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エテルネル ~光あれ  作者: 夜星
第一章 魔王リュネシス
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満たされぬ日々の中で

 太陽が地平線に隠れ、魔都まとエリュマンティスの街並みに、生気にみちていた一日の終わりをひっそりと告げている。

 夕暮れの赤い空が深い藍色あいいろへと変化していき、空いっぱいに超自然的なグラデーションを広げていった。


 するとアルゴスの西の夜空で、最初の星が明るく輝き始める。古来より明星とたたえられる金星であった。


 この星が輝きだすと同時に、天と地は一日の疲れをやすため、心地の良い静寂を広げていく。人々の生活が一段落し、昼間の街の喧騒けんそうはすっかりと消え去っていた。


 そんなよいとなったエリュマンティスの高台の上で、夜空にまたたく綺羅きらぼし以上のようを示す、巨大な魔城〝ディアム城〟──最上階を占めるむやみに広い一室では、半裸に豪華な装身具アクセサリーを身に着けた娘たちが、身を横たえる風にしてうたげを楽しんでいた。


 十人ほどはいるであろうか。


 みないんでありながらも、ひとりひとりが並の男には一生手に届かぬであろうレベルの、美しい宮女たちである。


 女の本能の限りを具現化させた、むせかえるような芳香──そして、集中する彼女たちの熱い視線。


 その注目の先で、ひとりの若い男が酒を飲んでいた。


 周囲にはべる粒ぞろいの宮女たちが思いを寄せるのもうなずける、信じがたいまでの美貌を誇る若者である。


 純度の高いプラチナをそのまま変貌させたかのような髪が、うすぐらい屋内でにぶく妖しげに輝いている。

 左の耳たぶには同じように、光を受けると七色に変色する、白月をかたどったクリスタルのピアスを飾っている。


 若者は──否、正確には数百歳ものよわいを重ね、生きながらにして神話の神々と並び立つ存在として語り伝えられるこの男は、ディアム城のあるじであり〝魔王〟とおそれられる、人ならざる者であった。


 魔王は壁に背をやりながら、片膝を立てた状態でもう片方の足を投げ出し、いかにも退屈そうに辺りの景観をながめていた。


 周囲には彼の気を引こうとする娘たちが、ときおり甘やかな言葉を投げかけたり、さりげなくみだらなたいをからめてくるのに、ほとんど関心も見せず無言で盃をあおり続けている。


 実際彼は〝ねや〟をともにしているはずの宮女たちにすら、全くと言っていいほど興味がなかった。

 彼女たちの大半は名前すらも記憶にとどめておらず、誰ひとりとして、本気で心を許したこともない。


 それでも見栄みばえの良い女たちを何人もはべらせ、こうして特別に上等な酒で喉をうるおしているのは、不老不死からなる無限の時間を持てあまし、ふいに訪れるどうしようもないやるせなさをまぎらわすための、うさ晴らしに過ぎなかった。


 顔が隠れるほど大きな盃を唇に運び、大量の酒を一息に流し込む。


 常人ならそれだけで酩酊めいてい状態になっているはずだが、若者に酔いが回る気配はじんもない。


 計り知れない魔性の力によって支えられた不死身の肉体は、体内に侵食するアルコールなどそくに分解してしまうので、彼の正常な思考や機能をわずかでもにぶらせることもできないのだ。


 だから、あえてその分解速度を遅らせることで、強制的に酔いをめぐらせようとしている。


 そうしてようやく感じた悦楽えつらくと、新たに生じた虚しさに深く吐息をはき出しながら、ふと魔王は昨日のアカーシャのひとことを回想した。


(また……大勢死ぬわね)


 それが何度も何度も脳裏でくり返され、盃を運ぶ手をしばし止める。


──テュルゴめ……あいつがつまらん話を持ちかけてきたせいで、アカーシャまでが愚痴ぐちり始めたではないか……。


 舌打ちをするように口元をゆがめた魔王だったが、同時に宰相が連れてきた、とある少女のことが思い返された。


──そういえば、あれは〝プシュケ〟とか言ったか……。


 何事にも無関心なはずの魔王にしてはめずらしく、たかがひとりの新米宮女についてその名を思い起こしていたとき、開いたままの大扉の向こうから、しずしずと進み出てくるくだんの娘の姿が見出された。


