。


 それなのに眠ろうとしても二週間以上も全く眠れていなかったリュネシスは、魔王として己の弱さを周囲にさらけ出す訳にはいかなかったものの、頭にもやがかかったような不快さと気だるさに辟易へきえきとしていたのだ。


──アカーシャがさっき言おうとしたのも、やはりこの事か……。


 身内同然の魔少女の先ほどのふるまいを思い返しながら、リュネシスはややあって口を開いた。


「なんで分かった?」


 別にもう、誤魔化ごまかそうとは考えなかった。

 目の前の少女には──。


「いつも……その……」


 プシュケが頬を赤らめて、恥じらうように下を向いた。


「……近くで見ていますから」

 

 少女の言葉が不思議な力をこめて、時間の流れをい留める。


「……そうか」


 様相の変わらぬ魔王の、目元だけがほんのわずかに揺れ動いた。


 母の胸に抱かれたかのような、馴染なじみのない感覚に一瞬(とら)われて──ここに至って彼はようやく悟っていた。

 自分に恋心を打ち明けてくる乙女に、今まで感じたことのない、特別な感情が芽生えつつあることを。


 熱に心が溶け落ちるような……。


 これは許されない感覚であると、魔の本能が警告する。


 暴力と無法が吹きすさぶこの世界の帝王として、百年の長きに渡り君臨してきたという自負が、存在してはならない思いであると拒絶している。


 短い葛藤が内面であり、孤高の王者は当然のごとくそれらをねじ伏せて、さざなみ立った心を静まり返らせた。


 だが、その抑制力を上回るつよい想いもまた、この時、彼の奥底に確実に焼き付けられていた。


 その直後、に落ちぬ事実が脳裏をよぎる。


 リュネシスは〝はっ〟と我に返ると、あることに気づき、自身の知識の片隅からハーブの効能を思い起こす。


 すきを見せないはずの美貌があっにとられ、けがれのない子供の顔にまたもや変貌していく。


「そうか……それでおまえ──」


「ええ」


 プシュケが我が意を得たりとばかりに、嬉々として顔を上げた。


「ハーブティーにはリラックスできて、睡眠作用を(うなが)す効果があるんです!」


 絹のようになめらかな陽の光が、永遠の一瞬をたゆたい、ときの中で浄化させた光芒こうぼう無垢むくなふたりの上に降り注いでいる。


「フ……」


 リュネシスの唇が、機嫌の良い形に歪む。


「ふふ……」


 プシュケも楽しげに笑みを返す。


 しかしリュネシスは、魔王としての威厳をたもつために、もう意地でも笑うまじと下を向いて、肩を震わせながら一呼吸ほどこらえていた。


 だが心配してこちらをのぞき込んでくる少女の、可愛らしく寄せた目と合ってしまい、しっかりと結んでいたはずの唇がほろりとほどけてしまう。


 そうして──。


「「あはははは──」」


 ふたりは、しばらく笑い合っていた。


 魔王として覚醒めざめて百年──彼は初めてこんな風に気持ちよく笑った。


 昼日中のゆるやかな日常であった。


 バカバカしい戯言ざれごととは思いながらも、魔王はその日から、身の回りのすべての世話を乙女に任せることに決めた。







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