失われた神話
人が誕生する遥か以前──。
始めに神は、光を創造しようとされた。
神はまず、「光あれ」と言われた。すると光が現れた。
神は、満ち足りた光を見てよしとされた。
神は、また言われた。
「光と闇に別れよ」
すると光の影が現れた。影は無限に満ちる光から別れ闇となったので、それを見て神はよしとされた。
さらに神は光の最も眩しい中心を手に取り美しく形造り、それに息を吹き込まれた。これが最初にこの世界に生誕した〝天使〟である。そして神はその者に似た、数多の天使たちを創り上げていった。
次に神は、光の影としてある闇の最も冥い中心を手に取り、美しい女として形造りそれに息を吹き込まれた。
だが、その女を天におくことができなかったので、神は大地を創り上げ、その底に闇と女をおくことにした。
やがて、神の息を吹き込まれた女は、地の底で目覚めた。
だが目覚めた女は、神の思惑を超え異様な力を持って立ち上がった。女は自らを女王と名乗り、大地のすべてを支配しようとした。
また、このとき闇の底に散らされた神の息吹の残ったものから数多の異形なる者たちが──後に悪魔と呼ばれる者たちが、次々と生み出されていった。それらも神の予期せぬ力を持って目覚めると、天の神を崇めずに女を神と崇めるようになった。
これが、闇の者たちの誕生である。
ゆえに神は最初の天使として生み出した者──神に継ぐ力を持つ天使の長〝ディルヴァウス〟と名付けた者に、闇の女に代わって地を治める権限を与えられた。
天使長ディルヴァウスは、己の配下たる天使たちを従え、その偉大な力で大地に広がった闇を打ち払った。
そして、大地を治めた。
はじめディルヴァウスは正しく大地を治めていたが、数千年の後ふと地上にいることを倦むようになった。ディルヴァウスの目は、神のいる天の世界に──彼が元いた天界へと向けられていた。
そこにディルヴァウスが、かつて闇の底に追放したはずの女──自らを女王と名乗っていた女が、再び地の底から蘇ってきて囁いた。
「諸々の国と星々の王となるべきお方よ。なぜ、あなたほどの偉大なる者が、神にかしずく必要がありましょう。あなたは天の頂きに登り王座を神の上に据え、雲の上に在りながら、いと高き者とおなりなさい」
女の危険な囁きが、ディルヴァウスの耳に甘く響いた。
否──最早それは、傲慢という思いに染まろうとする、ディルヴァウス自身の心の声となっていた。高潔な者ほど、なにかのきっかけで昏い悪に身を堕とすことがある。闇の女に心を許した時点で、すでにディルヴァウスの心にほころびができていたのかも知れぬ。
清らかだったはずのディルヴァウスの中で、不正が見いだされるようになった。天使の長と女王は、結託し企み目論むようになった。彼は己の配下たる地上の全天使たちを説き伏せ、天に挑む一大軍と成した。
そしてある時、あるきっかけをもって、高々と神への宣戦を布告したのである。
天界は大騒乱となった。
神に従う天上の天使たちと、天使長ディルヴァウスに従う地上の天使たちとで全天使は二分され、さらに女王の「闇の軍勢」も加わり、かつてない天界大戦へと変貌する。
時は炸裂し、次元が歪み、天も地も沸き上がった。両軍の激突は熾烈を極め、太陽ですら闇に覆われた。星々は弾け飛び、無限の憤怒と怨嗟の叫びが全宇宙に響き渡った。
そして遂に、光と闇による大いなる聖戦の決着は付いた。
神に従った天使たちが、勝利したのである。
ディルヴァウスと彼に従った天使たちは、地の底に落とされた。なみいる天使たちの中で、最も美しく光り輝いていたはずの天使の長は地の底に落ちる時、醜い悪魔の王の姿に変貌していったと言われる。
そして、ディルヴァウスをそそのかした女王もまた、地の底へと姿をくらませていた。密かに彼の子を孕み、燃え盛るような神への憎しみを内にたぎらせて──その女の名は、後の世に……〝魔女王ラドーシャ〟と呼ばれるようになった。
その後──。
ラド―シャの腹の中にあった子は、闇の中で産まれ〝ルーファ〟と名付けられ、父に次ぐ力を持つ暗黒の皇子となった。
天使長ディルヴァウスが天上から下される前に、彼の最後の清い心が一粒の涙に集約されて、ひっそりと地上の片隅に落ちていた。それは、数千年かけて海の水と交わり、脆く儚くも清らかな、永遠の少女〝ロゼリア〟となった。
ディルヴァウスに従い、神に矢を引いた地上の天使たちの中でただひとり、大戦前に彼らと袂を分かち天へ帰った天使がいた。創世記において、ディルヴァウスの次に神によって生み出された〝熾天使ディアーナ〟だった。
彼女は美を司る天使だった。
その美しさは永遠の綺羅星のごとく喩えられ、太陽の光をもかげらせるように輝き、神の心ですら悩ませるほど燦然と煌めいていた。
その彼女もまた、天に帰るときには身ごもっていたのである。
兄であるディルヴァウスの子を──。
ゆえにディアーナの子は祝福されぬ星の元、天界で生を享けた。そしてやはり、忌み深き宿命をもってこの世に生誕した。
赤子は母の血を受け、他のいかなる天使よりも美しく神々しい御姿を輝かせていた。だが、碧と金の対を成す奇異なる瞳をもち、さらにその奥には神の敵対者の意味を示す、逆十字の紋様がはっきりと刻まれていたのだ。
天界の光の元で産まれた天使の子としてあり得べからざることに、赤子は生まれながらにして、父ディルヴァウスの呪いの力を宿していたのである。
天に在るすべての者たちは戦慄した。
このような異形の天使は、かつて存在したことがない。おそらくは、ディルヴァウスに次ぐ新たな魔王として、後の世の禍の種に成るのではないかと。
天の父なる神は思索し、その赤子を罪なき内に〝天の忌み子〟として光の世界より追放した。
ただ、ここにもうひとりのディアーナの子があった。
これより遥か以前、純潔のままにディアーナが産み、すでに敬愛せる愛の天使として在った〝ルミナス〟であった。
彼女は流れる星となって追放されし赤子を追い、その赤子のために共に地に降りた。
天の父なる神は、それを咎めずによしとされた。
その忌み子の名は地上の聖典の終わりの章──その失われた最後の一節に、誰の目に触れることもなく、密かにこのように記された。
天と地を追われし、光と闇の落とし子〝リュネシス〟と——。