「失礼いたします」


 手に余るほど大きな酒瓶をかかえたプシュケが、緊張したしゃくをしてゆっくりと近寄ってくる。


 それを見て、魔王のみなる双眸が、ほんのわずかだが見開かれた。


 くらい空間の中でも光沢を放つ亜麻色の髪が、昨日よりさらに念入りに手入れされている。

 高級な宮女として着飾られた服装は品位に満ち、ここにいる誰よりも洗練され、乙女のれんさをより引き立てているので、どこぞの国でちょうあいを受ける姫のようにも見える。


 ハイクラスの宮女たちに比べても全く見劣りせぬ、格別に美しい少女が現れたことで、その場にいる娘たちのほとんどが動きを止めて息をのんだ。


「だれ、この子~」


 魔王の体に最も身をすり寄せていたひときわ派手な印象の娘が、乙女にじろりと無遠慮な視線を送りながら、酔った口調で声を発した。


 大げさなまでにあみ込んだ髪と、どぎつい縁取りをほどこした化粧が妙に似合う、宮女たちのリーダー格のエレナであった。


「ほら、昨日入ってきたばかりの子。テュルゴのおっさんが、久しぶりに自分で見つけて連れてきたんらってぇ」


 エレナについで宮女たちの中で中心的存在を誇るダナエが、空になった魔王の盃にどばどばと酒を注ぎつつ、酔いに舌をもつれさせながら言った。

 その無神経なしゃくによって手元をたっぷりとらされた魔王が、ピクリと頬を不機嫌そうに脈打たせたことに、愚かな娘は全く気づかず自分のこめかみをつついてしゃべり続ける。


「ええっと、そう……プシュケちゃん!なんと修道院から引き抜かれたという期待の星!」


「かわいい~」

「いくつなの?」

「まだ、十五なんらってぇ」


 他の娘たちが次々と言葉を投げかけるのを制するように、エレナがゆらりと立ち上がった。


「へぇ、あたしよりみっつも年下なわけ?ないわ~」


 わきに置いてあった催淫性のあるラピナス煙草を手に取って、慣れたふうに火をつけると、エレナは大きく腰をゆらしながらプシュケの方に向かって行った。


「で、何のご用?」


 乙女の行く手をふさぐようにして正面に立ち、煙草の煙を〝ふーっ〟と吹きかける。


 ここから先には一歩も通す気はないと言わんばかりの、敵意に満ちた雰囲気が、エレナの全身からただよっている。

 それはとても十八の娘とは思えぬ、その一回り以上は生きぬいてきたたくましき娼婦のごとき、ものすごい貫禄かんろくであった。


「お酒をお持ちいたしました」


 けほけほと咳きこみながら、プシュケは煙から顔をそらせてこたえた。


「ふーん……つか、ここ魔王城」


 エレナは新米宮女の胸元に飾ってある、素朴な銀の十字架ロザリオを目ざとく見つけると、突き刺すがごとく指をさした。


「場所わきまえてくんない?修道院出身のいい子ちゃんか知んないけど、ここに神様とか持ちこまれてもご迷惑なだけだから」


「も、申し訳ございません」


 一瞬、乙女の声が困ったようにくぐもったのを、敏感なエレナは聞き逃さなかった。


「それ、多分あんたのお母さんからのプレゼントだよね?」


「……はい」


 言い当てられて、プシュケの顔にさらなる困惑の色がよぎった。


「あ゛あ゛……あたし、こういうの一番嫌いなんだわ」


 エレナは冷めた表情で仲間である娘たちの方にふり返ると、ことさら肩を大きくすくめた。


「金もない一般家庭の出なんだけど、温かい環境で生まれ育って、親にはまるでお姫様みたく大事にしつけられましたって感じの品行方正ちゃん……あたしたちとは真逆だね」


 軽い自虐をふくめる女親分の言葉を受け、娘たち皆がうなずき合うのを確認すると、エレナは嫌味たっぷりにもう一度煙草の煙を乙女の顔に吹きかけた。


「なあ?あたしの言ってること当たってんべ」


「……」


 アルゴスで最も裕福なことで知れわたる豪商人の末娘の、並み外れた洞察力であった。

 そのあまりにまとた指摘に、プシュケは煙にむせながら何も応えられなくなり、体を固くして大きな目をみはっている。


 険悪になっていく女たちの様子に、魔王はめんどうなものでも見るかのようにちらりと目を向けたが、黙ったまま視線を外すと、再び盃を唇に運んでひとりで静かにのみ始めた。


「てなわけで、これから楽しい楽しいショータイムの始まりでーす」


 ガラリと口調を変えたエレナが、嬉しそうに柏手を打ち始めた。


「本日は紳士・淑女の社交場、らくの殿堂ディアムホールへとお越しくださいまして、誠にありがとうございます。よい、修道院から招かれた特別ゲストのプシュケ嬢が、素敵なディナーショーを開催してくださいまーす。皆様どうぞ、ごゆっくりとお楽しみくださいませ♡」


