賢者ベテルギウス
幼い頃の夢を、ライガルは今でも見る。
ルスタリアの名高き血筋であるレマリエル家に生まれたライガルは、黄龍族の継承者として、義の心を重んじるように育てられてきた。
早くに亡くなった母の思い出はないが、特に寂しいと感じたことはなかった。彼には理想とすべき父がいたからだ。父は、誰からも尊敬される人格者だった。
単調な景色が目の前に広がっている。それは、一面の緑であった。
そよ吹く風は、懐かしい匂いを運んでくる。けして忘れることのない、濃厚な草の香りを。ルスタリアの東部を占める大草原——デュアール平原の心地よい芳香を。
甦るのは遠い日の記憶である。
春の陽気な日に何度か、父と城仕えの人々と、この平原に行楽に来た。ルスタリアの春特有の雲一つない澄み切った青空の下を、幼いライガルは駆けていた。朗らかな笑顔で大人たちが後に続く。
次の幻像では、逆光の構図に包まれて、彼は父と木陰に腰かけていた。
父は辺りを見回しながら、自然の営みについて自分に教えてくれた。父であり、尊敬する師父でもあった男の話は、いつも真面目だが分かり易く、正しい確信に満ちていた。ライガルは、そんな父の話を訊くのが好きだった。
その父が、何かとても重要なことを伝えようとしている。
夢の中、不可解な力に言葉が遮られライガルの耳には届かぬが、とても大切なことを父が伝えようとしているのが解る。
けして難しいことではない。それは単純で、子供にもよく理解できることだった。
父の言葉をどうにか思い出そうとしたライガルの意識が、そこでゆっくりと現実に引き戻されていく……。
―――― § ――――
覚えのある居室で、ライガルは目覚めた。
そこは、香草の匂いがほのかに漂う療養の間であった。
気の休まる落ち着いた雰囲気が辺りに満ちている。全身の肌から感じられる触感によって、体を横たえている寝具・寝台等も清潔で、極めて上質のものであると窺い知れた。
ライガルは、おもむろに上半身を起こした。
深手を負っていたはずの体の痛みはほとんどない。すでに傷を塞ぐため、全身のいたる所に適切な処置と治癒魔法が施され、丁寧に包帯も巻かれていたからだった。
その、治療がされた体を確認するように、そっと手で触れていたライガルが、ふと何者かの気配を感じてゆっくりと振り返る。
「気がついたか」
親しみのある声が室内に響いた。
いつの間にか、背後に若い漢が立っていた。
腰まで伸びる鮮やかな銀の長髪。そして同じ色合いの輝きを秘めた銀の瞳。スラリとした長身を白いマントで包みこみ、まだ成年に達したばかりにしか見えぬ顔つきは、しかしながら年齢以上の落ち着いた佇まいがある。
そこにいるだけで、気品に溢れた風格を漂わせる青年であった。
「……」
ライガルの硬い表情が、その漢を見て緩む。
「大変だったなライガル」
目を合わせると漢は、思いやるようにそう言った。
ベテルギウス・レムリアル──闘神ライガルと並び立つ存在として、若くしてルスタリア全土にその名を馳せる偉大なる賢者である。
正統なる古の血統であるレミナレス王家を太古より守護する、三つの龍の氏族が存在する。
すなわち、黄龍族と白龍族。そして、今はもうその血が途絶え、存在しないとされる黒龍族である。
黄龍族と白龍族の二氏族に連なる継承者たちは、生まれながらにして人知を超えた力を持つ。
特に二氏族の長い歴史上、最強として呼び名の高い闘神ライガルと賢者ベテルギウスのふたりには、レミナレス王家から畏敬の念を籠めて〝双頭守護神〟の称号を与えられていた。
〝双頭守護神〟の呼び名は予言書にも示され、その名称には天の使徒としての意味合いがある。
彼らは光と闇の最終戦争の刻には、レミナレス王家の正統後継者を守護し、さらには光の皇子とともに立ち上がる宿命を背負うとされる。
黄龍族を冠する者は言わずもがな闘神ライガルであるが、白龍族を統べるいと高き血筋を戴く者は、賢者ベテルギウスであった。
黄龍族は〝力〟を尊ぶのに対して、白龍族は〝知〟を重んじた。
ゆえに、白龍族は神より与えられた禁断の知識を秘儀とする。それはまさに神に通じる究極の知識であり、それを極めた者は神になるとも伝えられる終極なる奥義であった。
ベテルギウスは白龍族史上、類を見ない天才であった。
彼は白龍族に伝承されるあらゆる秘術・魔術に精通し、方位や風水をよみ、占いもする。白龍族の膨大な知識は、優れた才能のある者が壮年になるまで努力に努力を積み重ねて、ようやく習得が可能となる。
しかしベテルギウスは、それらの知識や技能を、まだ少年とも言える歳にほぼ全て習得する。そこまでの才能を発現させた天才は、白龍族の長い歴史上この漢のみ。
