極限
しばしの静寂があった。
「う……ぬう……」
もうもうたる土煙の中、ゆらりと起き上がろうとする巨大な影があった。
太い腕で煙を払いながら立ち上がっていたのは、ライガルである。
彼の上半身は、ほとんど剥き出しとなっていた。あまりの高熱に衣服が燃焼をも超えて、一気に蒸発してしまったからだった。
だが、全身を煙に燻ぶらせながらも、その巨体にほとんど傷はついておらぬ。黄龍族の究極奥義を纏った闘神の肉体は、魔王軍の総帥たる魔少女の凄まじい力をも跳ね返すまでの強度を備えていたのだった。
立ち込める土埃の中、激しい眩暈を覚えながらも、ふらつく頭をどうにか支える。
——どこだ?どこに行った……!?
確実な手応えはあったはず。いかに無類の力を誇るアカーシャとはいえ、ただで済んだとは思えない。
胸をざわつかせる疑念を覚えながら、焦点の合わぬ視線を心当たりのある方に向けたその瞬間、ライガルの背に戦慄が走った。
それは、見るものを震わせる光景だった。
頭から、どくどくと薔薇色の血を垂れ流し、美しくも凄絶な立ち姿でこちらを睨む魔少女の、眼光炯々たる視線とからみ合うという——。
ライガルの一撃は、確かにアカーシャの肉体に深刻なダメージを与えていた。
だが、彼女の纏う不可視の魔法障壁は、並々ならぬ強度で物理的・魔法的な攻撃のほとんどを受け付けぬ防御能力を誇っていた。それが漆黒の魔少女を不滅に近い存在とする要因であり、先ほどのライガルの攻撃を許す一瞬の心の隙ともなった。
そして二度目のアカーシャの極大呪文は、ライガルの全身にまともに叩きつけられたはずであった。それを受けたライガルは、その時点で本来なら燃え尽き、灰と化して然るべきであったのだ。
しかし、ライガルは耐えきった。
そのうえで、アカーシャのほぼ完璧なる魔法障壁までも突き破るほどの攻撃に打って出た。これほどまでに予想を大きく上回る力を発揮されるとは、アカーシャといえど予測の埒外であったのだ。
魔少女の理解をも超える、物理を超越した闘神の力——戦きを超えてアカーシャに、どす黒い悔恨の念が込み上げてくる。
もしも、魔法障壁のエネルギーにわずかでも不足があれば——あるいは二度目の呪文発動に少しでも遅滞があり、ライガルの攻撃力を減殺できていなければ——もし、それらの歯車に一分の狂いでもあれば、自分は確実に無惨な肉塊と化していた!
紙一重にあった最悪の結末を想像した瞬間、魔少女の崇高な自尊心がズタズタに引き裂かれた。
——おのれ!!人間ごときが!!!
とめどなく真紅の血を吹き出して、ズキズキと痛む頭にふらつきながらも、アカーシャは物凄い形相でライガルに歩み寄った。
並みの人間ならばそれだけで卒倒するであろう、凄まじいまでの殺意を秘めた凶眼であった。
「こ……殺す……殺す……殺してやる!殺してやる!!」
無敵のはずのライガルが、この時、生まれて初めて恐怖を知った。それは、背筋の内奥にまで氷を詰められたかのような悪寒であった。
この娘の嫋やかな姿は人の世を欺くもの。最も冥き闇より生まれし、魔女王ラド―シャの忌み深き落とし子——。
ライガルは、心の底からぞっとした。
——生かしてはならぬ。この娘の血は、今ここで断ち切るのだ!
竜の非情なる血が、ライガルを急き立てる。
瞬時に恐怖は立ち消え、闘争心が湧き上がる。みるみるうちにライガルの表情が、鬼神の怒色に染まり上がる。
「Ω!」
戦いの奮起とともに奥義羅闘竜勁が再発動して、最後の闘気が爆発的に膨れ上がった。
間髪を入れず、ライガルが前に打って出る。
「おおおおおおおおっ!!!」
黄金の闘神が雄叫びを上げて、大地の上を駆け抜けた。
小山のような肉体が、金色の残像を止めながら魔少女との距離を即座に詰める。瀕死の妖魔に止めを刺さんと、羅闘竜勁のエネルギーと相乗させたライガルの必殺の秘拳が繰り出される。
——もう迷わぬ!!