 見事なまでのスピーチに、わいなポーズを加える女番長の意図を察し、ダナエがひゅうとおもしろそうに喉をならして立ち上がる。

 彼女は泥酔しているとは思えない素早さで、プシュケの方に駆け寄って行った。

 すると他の娘たちも、それに続いてわらわらと乙女の周りに集まって来る。


「ほら脱いで!」

「お姉さんたちに、自慢のお肌を見せてみてよ!」


 寄ってたかる宮女たちが、プシュケの服を強引にはぎにかかった。


「や……やめてください……」


 残酷に感情のたかぶった娘たちに囲まれ乱暴されて、力では抵抗もできず、少女の声が人波に飲まれて消えていった。


「抵抗すんなし!」

「キャハハハ……この子、先にお酒が飲みたいんだってよ~」


 いつの間にか酒瓶を取り上げていたエレナが、もつれて倒されたプシュケの頭に酒をドバドバと浴びせかけた。

 ぬらされた髪がべっとりと、もんに上気した乙女の頬に張り付いた。

 同時にれいな衣服が、陽気な笑い声を上げる娘たちにビリビリと引き裂かれていく。


「ぬ―げ!」

「ぬ―げ!」


 いつの間にか宮女たちが、いかがわしい音頭を取り始めた。


 まだ子供の性質を残す、若い娘たちだからこそやれる無情な行為──とは言え、これほどまでに美しい宮女たちが、一皮むけばこんな残虐な性質を秘めているのかと目をおおいたくなるひどい光景であった。


 さすがに、ここまでのむごいいじめには参加できず、黙って見守っているだけの宮女たちも何人かはいた。


 だが、エレナの息のかかったあまの娘たちは、理性を失ったかのようにぎゃく蛮行ばんこうを楽しんいる。

 それは明らかに、悪ふざけのはんちゅう逸脱いつだつした集団暴行リンチであり、その下卑げびぎゃくたいを一身にうけ、自分のされていることに理解の追いつかない乙女の顔が、屈辱の赤い色で染まっていく。


 そんな宮女たちのひどい悪意がさらけ出された一幕を、感情を持たぬ表情でしばらくは見続けていた魔王だったが、突然低くつぶやいた。


「……やめろ」


 魔王の盃を持つ片手が、怒りにわなわなと震え出している。


 だが、男の声も興奮した娘たちの喧騒けんそうにかき消されて──その刹那、必死の抵抗をしながら助けを求めようとする少女の視線が、魔王の──すでに(かげ)りの落ちていたリュネシスの目線と重なり合ったのだ。


