新しい世界へ
くらい空間に、若者のすすり泣く声が響いていた。
糸が切れて離れた首飾りの玉のように、辺りには黄金の涙がキラキラとした輝きをまいて散らばっている。
本来なら、巨万の富を持つ者であろうとも求め得ぬ珠玉の宝の雫が、例えようもないほどの深い哀しみの色で満たされていた。
それは、流した魔のものの、悲痛なまでの想いがふんだんに籠められていたゆえに——。
その、頼りなく哀哭しているのは、元々の彼を知るすべての人々が目の当たりにすれば、にわかには信じがたい光景——若き魔王の、誰にも見せられぬ哀れな姿だったのだ。
そんな彼をいたわるように、老いた司教が見守り続けている。
「本当に、そうなのか?」
魔王はかすれる声で、司教を見上げて尋ねた。
まるで、真の聖者であるサムエルを心から認め、彼に縋り、頼り切っているかのように。
「プシュケの——あの娘の私への愛は、けして私の忌まわしい力の影響ではなかったのか?本当に……」
リュネシスの哀しげな問いに、老いた司教は確信を持って応える。
「断じて陛下。神に誓って」
優しく力強く言いながら神の使いたる司教は、もう幼子のように無力になった若者の肩に置いていた手を、その握られた拳の方におもむろに重ねてくる。
司教の言葉を受けリュネシスは、少しだけ安心したように表情を和らげながら、涙の止まらぬ瞳を横に広がる闇にそらした。
同時に彼の泣き声が、さらに細く絞ったような声に変わっていく。
今のリュネシスは、か弱く儚い存在に成り果てていたが、しかしそれこそが、彼の人間らしい理性と繊細な本質を現しているのかもしれない……。
さらに時間が流れた。
「何が……望みだ……?」
ようやく涙を止めて、リュネシスはそれだけを訊いた。
若者の口調はある程度正常に戻っていたが、その声からは、彼が拠り所としている魔王としての凄みも妖しさも消えている。
「ただ、正しい道を——」
「言ったはずだ。解るように言え」
「……ならば陛下」
司教は神の代弁者のごとく、もの静かな尊厳を持って語りだした。
「この世界の弱く貧しい者たちのために、清らかなる布施をなさいませんか」
「布施?」
「そうです。人は自分だけが財や富を多く得ることで、幸せが得られると思っています。しかし陛下——自分と自分以外の者は、けして無関係にはありませぬ。おのれ独り富み、他の幸せを願わない者は、次第に徳が失せ、得た物すら失って貧しくなり、死して浅ましい魔となるのです。自他は不二であることを信じ、他共々にしか幸せになれないことを知って、他の報謝を求めることなく、ただ清らかなる布施の徳をお積みなさい。陛下——これが真に富むということです。そして真の知恵です。清らかなる布施によって、陛下の迷いも苦しみも消えることでしょう」
黙して聞いていたリュネシスだったが、くぐもった声で笑った。
「何が布施だ……仮にも私は魔王だぞ。どこまでいっても……私は魔王なのだ。そんなことができるか……」
だが、そう言い放った後、若き魔王は真剣な表情になり粛として考え込む。
意味深い、それでいながら奇妙な沈静が数刻の間、辺りを包んだ。
やがてリュネシスは、何事かを決めたような貌で立ち上がる。たった今まで泣き崩れていた者とは思えぬほど、しっかりと足で地を踏みしめて。
それは、何かを予感させる、永い一瞬だった——。
にわかにリュネシスが、光の呪を唱えだした。
強い決意を秘めた、凛とした声を響き渡らせて。
同時に複数の指先が、虚空に滞留する数多の光のサインを描き出す。それらの軌跡は流星のように四方に流れていきながら、徐々に複雑さを増していく。
唇からは、独特の韻律で上下する呪言が溢れだす。
それはアルゴスのすべてに音でない音として広がっていき、何らかの見えない呪術的効果として、次第に強く浸透していく。
一国の運命をも変える人智を超えた不可思議な力が密かに、しかし極限にまで高まってゆく。
臨界点を超えようとする呪の力を制御するために、最後の気合いを込めた魔王の両眼が〝カッ〟と見開かれ、辺りが眩い光に包まれた。
そして——。
今度こそ尽き果てたかのようにリュネシスは、がくっと膝を落とした。彼が不得手とする光の呪に、今持てる全ての力を注ぎ込んだがために。
サムエル司教も驚きを隠せず思わず息を呑む。
彼はもう、アルゴスで何が起こったかを理解している。
扉を開けるとその向こうには、すでに新しいアルゴスが誕生している。それまでの司教は、世界が変わることに一片の疑念も抱いてはいなかった。
しかし、だからと言って、それがまさか今日このような形で、魔王リュネシスの手によって——。
——やはり神は、誰よりも正しく、すべてを理解されている。
枯れ木のごとき手が、感動でわなわなと震えるのをようやく押し殺し、司教は涙の籠った深い敬意を払う眼差しでリュネシスを見つめた。
「よくぞ、勇気あるご決断をされました」
同時にサムエル司教は、神妙そうな面持ちで深い息を吐いた。
「それにしても陛下──あなたもお人が悪い。私に、このような重責を背負わせるとは……」
新たなる世界では、法王としての彼の地位が約束されてしまっている。
いかに謙虚な老人であろうとも、以前の彼のようにそれを辞退することはできなくなっていた。
リュネシスは、サムエルのため息混じりの言葉に、何も応えなかった。
応える気力すら失くしているのかもしれない。
その貌は陰影を落としていて、司教にも見えなかった。
ただ、若者は弱々しく手だけを振り払い、老人にこの場を去るようにと無言で促した。
サムエル司教は深々と頭を下げた後、しばらくの間、困惑を交えながらも、澄み切った真っ直ぐな目でリュネシスを見つめていた。
が、疲弊した様子の彼の邪魔にならぬよう、やがて音もなく立ち去って行った。
薄闇の中、ひとりになったリュネシスは、よろりと立ち上がると力なく自分の玉座に歩み寄った。
疲れ果てた彼は、そこにぐったりともたれかかる。
(リュネシスさま)
だが、天使のように朗らかに笑うプシュケの呼び声が確かに聞こえ、今やただの若者となったリュネシスは微かな——それでいて満足しきった笑みを浮かべながら、空を仰ぎ静かに目を閉じていた。
ほどなくして——。
どこからともなく、アカーシャがすっと現れた。
彼女は幽霊のように、何も言わずにリュネシスを見守っていた。
沈黙するふたりの鋭敏な感覚の中に、城外からあらゆる人たちの幸福な思いが流れ込んでくる。
突如、徴兵制が廃止され、恋人の元へ喜び勇み帰る青年や、家族の元へ急ぐ父親、そして彼らを心待ちに待つ人たち。
奴隷制の撤廃で、不条理で過酷な労働から解放された人々、そして、明日への希望をもって生きるようになる、その家族たち。
病、あるいは老齢のため、死を待つしかない人々に与えられる正しい法王制度による真っ当な恵み。
すべてが最初からそうであったかのように、しかしながら、悲しみの世界を乗り越えた幸福に、皆が静謐に歓喜していた。
天への高みに近づいた平和に、神聖な輝きを見出していた。
彼らから湧き上がってくる、天上の天使たちの祝福のような大いなる感動と勝利の前に、すでにふたりの魔物たちは無力であった。




