怒り狂う魔女
アカーシャは激怒した。
戦と虐殺に逸ろうとする五妖星たちを、彼らには聞き慣れぬ将の品格の理をもって諭し治めていただけに、これ以上にない形で顔に泥を塗られたことになる。
〝魔王軍総帥〟としての要職に就いたばかりで立場も確立されてはおらず、配下の中には若く美し過ぎる彼女に対して、その実力を知りながら下卑た疑念を抱く者も少なくはなかった。
つまり、その美貌で魔王に取り入っただけではないか、と──そんな彼らの反抗を増長させる、絶好の口実までも与えてしまったのだ。
あくまで冷静さを装ってはいたが、内心の怒りは凄まじかった。
使いの魔導士が無惨にも切り捨てられた、という知らせを受けたときには、さしもの彼女も真っ青になった顔を、配下の者たちに見せぬよう手で覆い隠しながら、しばらく小刻みに震えていたほどだった。
ゆえに五妖星の中で最も残虐かつ悪辣なジャドーが、嬉々としてルスタリアの王都エルシエラ攻略の尖兵として名乗りを上げたとき、アカーシャはニヤリと妖美な笑みを浮かべ、無言のまま顎をしゃくるようにしてエルシエラの方角を示した。
このようにして、ルスタリアでの戦いの火蓋は切られたのである。
―――― § ――――
星ひとつ見えない真っ暗な夜空の下。
エルシエラに隣接する大平原を、不気味な軍勢が凶虐なる悪意を持って、粛々と列をなして進んでいく。
デュアール平原で敵を見張るエルシエラの哨戒兵たちを、そうと気づかせる前に見事な手際で惨殺しながら、葉を喰らう長虫のようにルスタリアを侵略し、着実に王都エルシエラを目指して進撃している。
忌みなる暗殺者ジャドー率いる、第五魔軍一万の大軍団であった。
静かなる平原の夜に一万の怪物たちの息吹と、無数の鎧の擦れ合う音が、耳障りにガチャガチャと奏でられていた。
いくつかの夜をまたいだ、どんよりした曇り空の早朝──。
どろどろどろ、と地獄の底から湧き出したようなどよめきが、王都に近い平原の隆起に響き渡っていた。
街の人々はそれを初め、夏の雷雨の轟かと思った。
だが直後にそれは、エルシエラを望む丘の上に一斉に現れた悪魔の大軍勢の地響きであると知り、人々は恐怖に色めき立った。兵士たちは決死の戦いを覚悟し、弱く戦えない者たちは絶望に竦み上がった。
まさにその時である。
都を背に守るように、ひとりの巨人が姿を現した。まるで仁王像に命を吹き込んだかのごとく、荒々しくも完璧な肉体を誇る漢である。
ルスタリアの王子にして、憂国の守護神ライガルであった。
邪悪な大軍勢を見据える巨漢の全身が、黄金の薄い膜に包まれている。それは内側に抑制されている闘神のエネルギーとして、静かに大気を鳴動させていた。どれほどの力を蓄えているのか想像すらできぬ、膨大な闘気の発露である。
平原を埋め尽くす悪鬼の前に立ち塞がる史上最強の拳士の貌は、力強く精悍で、同時に高潔な覚悟で満ちている。
対して、大地を揺るがすほどの凄まじい響きが、再度湧き上がった。
黒い絨毯のように広がる第五魔軍が武具を持って打ち鳴らした、けたたましい鬨の声が、一斉に轟いたのである。
耐え難いまでの圧力に人々が恐慌へと陥りかけたその刹那、ライガルの貌が、悪逆なる魔軍を睥睨して闘神の猛貌へと変わっていく。
内に秘められていた大いなる力が、戦いの刻を前に抑制から開放されて際限なく高まっていく。対峙する魔軍の邪気ですら押し戻す、凄まじいまでの闘気の顕現であった。
心正しき闘神の出現で、人々の恐怖は拭われる。代わりに希望が紡がれる。静まり返っていたエルシウスの街壁の中から、いつしか群民の大きな歓声が上がっていた。
しかし、兵士たちは悲愴な表情で、敬愛する主の意志に従い街と城の守備を固めている。彼らはいかなることがあろうと、ライガルの戦いに手を出すことを禁じられていた。
ひしめく忌まわしい魔物たちの群れの中、頭一つ分長身の第五魔軍の将ジャドーは、どす黒い籠手を皮肉たっぷりにベロリと舐めながら、ふふんと凶気の籠もったいやらしい笑みを浮かべていた。
百メートルほどの距離を開けて、動きを止める両者の緊張感が、恐ろしい勢いで漲り始める。大地が震動し、空気が一変し、気が炸裂した——その瞬間、両者はどちらからともなく接近した。
確実に、ルスタリア全体までが音もなく震えた。
そうしてライガルは独り、エルシウスを死守したのであった。