 その瞬間、魔王の内側であらがえぬほどのつよく激しい衝動がわき上がった。


「やめろ!!!」


〝かっ〟と目を見開いたリュネシスの全身から、すさまじいまでの怒気が放射された。


 直後、見えない大男の拳をくらったかのような衝撃が、乙女にむらがる娘たちを襲う。

 それは一瞬で五、六人の宮女たちが弾き飛ばされてしまうほどの、強力な思念波であった。


 突如として降ってわいた落雷の如きエネルギーの直撃で、あっけなく吹き飛ばされた娘たち──その中には、激しいショックで気を失った者までいる。

 率先してプシュケの服をはぎ取り、殴り、下品な笑い声を上げて馬乗りになっていた娘だった。


 たまたま運良く距離を開け、魔王の制裁を受けずに済んでいたエレナは、瞬時になぎ倒された仲間たちを見て絶句して凍りついた。


「なっ……」


 エレナは立ちすくみながら、倒され気絶した宮女に目を向ける。


 気を失った娘は、よほどのダメージを受けてしまったのだろう。白目をむいて泡を吹き、しばらくは意識が戻る様子もない。

 無事だった宮女たちも、酒や破片が散乱している床の上と、激昂げっこうした魔王との間に交互に視線をさまよわせながら、ぶるぶるとおののいていた。


 さんじょうと化してしているその中で、唯一無事ですんでいるのは、いたいけな少女だけである。


 すべては分別を失った女たちの、醜悪なふるまいを一瞬にしてしずめる、魔王の一喝いっかつであった。


 短い静寂が流れる。重苦しい静けさが──圧するような恐怖のいんで、もはや誰も声も出せなかった。


 だが、唐突に気まずい沈黙を打ち破ったのはエレナだった。


「あ~ん、リュネシス怒んないでよ。冗談なのにぃ」


 おどけたふうに、あるいは子供をあやすように、ずるい娘は不自然なまでに甘い声を発した。

 魔王をリュネシスと呼び捨てにできるのは、宮女たちの中で彼女だけであった。


「あたしらが、本気でこの子をいじめると思った?ただの、新歓パーティーじゃ~ん。みんな若いから、ついつい熱が入り過ぎちゃっただけ。あたしも、そろそろ止める気だったんだから」


 あからさまな嘘でその場を取りつくろうとするエレナに、魔王は不快そうな魔性の双眸を向ける。


 ひとみには変わらずくらい怒りの光が宿り、それに呼応するがごとく、酒気の吐かれた口元からは青い炎がゆらめいていた。

 超常的な力の行使により、呼気にこめられた魔力によって引き起こされる現象であった。


 その、あまりの不気味さに、エレナはすくみ上がりそうになる。


 普段のなれ合いの関係とめみよい容姿──そして、意外と理性的で物静かな側面のあるリュネシスの性格から忘れそうになるが、この男はあくまで世界を震撼させる恐ろしき魔王なのだ。


 だが、いまさら引き下がれはしない。


 恐怖を必死でおさえ、娘は愛想のいい笑顔を浮かべながらふんした男に歩み寄ろうとする。

 仲間たちをしきる立場として、今は形だけでも荒れた場を収めたいところだった。そして自分の度胸と、リュネシスとの良好な関係も皆に誇示こじしなければならない。


 これ以上怒らぬようにと祈りつつ、娘は十分に魔王に近寄ると、もったいぶった仕草を取って彼の首に腕をからめた。

 そうして、耳元に甘い吐息を吹きかける。

 こうすればどんな男であれ、自分の魅力になびくはずだと確信してのことであった。


「ふふーん、つかあんたってさぁ。怒った顔もすっごく素敵……」


 歯の浮くようなセリフを、色気たっぷりに吐き出して──そんなエレナの内側では、さきほどまでの恐怖が徐々に自信へとすり替わってきている。

 やはり自分こそが、若き魔王にふさわしい、もっとも高貴な宮女なのだというおごりに近い自信が──。


 瞳を夢見心地にうるませたエレナが、ゆっくりとリュネシスに唇を重ね合わせようとする。

 まるで皆に見せつけるかのように。あるいは、愛憎劇を演出する舞台女優でもあるかのように……。


──こいつは、あたしだけのもんだ。あんな小娘ガキに取られてたまるか!


 そう思いながら、放心状態でぼおっと見ているプシュケに対して、エレナは密かにちょうろうするような流し目を送った。


──ざまあみろ、クソガキ……。


 リュネシスに唇を押し付けようとしつつエレナは、勝ち誇ったようにほくそ笑んだ。


 かんのいい魔王はそれを解っている。


 だが、この時リュネシスは、自分をしたう娘たちに危害を加えたことで後味の悪いものを残していた。


 ゆえに仕方なくエレナと口づけを交わすことで、適当な落とし所を見出そうと、女の接近を受け入れる姿勢を示していたその刹那──絶対に見たくもないと言わんばかりに、激しく泣き出しそうな表情で顔をそむけようとする少女の──プシュケの姿が、視界のはしにとらえられたのだ!


