火の鳥
瞑目していたライガルの両目が、カッと開いた。
——来る……!
漢は組んでいた腕をほどき、すっくと立ち上がった。彼は、ただならぬ気配を感じる東の空を眺望する。
漢の黄金の瞳は遥かなる空の下、燃え盛る炎のオーラを全身に纏う、異形なる巨鳥の姿をはっきりと捉えたのであった。
〝火の鳥〟と呼ばれる神獣である。
火の精霊界に限りほんの少しだけ存在し、己が主と認めた者の召喚のみに応じて現世に現れる。
鷲に似た体形だが、その体躯は大鷲に比して十倍は大きい。現世において完全な不死の肉体で現れると言われており、全ての鳥の王にして〝不死鳥〟とも呼び名の高い伝説上の巨鳥であった。
火の鳥は少しずつ——否、実際には物凄い速度で迫りつつあった。
ライガルが火の鳥を認識した数十キロもの距離を、魔法による推進力から得た亜音速で瞬く間に詰めていく。
その巨鳥の背に、悠然と跨る者がいる。
漆黒の魔少女アカーシャであった。
人体ならば到底耐えきれぬ凄まじい速度に曝されながら、わずかの身じろぎもない。
アカーシャがその身に羽織る、絹のように柔らかな暗闇色のマントの合わせ目から覗く美貌には、自信に満ちた優美な微笑が湛えられていた。
―――― § ――――
「ルース・ウォール・エルディティー……偉大なる月の皇女よ。いと高き星々の王子よ」
推し量ったかのような、ベテルギウスの呪文詠唱が開始された。
「異界の王に我願い奉る。青き御姿——白の御姿——二神の力併せ持ち、今ここに魔を退ける力と息吹を与え給え」
魔法で拡声された大気を振動させる声が、見えない力となって、魔物たちの立つ大地の底に働きかけていく。
すると——。
未だ消えぬ結界壁に足止めを喰らっていた第三魔軍の目の前で、異変が起き始めていた。
突如として、地中より強い輝きを放つ巨大なサークルが、不可思議な古代文字を浮かび上がらせて出現したのである。
「む……これは……!」
妖術師ケルキーの目が、彼方を透かし見るように細められた。
「召喚型の対称魔法陣!?」
〝対称魔法陣〟——失われた太古の秘術である。
これを描くためには暦や月齢を完全に計算し尽くした上で、寸分違わぬ魔法陣を対照的な鏡合わせで左右にふたつ描くという、非常に精密で高度な技能を要する。
しかも、失敗すれば術者の命が即座に失われるほどの危険を伴うため、歴史からは抹消された秘術であった。
その魔法陣に描かれた文字列の恐ろしい意味を一瞬で読み取ったケルキーの背を、水を流すような悪寒が疾り抜ける。
その刹那——光を放つ二つの魔法陣から、二体の巨大な蛇が姿を現した。
右の魔法陣からは、白い燐光を放つ大蛇が。
左の魔法陣からは、蒼白い光を放つ大蛇が。
二体はたちまちの内に激しくのたうち舞い上がり、虚空高く位置を取りピタリと静止すると、魔軍を見据えて立ちはだかった。
大蛇たちの全長は、優に四十メートルを超えている。
その姿はまさに、神話を具現化させたかのような、高位次元の幻像であった。
賢者ベテルギウスが過去に一度、御前試合において召喚した〝神の御使い〟たる大蛇たちである。
御前試合においては白蛇一体だけの召喚であったが、今この時、彼は魔王軍との戦いに備え、神界との新たな契約を結び二体の〝御使い〟の召喚をも可能としていたのだ。
「なんだあの大蛇は……しかも二体も!?」
さすがに表情を失った妖術師が、動揺を隠しきれずに呟いた。
〝御使い〟の召喚を為す術者の噂に、慎重なケルキーは一応の警戒を払ってはいた。
魔族に比して脆弱な魔力しか持ちえぬ人間に、神界の〝御使い〟を呼び出せるほどの魔力があるとは信じ難い。
しかし念の為に、召喚魔法を使用できぬよう、部下の魔導士たちにはすでに一帯に封呪の呪文を唱えさせていた。万全を期していた彼女の作戦にぬかりはなかったはずだった。
だが魔族の中でも上位に位置する、第三魔軍の魔導士たちの呪文すら無効化させるほどの、強力な魔法陣がさらに前もって敷かれていたなどとは、さすがに想定外であったのだ。
しゅーっ!
巨大な鎌首を擡げる大蛇の牙の隙間からは、強力な魔力による光の呼気が漏れていた。