その偉業を疑う高名の魔導士たちが何人も彼に挑んだが、誰も勝てなかった。最後にベテルギウスが勝負をした相手は、ルスタリア随一と名高い召喚魔導士との試合であった。ベテルギウスはその試合において、相手魔導士の召喚可能な最高魔獣である合成獣を遥かに凌駕する〝蛇の精霊〟を召喚し圧勝したのである。
その内容は、見る者を畏れ心酔させるほど凄まじいものであったという。
この時、ベテルギウスはまだ十八歳——。
若き賢人の力に感嘆した王は、彼を最高の条件で王宮に迎え入れようとする。
それはルスタリア史上、まだ誰も冠したことのない、空白の大公の爵位をベテルギウスに与え、王宮直属の賢者——つまり〝王の相談役〟としての地位を授けようという破格の条件であった。
これは、政治的実権をほぼ完全に掌握できる立場であり、解釈しだいでは王以上の権力者となることを意味する。
しかしベテルギウスは、凛とした顔を王に向けて、その申し出をきっぱりと断った。
ベテルギウスには、すでに公爵レムリアル家嫡男という立派な家柄と、他家に誇れる自分の城もある。
彼には、それで充分であったのだ。
それ以上の伝統と格式に縛られる王宮での生活を好まず、若さ任せの野心も持たない。それがこの人柄好ましい若者の生き方であったのだ。
また口には出さなかったものの、若い彼が大公として王宮に居座ることで、自ずとその地位を追われることになるであろう、行き場のない老いた王宮貴族たちへの配慮も含まれていた。
人々から望まれて王子となるライガルとは事情も勝手も違い、聡明な若者は、それら微妙なしがらみをも正確に読み取っていたのである。
結果として、それは正しい判断であった。
王は残念がったものの、ほとんどの人々──特に、悲しいかな保身のみをどうしても願ってしまう城仕えの貴族たちは、それだからこそ若き賢人の謙虚さに心を打たれた。
そして、いつの頃からか、ベテルギウスは人々からその人徳も敬われ、賢者とまで讃え称されるようになっていたのである。
この頃にベテルギウスは、白龍族に連なる黄龍族の雄ライガルとの親睦を深めた。
初めてふたりが対面したとき、まだお互いに名乗らぬうちから、戦士たちの内面で奇妙な感覚が生じる。
出会うことが定められていた遠い懐かしさ、安らぎ、不変の友情——その様な深い共感に捉われたのだ。
以来、彼らは龍の血筋を冠する同憂の士として、強い絆で結ばれることになる。
実直だが、無骨で口数少ないライガルが、ベテルギウスに招かれて、あるいは自ら彼の城——幻夢城と呼ばれる——に赴き、ふたりで酒を酌み交わすことも度々あった。
ライガルはそこで静かに過ごす時間を好み、また、ベテルギウスもライガル相手に呑む酒を良しとしていた。
ベテルギウス・レムリアル——ルスタリアで唯一、闘神ライガルに並び立つ漢であった。
―――― § ――――
「無茶な戦いをしたものだなライガル」
あるかなしかの微笑を唇に浮かべ、友を労わるように青年は話しかけた。
「部下の兵士たちまで巻き込まぬよう厳命したらしいが、いくらおまえでも、ひとりで一万の魔物を相手にするなど無謀だ。私が探査と移動の呪文をかけなければ、本当に死んでいたぞ」
ライガルは何も応えない。
常の表情のまま黙していた。王子であるライガルは、身分では公爵たるベテルギウスより上になる。
しかし、ふたりの間では、身分の上下など関係なかった。
「おまえがひとりで戦わなければならなかった事情は解っている。だが、自分の身も大事にしろ。この国には——いや、この世界の未来にはおまえが必要となっていくのだ。おまえがいなくなれば、我らに縋るしかないような力なき人々はどうなる?」
沈黙を保ったままのライガルの表情が、しかし、わずかに納得の意で曇るのを見て、ベテルギウスは空気を変えるように明るく続けた。
「それにしても、さすがだったな。たったひとりで一万の化け物たちを蹴散らすとは、改めて恐れ入ったよ……まあ、最初からそう簡単に、おまえが負けるとも思っていなかった。だから、私も黙って好きにさせたのさ」
銀髪の賢者は、金色の拳士を見つめながら愛想よく笑った。
「傷はもう大丈夫だよな?なあ、今夜は少し呑まないか……闘神ライガルの復帰を祝って、素晴らしい客人もお見えになるのだ」
「?」
訝しげな表情を向けるライガルに、ベテルギウスにしては非常に珍しく、何か困りごとでも持て余しているかのような表情で返した。
「私も会うのは初めてのお方なのだが……まあ、我々にとっては願ってもないお客人さ」
笑みを漏らす彼の声には、やはりどこか憂慮するがごとき響きが含まれていた。