 それはまるで、全身をつらぬかれたような衝撃だった。


 次の瞬間リュネシスは、目の前にせまる容姿だけは美しいが心のゆがんだ娘の両肩を、がっしりとつかんでいた。


「やめろ……」


 抑揚よくようのない声をもらして、リュネシスはエレナを冷たく突き放した。


「……そう言ったはずだ」


 淡々とした言葉の裏にこめられたのは、断固とした拒絶であった。それは、一見ゆるく押しただけに見えるが、てのひらからほうもない圧力として放たれ、受けた娘は驚きに目をみひらいた。


「え……?」


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。


 だがすぐに、自分が退しりぞけられたという事実を理解すると、エレナの内心から怒りの感情がわき上がってくる。

 彼女は〝ぎりっ〟と歯をきしらせて魔王をにらんだ。


 しかしリュネシスはかまわずに、無言のまま扉の向こうにあごをしゃくる。

 もう、行けと言う指図だった。感情を表に出さない魔王が身振り手振りを交える時、それは強い意思を示しているというしょうでもあった。


──何、こいつムカつく!!


 エレナはしばらく動かぬまま、不愉快そうにリュネシスをみすえていた。

 一言ぐらいは文句を言ってやりたい。だが、誰も魔王には逆らえぬ。まして、命が惜しければ──。


──くっそう……。


 心の中でエレナはうなった。とは言え、何をどうできるものでもない。


 憤懣ふんまんやるかたない気持ちを危うくおさえ、エレナは重々しくきびすを返した。彼女は肩を怒らせ足音あらく、広間を後にしようとする。

 仲間の前でこれ以上しゅうたいはさらせぬという思いもふくれ上がり、もはや歩調に迷いがない。

 他の娘たちも、あたふたと慌てふためき、倒れた宮女をかかえ上げるようにしてそれに付いていこうとした。


「ほら!てめえも行くんだよ!!」


 エレナは八つ当たり的に、ぺたんと腰を落としたままのプシュケのえりくびを乱暴につかんで叫んだ。


「エレナ!」


 それを魔王が押しとどめる。


 鷹揚おうように右手をなぎ、指先で力強く床を突くしぐさを見せて──それは、少女だけを残して、お前たちは速やかに立ち去れという意味であった。


「くっ……」


 今度こそエレナの表情に、隠しようのない真っ赤な屈辱と憎悪の色が浮かび上がった。


──あームカつく!魔王のくせに、こんなクソガキなんかひいきして!!こいつのどこがいいってのよ!?


 よほどそう訴えてやりたい衝動にかられたが、それを口にすると負けのような気がして、エレナは吐き出しかけた言葉をぐっとのみ込んだ。


 しかし、もしそれが他の男だったら、とっくに飛びかかって持てる力のすべてを使ってでも叩きつぶしていたであろう。


──まあ、いいや。どうせここでの裏の権力は、あたしが握ってんだ。なんだかんだ言ったって、この世はすべて金で動いてんだよ!うちの親父に言いつければ、たいがいのことはどうとでもなるんだから──絶対にただじゃ済まさないからね!!


 さんざん好き勝手に育てられた大富豪の娘は、魔王に本心を気どられぬよう、目をギラつかせて乙女を一瞥いちべつし、心の内で毒づいた。


 やがて、かしましい女たちが立ち去ると、辺りはがらんどうのように静かになった。

 まるで台風でも通り過ぎたがごとく、大ホールのいたる所には様々な物が散乱し、それらが余計に奇妙な静けさを浮き彫りにしている。


 リュネシスは唐突に、かたわらに置いてあった自身のマントをつかみながら立ち上がった。

 彼はそれを持って、まっすぐ乙女の方に向かって行く。


「あの、わたし……わたし……」


 プシュケは歩みよって来るリュネシスに、哀しそうな目を向けていた。衣服のあちらこちらが裂けて、白い肌がむき出しとなっている。

 少女は半裸になった体を、恥じらい隠すように両手でおおって震えていた。


 そんなプシュケの様相を見て、リュネシスは一見荒々(あらあら)しく──だが、か弱い少女をけして脅かすことのないよう、ゆったりとした歩調で距離をつめていった。

 若き魔王がひとりの宮女ごときにこのような気を使うのも、みずから足を運んでやったのも、この時が初めてである。


 プシュケのぢかにまで迫ると、リュネシスは目線を合わせるように腰を落とした。


 そうして、静かに語る。


「言うまでもないが、ここは魔王城だ……」


 おだやかな声が、ふたりだけになった空間に響き渡った。


「愚かでれつな女ばかりいる……だから、ひとりぐらいはお前のような娘がいてもよいと思ったのだが……私の見込みちがいだったな」


 優しさの中に甘い皮肉を込めたような魔王の言葉を受けて、少女の瞳から涙があふれ出した。


「も、申し訳ございません。わ、わたし……わたし……リュネシスさまのお役に立ちたかったのに……全然お役に立てなくて……それなのにまた、助けていただいて……」


 思わぬ少女の返答に、魔王は密かに眉をひそめた。


──また、だと……?


