闘神ライガル
青々とした平野が、地平の彼方にまで続いている。
限りなく広い大地の海原を思わせる草原が、そこに横たわっていた。
なだらかな起伏がいくつも重なり合い、その合間に大小の森林が点在する他は、ほとんどの面積を緑の草が占めている。そこに広がっている草藪が、風にざわざわと揺れている。
安穏な時であれば、誰もが憩いと安らぎを得られるであろう、草いきれの籠もる果てしない大草原──それは、デュアール平原と言われた。
ルスタリアの王都エルシエラの東部を、アルゴス国境にまで緩やかに展開する大平原である。
すでに語られた物語から、時を遡ること百年。
若き魔王リュネシスの、怒涛のような世界征服の嵐が吹き荒れていたこの時代——平和なルスタリアにも、戦いの地を求める魔王の恐るべき大軍勢が、デュアール平原に無数の魔物たちの足音を震わせていって、侵略の第一歩を踏み出そうとしていた。
―――― § ――――
不気味に静まり返っている。
真昼の時分であったが、ルスタリアの雨期は雨が降らずとも曇天で、天は分厚い雲で蓋をされ夕暮れのように仄暗い。
生暖かい風が吹いている。風はあちらこちらで旋を巻き、血の匂いを運んでいる。
緑の大地の上に転がるものがある。それは魔物であった。
ただし、その命は失われている。魔物の骸はひとつではない。腕の無い者、又は半身を千切られた者、あるいは頭を叩き潰された者──。
数え切れぬほどの骸が、皆凄まじい死に方で野晒しとなっている。
魔物たちのほとんどが、オークやゴブリンと呼ばれる下等の魔族たちであった。
彼らは知能は低いが人間よりも遥かに力が強く凶暴で、さらには繁殖能力も高いため、戦の最前線を担う魔族の尖兵として使われることが多い。
そのオークやゴブリンたちの死骸がより一層集まる中心に、ふたりの男が対峙していた。
ひとりは全身に傷を負う、桁外れの巨漢である。
三メートル近くあるのではないかという規格外の背丈に、はち切れんばかりの分厚く完成された筋肉の鎧を纏っている。
髪はざっくりと切りそろえられた短髪で、猛虎の猛々しさを示さんばかりの黄金色。
眉も、瞳も、輝くような金色であった。顔は彫りが深く精悍で、それでいて見る者に高潔な印象を与える益荒男である。
漢の名は〝ライガル・ゼクバ・レミナレス〟。
秘められた竜の血脈を受け継ぐ、誇り高きレミナレス王家の王子にして、史上最強の拳士であった。
漢は満身創痍となって、全身を魔物たちの返り血と、己の赤い血に塗れていた。意識は今にも途切れそうなほど朦朧としていて、荒い息で耐え、なんとか立ち構え続けている。
「化け物め……」
対峙する男が、忌まわしげに吐き捨てる。
暗黒よりもなお黒い、漆黒の鎧に全身を包んだ痩身の男であった。
こちらも二メートルを優に超えるかなりの長身を有してはいるが、相対する金色の漢の途轍もない巨大さの前では、並より少し背が高い程度にしか感じられない。
だが、その男も到底尋常の存在には見えなかった。
男が纏う鎧の至る所には不気味な棘がにょっきりと生え、胸には毒々しいサソリの紋様が刻まれている。いかなる者が、こんな邪悪な防具を生み出したのであろうか。
まるで悍ましい殺意をそのまま素材にして、成形されたのかと思わせる禍々しい鎧であった。
男の目の下から顎までは、やはりどす黒い兜の鬼面の頬に覆われていて、その表情を窺い知ることはできぬ。
ただ、兜の庇の奥でその双眸だけは爛々と、けして満たされることのない欲望の輝きを放っていた。
〝暗殺者ジャドー〟。
〝炎の魔女アカーシャ〟が統括する魔王リュネシス麾下、最高の戦闘能力を有する五人の戦士たちに与えられる称号——〝五妖星〟の一人にして、悪名高い第五魔軍の将である。
五妖星の中で最も残忍なこの男は、歪みきった気性ゆえに魔王軍においてすら忌み嫌われている。
しかしその獰悪な性情こそが、五妖星の一角を担う超一流の暗殺者として、天性の資質をジャドーに与えていた。
呪われた暗殺者は、腹黒い怒りを籠めて嗤う。
「おれの第五魔軍一万を、よくもぶっ潰してくれたなあ——ただの殺され方で済むと思うなよお?いーっひっひっひっひっひ……」
ジャドーが両腕を構えるとともに、歪な形状の黒塗りの短剣が、両腕の籠手の中からジャキン!と飛び出した。
〝アサシンブレード〟と呼ばれる即効性の猛毒が塗られた短剣を、相手の死角から突きさす武器である。
忌まわしい邪剣ではあるが、こと戦場においての殺人術として用いる武具としては、これ以上に効率の良い人殺しの得物は存在しないであろう剣呑極まりない一撃必殺の凶器であった。
そして、この邪剣を使いこなすのに、ジャドーの右に出る者はいない。
「なあ……なんで俺がこんな余裕かませるか解るかぁ?」