全身の骨が限界を超えた戦いに軋んでいるのを感じながらも、しかし闘志がそれを上回る。
大きく振り上げた右拳が、眩しく光り輝いた。
「破邪聖王拳!!!」
ライガルの渾身の力を振り絞った一撃が、アカーシャに振り下ろされた。圧縮された〝気″を全開にし、右拳に全エネルギーを集中させて放たれる秘技である。
アカーシャからの視点では、遠く間合いの外にいたはずのライガルから、瞬時に目前に巨大な拳だけが迫ったように見えていたであろう。これまでいかなる強敵をも打ち倒した、闘神ライガルの最大の拳撃であった。
しかし次の瞬間、魔少女の姿は跡形もなく消え失せる。
——何!?
手応えはなかった。
ただ、彼女の姿が消える刹那、紅い魔眼が薄く輝いたのをライガルは見ている。
「む!?」
直後、遥か頭上からぞくりとするほどの殺気を感じて、ライガルは上空を見上げた。
かすむ視線の先に、宙に佇み眸を怒りに燃やす、満身創痍の魔少女の姿がおぼろに映っていた。
彼女の纏う、薔薇の刺繍に飾られた漆黒のドレスが大量の血を吸って、元の色よりもより濃い色合いのねっとりとした染みを広く大きく浮かび上がらせている。
突如としてアカーシャの険のある表情が、消えた——。
風もないのに、魔少女の黒髪がざわざわと逆立ち始める。
「ルーイ・ゴール・ディステェリティー……」
漆黒の魔少女が、忘我の集中力と共に謎めいた印を結ぶ。
途方もない何かを喚起しているのであろう艶かしくも不吉な韻律が、昏く荒れ始めた天空に溢れ出していく。待ったなしに開始されたアカーシャの呪文詠唱に呼応し、大気全体を震わせるかのような莫大な魔力が広がっていく。
どこから現れたのか、周辺一帯の小動物たちが未曽有の大災害の予感に、荒野の果てを目指して慌ただしく逃走する。
大魔導士アカーシャの秘める、最大最強の超破壊呪文——それはあまりにも危険であるがゆえに太古に封印され、神からも禁じられたと言う最凶の呪法であった。異才を誇るアカーシャですら使いこなせるかは分からぬ、未完成の極大呪文である。
成功する可能性は五分と五分。
過てば自身が発動した破壊エネルギーの反動により、一帯はおろか己の身まで焼き尽くすことになりかねぬ、まさに死と破滅の〝禁呪〟であった。
「炎を司る全精霊たちよ。天の王より授かりし力を籠めて汝らに命ず。掌握する者として汝らに命ず。至高なる獄炎の皇女として汝らに命ず。我が元に集い、煉獄の扉を開き、大いなるメギアの炎をもち、天を地を焼き尽くせ」
アカーシャの眸が、大地を照らさんばかりに赫奕たる光明を放つ。
呪文詠唱に魔眼の力を上乗せすることにより、困難な未知のエネルギーの顕現をも可能とさせた魔性の奇跡——異界より〝究極の禁断の力〟が今、呼び起こされる。
「原子の炎で灰となれ!!!黒死滅殺ーッ!!!!!」
白い両掌が大地に向けてかざされ、怒りに燃える魔少女の鉄槌が天より下された。
「う、うぉおおおおおおおおおおおおおお!!!???」
ライガルの周囲の気温が急激に上昇する。
それは秒単位で数千度も高昇していく、想像を絶するまでのエネルギーの高まり。
超高熱の白光が天空より集約され、足元の土が……岩が……ずぶずぶと溶けて消えていく。
天空からの光は極限までライガルのところに集まり、あたかも死を演出する舞台の照明であるかの如く、細く眩いまでの一閃となった。
そして——。
終末の刻を思わせる、音と光が爆発的に広がった。
アカーシャが発動させたのは、〝核〟のエネルギーであった。
大気中の素粒子から魔力を用いて原子を構築し、さらには魔眼で高速演算装置のごとき超膨大な配列計算を成すことにより、即興で編纂した最終呪文詠唱を用いて原子結合と核融合を実現させる——すなわち魔性の異能を集大成して引き起こされた「核爆発」である。
この破壊呪文により、生じる超高熱は摂氏四万度を超える。
鋼鉄ですらも瞬時に気化させてしまう、この超灼熱地獄の顕現は、一国を滅ぼし得るほどに深刻であった。
それゆえにアカーシャは、闘神ライガルとの戦いにおいてやむなくこの〝禁呪〟を発動させなければならない最悪の事態をも予想し、戦いの場には無人の荒野であるウェルガンドの地をあえて選んでいたのであった。