 意味をはかりかねているリュネシスに、プシュケの熱い涙をふくんだ言葉がおおいかぶさった。


「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」


 乙女は魔王の腕にしがみつきながらえつした


──ああ……そういうことか。


 リュネシスの中でわき起こった疑念が、瞬時に晴れる。


 彼女は今、申し訳ございませんではなく、ごめんなさいと言った。


 ばかではないはずなのに、本来使うべき言葉をあやまるほど混乱しているのだ。


 つよくそうする男の目の前で──もっとも、その術をかけたのはリュネシスだったが──あれほどのしゅうたいをさらしてしまった。それは、まだ幼さを残す少女にとって、よほど傷つくことだったに違いない。


 この時リュネシスは無意識に、なぐさめの言葉を探していた。だが、そのような会話に、彼は全くなじみがなかった。


 しばし言葉を持てあましたリュネシスは、黙したままもう一度プシュケの発言の真意を考察する。


 それで彼は、はっきりと悟った。


 なぜかは知らぬが、この少女は魔王を少しも恐れてはいない。

 小鳥のように無力な小娘が、泣きじゃくりながらも、天と地を震撼させ誰もが恐れおののく魔王の腕に平気でむしゃぶりついているのである。


 これは、彼女にほどこした強力な魅了の魔術による影響を考慮しても説明がつかないことだった。


 この世に魔王リュネシスを恐れぬ者はいないのだ。それはたとえ、彼の周囲にはべる宮女たちであろうとも……。


──こんな非力な小娘が、なぜ私に全くおくしていないのだ?


 しゃくぜんとしない強い疑問が、魔王の中で新たにふくれ上がった。


 今、目の前にいる娘の心を覗くことはたやすい。

 魔王がほんの少し力を駆使すれば、この不可解な乙女の脳裏から、秘められた想いも過去の記憶もすべて読み取ることができる。

 そしてそれこそが、疑問を解くための最も簡単な手段だった。


 だが、それをする気にはなれなかった。


 この世に、はばかることなどないはずの魔王にとっても、なぜか──ため息とともに、リュネシスの口を思わぬ言葉がついて出る。


「おまえが(あやま)る必要はない。多分、悪いのは私の方だ……」


 言いながら彼は〝ばさっ〟と娘の体に、手にしていた自分のマントをはおらせてやった。

 信じられぬほど質の良い生地でわれた大きな服飾が、プシュケの体をおおい尽くす。

 同時に魔王は彼女の肩にそっと手をそえ、空間に溶け込むささやかなしゅを唱え始める。


──気になることはあるが、術をといてもう解放してやろう。たわむれにかけたつもりの魔術だったが、この娘にはこくだったな……。


 リュネシスの魔性の双眸が、神秘の青みを帯びて淡く輝く。

 ひとみから派生した魔力は、乙女の全身を薄い光の膜となって包み込んでいった。


 すると、プシュケの内心のたかぶりが速やかに消え去っていく。

 先ほど体験した、不快なできごとの記憶までも消されていく。


 ほんの数秒間──乙女の意識は空白となっていた。

 我に返った時には、宮女たちの暴行によって頬にできた傷も、破かれた衣服も、いつの間にかすべてが完全に修復されていた。


「……?」


 プシュケには、何が起こったのか解らなかった。


 ただ、優しい波動が自分の身を流れ過ぎて行ったことだけは、はっきりと知覚している。

 そして肩にかけられた、力強い光沢を帯びたマントは、誰のものなのかおぼろに覚えている。


 そこで、周囲の様子の変化にもようやく気がついた。

 今いる場所は、新しい宮女として移り住んできたばかりの、自分の居室の中だと知った。


 プシュケはその日、もう何も考えず、部屋のベッドに横たわりぐっすりと眠った。

 毛布代わりに使わせてもらった魔王のマントはとても心地よく、なんとも言えない安らぎと幸福感を彼女に与えてくれた。


 翌朝、城の執事がプシュケに、宮女を自由に辞職することが許可されているという知らせを告げてきた。


 だが乙女は、それをきっぱりと断った。







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