ルスタリア
ルスタリアは、人為国家最大の版図を持つ王国である。
その面積は南北に二千、東西に四千余りにも渡る。
魔王リュネシスが覇を為す秘境アルゴスや、魔女王ラド―シャの支配する魔境ヘルヘイムのように、現世に在りながら幻の大地とも呼ばれるそれらを除く、世界十カ国からなる列国最強の王国でもあった。
その歴史は、地上の中で最も古い。
正統なる古の血統にして、秘められし竜の血筋からなるレミナレス王家に統べられたかの国は、地上で最も美しく豊かで平和に溢れる楽土であった。
気候風土は一年を通じて穏やかで、恵み豊かなる大地から得られる実りを糧に、遠い昔から多くの人々が静かで安寧なる暮らしを営み続けていた。
魔王がかの国を、己の野望の第一の贄としたのも無理はなかった。
アルゴスに隣接する、人間界の要たる王国なのである。世界征服の橋頭堡とするに、これほど適した国は他にない。
もっとも、それを具体的に立案し、計画実行したのは魔王軍総帥──すなわち、魔王軍の事実上の頭目たる〝炎の魔女アカーシャ〟であった。
魔族でありながら、その最も位高き闇の君主である〝魔女王ラド―シャ〟にあえて反旗を翻す、混沌の大軍勢が存在する。
後世の神話に、そして魔界の伝説にすらも永遠に語り伝えられるであろう、誉れ高き戦士群として称えられる現世界最強の戦闘集団——彼らが総大将として頭に戴くのは、天界魔界をも震撼させる最強無比なる〝魔王リュネシス〟なのだ。
その魔王の名代を務め異形なる巨大魔軍を従い束ねる者としての矜持が、そして魔王リュネシスへの密かな想いが、さらには母ラド―シャとの因縁に終止符を打つべき宿命が、魔族の皇女アカーシャに世界征服をまずは為すべき責務として認識させていた。
―――― § ――――
アカーシャの使者である魔導士が、ある日突然レミナレス王家の誇る悠久の巨城クレティアル城を訪れた。
魔導士は、いと高き魔族の皇女アカーシャ——そして、それ以上の存在として背後に座す魔王リュネシスの偉大さを語り、服従する道を示し、無益な抵抗の愚を説いた。
「我らが美しき主アカーシャ様は、断じて闇の魍魎どもの如き残虐非道を旨とするものではない。無益な虐殺なども好みはせぬ。だが、異端の魔軍たる我が同胞もいずれは魔族。雑兵の一兵に至るまで、アカーシャ様の崇高な心得を理解させることはできぬ。武功に逸る者もいよう。蛮行に走る者もいよう。戦が始まれば名高き御身の一族といえど、一切の情けはかけることはできぬぞ」
老いて弱々しい顔を蒼白とする現国王レミナレス47世に、魔導士は冷たい渋面を投げかけた。
「レミナレス王よ。アカーシャ様配下、五大魔軍の一軍でも動けば、この地は略奪と蹂躙の焦土と化すであろう。年寄りも子供も一人残らず死に絶え、女たちは我が軍のつわ者どもの愉悦の贄となろう。王よ。古より続く高貴なる竜の血筋を、このような惨劇に終わらせたくはあるまい。さあ、王よ。我が主に従う道を選ぶのだ」
眼を細めてにじり寄る魔導士の昏い瞳の光にあてられた瞬間、レミナレス王の心中で何かが弾けた。それは、常日頃から彼が密かに負い目としている王としての足りぬ器──弱さであった。
「黙れ!汚らわしい闇の狂徒め!!アカーシャがなんだ!?我らが卑しい妖物如きに籠絡される謂れはないわ!!!」
老王は叫ぶと同時に、意外なまでの素早さで腰元のレイピアを抜き放ち、目前の魔導士の胸に深々と突き刺してしまった。
「な、何を……」
一瞬の惨事に魔導士は理解が追い付かず、驚愕に目を見開いたまま、膝を落とし崩れ落ちる。
王の傍らに付き従っていたライガルは、愕然として顔色を失った。
いかに戦の布告の使いであろうと、使者を切り捨てるは重い禁忌。それは敵の王に唾を吐きかける行為に等しく、その瞬間に、敵勢との果てしない対立は避けられぬものとなる。
魔王軍の総帥であるアカーシャは、妖魔とはいえけして話の解らぬ相手ではないと聞く。折衝を重ね形だけの服従に妥協することで、平和裏に治める道を模索することもできたであろう。
しかし、もう取り返しがつかない。
しかもこれは、レミナレス王家の致命的過失として、魔王軍にこれ以上はない侵略の大義まで与えてしまったのだ。
ライガルは、王の浅はかさに思わず奥歯を軋らせた。