大戦の幕開け
かような経緯があって、人族と魔族による両者の交渉は決裂した。
やがて確実に襲い来る第三魔軍の進撃に備え、レミナレス王の招集により、ルスタリア全土──さらには他国からもエルシエラに援軍が集結した。
かつてない規模に膨れ上がった、巨大なルスタリア王国連合軍を統率できる者は、地上広しといえどただひとり──王は暫定的にベテルギウスを大将軍としての地位に据え、すべての指揮権を彼に与えた。
そのベテルギウスを中心に、エルシエラは万全の態勢を敷き、魔王軍総帥アカーシャ配下——五妖星ケルキー率いる第三魔軍を迎え撃つ。
自国の正規軍と他国の援軍を含めた、かつてない大規模な編成軍が、大将軍ベテルギウスの卓越した指導力の元に結成された。
エルシエラは短期間の内に鉄壁の構えをなし、籠城策を取れば百万の兵力を相手にしても数年に渡り耐え得るであろう、難攻不落の大要塞と化した。
ただし、それはあくまで、人間同士の兵力がぶつかり合うことを前提としている。
魔族の軍団との戦いにおける人間の戦力は、比べるのも愚かしく思えるほど、あまりに卑小であった。
ライガルやベテルギウスといった飛び抜けた個の力を持つ特別な者は除き、集と集の戦いにおける人間の軍隊など蟻のような存在に過ぎぬ。
ゆえに例え優れた籠城策を取ろうとも、魔族の持つ数多の異能の前には、その策自体が無為に帰すことすらもある。
もし、人軍魔軍双方が同じ条件で戦った場合、人間側は少なくとも三十倍以上の兵力を以て初めて魔物たちの軍隊と互角に渡り合うことが可能となるのだ。
この戦いにおけるルスタリアの総兵力は十万——エルシエラでの籠城策を取る上での地の利、それに加えてベテルギウスの天才的戦略、その他諸々の要素を考慮して人軍戦力が劇的に跳ね上がったとしても、魔軍の総数が四万を上回ると、ルスタリア編成軍の分が極めて悪くなるという予測が、すでに軍の上層部によって弾き出されていた。
ゆえにベテルギウスの高度な風水術と、より精密な占星術から判断して、魔王軍の動きをくまなく想定することにより、賢者はさらに完成された戦術を展開させていく。
―――― § ――――
そして、双頭守護神のもう一人の雄は——。
未曽有の危機に瀕し騒然とするクレティアル城内で、救国の英雄ライガルは、ただひとり沈黙を守っていた。
人々の懇願にも容易に動じることなく、孤高の闘神は城内で瞑目したまま座し続けている。
だがある時、忽然とライガルは姿を消していた。誰に気取られることもなく、宵闇に紛れて王宮を抜け出し、エルシエラの地を離れていたのだ。
遥か彼方にまで広がる夜の平原を、巨大な一騎の軍馬が駆け抜ける。余裕をもった流し方に見えるが、実際には凄まじいまでに疾い。
見事なまでの巨馬であった。
がっしりと大地に根付く八本もの足を持ち、全身は闇夜に映える黄金色の輝きを放つ。
そして、並みの馬など比較にならぬ巨大な体躯は、逞しくも無駄のない筋肉で引き締まっている。
スレイプニルと呼ばれる、闘神ライガルの愛馬である。
世界的規模で見ても数頭しか存在せず、凡人には到底乗りこなすことのできぬ、神秘の力を持つ巨馬であった。ルスタリア奥地の秘境で稀に目撃例があり、最古の昔から馬のうち最高のものと賞賛されるほどの名馬である。
伝説の馬は風の速さで地の上を走り、水の上を駆け抜け、空の上をも舞い上がる。ルスタリア最北の荒野ウェルガンドを目指して——。
数日前に、炎の魔女アカーシャより通達があったのだ。
瞑想に耽るライガルの深層意識にまで強制的に入り込んできた魔少女の精神潜行により、ふたりの戦いの時と場所が詳細に伝えられたのである。
それが、北の地ウェルガンドだった。
気高き拳聖は密かな闘志を胸に抱き、精悍な顔に覚悟の色を宿らせて、ただ目前に広がる夜闇を見据えていた。
おそらく生きては帰れないであろう。
ライガルの前で、闇が嗤って見える。
それは、あまりに妖美な漆黒の魔少女の昏い幻像となって浮かんでは消えていった。
最強無敵の魔女アカーシャとの、孤独な戦いの決着を果たすために、誇り高き拳士は一路北へと向かう。