いきなり妙になれなれしい口調に変えて、ジャドーはいかにも意地悪く大きな唇のはしを吊り上げた。
「さっき風上から毒を撒いておいたんだよお。さすがのてめえでも、そろそろ効いてきたんじゃあねえのか——ああ?闘神ライガルさんよお——」
「!?」
ライガルの眉が、わずかに顰められる。
戦いによる極限の疲労とは異なる、別の種類の何かに急速に体力を奪われていくのが解る。
明らかにそれは、毒による効能であった。しかも並みの人間なら、瞬時に致死量に達していたであろうほどの毒性であった。
「……にしても、よく立ってられるなあ。スゲー野郎だ。いや、殺しがいあるわこの兄ちゃん」
嘲笑うジャドーの構えが、なにやら奇怪に蠢いた。
矢を射るような殺気が放たれようとする、不吉な予兆——しかし、ライガルは動かない。不動の構えで暗殺者を見据えている。
「安心しな。お前だけは俺様の手で、き~っちり止めを刺してやるぜえ。俺様の〝アサシンブレード〟に狙われて、生きていた奴は一人もいねえ。つか、こんだけ俺様の軍をめちゃくちゃにしてくれたお前を、絶対に許すわけにはいかねえ」
ジャドーは息を止めて、冷たい眼でライガルを睨んだ。しばしの静寂とともに、その痩身から昏い殺気が迸った。
直後、暗殺者が突撃に転じる。
呼気とともになされた、凄まじい迅さの攻撃であった。毒に濡れた二本の〝アサシンブレード〟が、奇妙な動きで高速回転する。
「喰らって死ねや!!闇影の阿修羅斬りーっ!!!」
ライガルの視点から、視界を覆い尽くして阿修羅の腕のようにのたうつ、無数の刃が残像を伴って襲い来るのが見えた。その動きの一つ一つに全くの規則性はない。いかなる達人であろうと見切り不可能な、暗殺者ジャドーの必殺の剣撃である。
この時に至っても、ライガルは黙して動かない。
ただ、己に迫る数え切れぬ刃を、微動だにせず受け入れていた。
剣呑な刃は百の方角からその全ての軌道を変えて、ライガルの全身の急所に振り下ろされる。人中に、喉に、みぞおちに、心臓に、それらすべてに正確な狙いが定められ撃ち込まれた。
ドガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ!!
——殺ったあ!!
殺しの快感と勝利の到来に、暗殺者の頬に野卑な笑みが浮かび上がった。
しかし——。
快楽の波はすぐに霧散した。代わりに伝わったのは、手元の刃がバキリと砕かれる嫌な衝撃であった。
——何ィ!?
ジャドーの眼が驚愕に見開かれる。
〝アサシンブレード〟は確かに、ライガルの急所を捉えて振り下ろされていた。
だが破壊されたのは、その二本のブレードの方だったのだ。
ライガルの全身が、金色のオーラに包まれていた。
その体内に蓄えている最後のエネルギーを一気に噴出させ、圧倒的な闘気の鎧として身に纏い、回避不能なジャドーの必殺技を〝気〟の障壁で弾き返したのであった。
そして、同時にそれは強い衝撃となり、暗殺者の厚い鋼の刀身をも粉々に破砕していたのだ。
——ば、バカな!!
想定外の事態に我を失ったジャドーの背筋が、次の瞬間に硬直する。
完璧に鍛え上げられた、丸太のように太い腕が意外な迅さでぬっと伸びてきて、必殺技発動直後の暗殺者の隙ある貌をがっしりと捉えたのだ。
——しまった!!
気付いた時には遅きに失していた。ライガルの万力のような両掌に挟まれた感覚に、ジャドーは慄然とする。
この時忌みなる暗殺者は、はっきりと見た。
目の前の漢の疲労に消耗していたはずの貌が、みるみるうちに鬼神の如く凄まじい形相に変化し、放射された陽光さながらに黄金の輝きを放ったのを——。
ジャドーの中で、膨張しきった恐怖の感情が弾けた。慄きに全身が、がくがくと震えだす。
「は、放せ!放せ!!放してくれー!!!」
「ぬぅうあああああああああ!!!」
闘神の咆哮と、暗殺者の絶叫が重なり合った。
この世のものならぬ苦痛と絶望が、ジャドーの脳裏を一気に駆け巡る。
グチャ!!
ひしゃげたトマトのような音を立てて、ジャドーの頭は兜ごとライガルの両掌で押し潰されていた。割れた頭蓋の中からどろりとした脳漿が大地に飛び散る。これがこのどす黒い暗殺者の、哀れな成れの果てであった。
直後、力尽きてライガルもその場に崩れ落ちていた。
降り始めた雨が、戦士たちの屍を音もなく叩く。
地を嘗めるようにうつ伏せに横たわるライガルの視界が、ゆっくりと霞んでいく。雨に冷たく濡れていく背を感じながら、孤高の闘神の意識も深い闇に落ちてゆく。
やがてライガルの体全体が、ふわりと白く温かい光に包まれていき——そうして、幻のように跡形もなく消えていった。
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