悔恨
翌日。
魔都エリュマンティスの中心で威容を誇る〝ディアム城〟の、城下を一望できる大広間——いかに身分の高い者がどれだけ願い請おうとも、一生この広間に召されることはないかも知れぬ通称〝静寂の間〟に、似つかわしくない客が訪れていた。
無暗に広い空間には、人が浴びれば眩暈がするほどの妖気が充満している。その妖気の中、陽炎のように静止したふたつの影がある。
「ふん……よく来たな」
ふたつの影——それは、魔王と年老いた司教であった。
魔王リュネシスは黒蛋白石の玉座──嘆きの御座に肘を突きながら、冷ややかな目で相手を睨んでいた。
すでに人払いはされているが、大広間の空間には魔王の放つ凄まじいまでの妖気が満たされているため、無数の魔物たちが潜んでいるかの如く噎せるほどの気配が漂っている。
幾色もの貴石を散りばめた極上の黒衣をまとう魔王とは対象的に、質素な白い法衣に身を包んだ老人——サムエル司教は慇懃に頭を下げた。
その物腰のひとつひとつには高潔な重みがあり、常人なら恐怖で歯の根も合わぬはずの魔王の激烈な気配ですら、柳枝のように受け流している。
「で、どういうつもりだったのだ?」
司教の落ち着きがどうにも小癪で、魔王は何の前触れもなく本題に入った。
その声には容赦のない威厳が籠められ、壮大な交響曲のように何者も逆らえぬ響きとなって辺りに広がっていった。
だが司教はやはり、隣人と世間話をするかのごとくあくまで平然としている。
「ご無礼ながら王よ──どういうつもり、とは?」
司教の言い草に、魔王の目元が、癇に障ったかのようにピクリと動いた。
明らかに目の前の老人の態度は、〝王〟への敬意に欠いている。
リュネシスにとって面白いことではないが、簡単に逆上するのも彼のプライドが許さない。
そこでとりあえず魔王は、気にせぬふりをして話を進めてみることにした。
「言うまでもない。わざとのように私を直視しながら、あえて目立つ所で貴様が立っていた理由だよ。あの安い演出には、そもそも何の意味があったのだ?」
「陛下……」
老人は淡々と受け応える。
ただなぜか、リュネシスの称号を王から陛下に変えていた。
「私はただ、神のご意思に従って、〝光の皇子〟足らんとする者を見ておりました」
「陛下……光の皇子だと」
リュネシスは束の間表情を固めた後、妖し気に嗤った。
それでも肘を突いた不遜な姿勢は絶対に揺るがせようとはしない。
「フフ……いかにも聖職者の好みそうな文言だな。そのような言葉で、適当にはぐらかそうと思ったか?私がそんなものに乗せられる、阿呆に見えるのか?」
「いえ、他意はありませぬ」
司教の言葉は、素朴だが確信に満ちている。
「ならば解るように言え」
憮然とした言葉を繰り返す魔王に、司教は平静な微笑を返した。
「私は正しくあろうとする者を、見ていました」
「何だと?」
「あなたは今、光の前に迷われている。光の道に躊躇われている。あなたが真に邪悪な者であるならば、あのように物静かに思索を追求される顔は致しません。そして、何の迷いもなく私を殺していたことでしょう」
「ふん。知ったふうな口を……」
不快げにそっぽを向いたリュネシスの口元を、皮肉な嘲笑が掠めた。
しかし、司教は深く思いやるような視線を外さない。
「あなたは光を思い見ている。だからこそ、私を御召しになった」
「あり得ない憶測だな。ひとつだけ応えろ。おまえはなぜ命を懸けてまで私の関心を引こうとしたのだ?さすがにそれだけが少し気になってな……応えなければ今度こそ殺す」
魔王の口調に、脅しとは思えぬ殺意がこもったが、司教は穏やかな笑みを浮かべた。
「〝新しい世界〟の礎となる為に」
「〝新しい世界〟だと……?」
「はい」
マリエル司教は、バルコニーから見える外の景色を眺めた。
「世界は今、あなたとともに光に向かおうとしている。暗い悲しみに覆われていた世界が、喜びの光で輝く時を待っているのです。私はただ、先ほども申し上げた通り、神の御意志に従っただけです」
「やめろ。反吐が出る。おまえはその神の意志とやらに従い、犬死にしたいのか」
「あなたに私を殺せないことは解っている」
「ほう?」
魔王の瞳に、危険な色の光が灯った。
「試してみるか?」
空間に漂う凝縮された妖気が、巨大にゆらりと蠢いた。
それでも司教は、善良な微笑みを浮かべたままで怯える気配は全くない。それは光の透明体──あるいは実体のない空のようで、さしもの魔王も怒気が逸れる。
彼にとって枯れ木のような老人をくびり殺すのは、蟻を踏み潰すのと同じぐらいに容易いが、それではあまりにも釈然としない。
「まあ、よいわ……だが、そもそも貴様は弱者のくせに、なぜ魔族の王と呼ばれる私を恐れない?私がその気になれば、おまえなど万人いようとも容易に焼き尽くすことができるということを百も承知の上でだ」
内心の困惑を王者の威風にすり替えて、魔王は地獄の底から響くような声を放って問いかけた。
しかし、今にも全身を砕かれそうな圧をかけられようと、老いた司教は、やはりそよ風が吹いているかのごとく泰然と振る舞っている。
「正しくあろうとする者を恐れましょうか。邪悪なる者ならば、なお恐れましょうか。司教の勇気とは、ただ静かであることです」
「……」
沈黙が落ちた。リュネシスとマリエルの視線が、宙で交わり合う。
その魔王の剣のような鋭い視線を、司教は慈悲深い眼で正面から受け止めていたが、やがて口を開いた。
「陛下——あなたはひとりの人間の娘を、愛したのではないですか?しかも、この上なく……」
魔王の完璧な切れ長の目元が、ピクリと微かに揺れた。
「その娘を死なせ、あなたは今、娘への想いで苦しんでいる」
「貴様……」
「娘のあなたへの想いにも戸惑い、それがあなたを悩ませている」
「ふん」
魔王はおもむろに、バルコニーから見える庭園のリンゴの木を指さした。
「貴様、あの木が見えるか?」
司教はゆっくりと後ろを振り返ってから、こちらを向いて頷いた。
「あの実をもぎ取れるか?」
「造作なく」
「魔王である私にとっても同じことだよ。木の実をもぎ取るように、人間の娘などいくらでも手に入る。その気になれば、木の実の皮を剥くよりも容易く人の心を操れる」
魔王は、軽く片手の指先を額に当てながら、ニヤリと嗤った。まるで温もりを持たぬ北風のような容赦のない冷たさで。
「だから私は愛など知らぬ。知る気もない」
司教は深いため息を吐いた。そして、情け深くも厳かな目を魔王に向けた。
「心にもないことを……もし本気でそのように考えるなら、あなたは過去に憎んだ人間たちと同じ、浅ましい生き方をしていることになる」
「何!?」
リュネシスの顔色が、わずかだが初めて変化した。
それは司教の言葉だけでなく、彼の存在そのものへの反応であった。
なぜ先ほどから目の前の老人の言動に、超越者である魔王がいちいち心を乱されてしまうのか、彼自身にも理解できなかった。
だが認めたくはないが、サムエル司教に対して苛立ちながらも、父に逆らえぬ子のように気圧されている自分が確かにいる。
その、胸の内で動揺している魔王と相対しながら、司教は事も無げに続けた。
「あなたが神と母から与えられた力をそのようなことに使うのであれば、あなたが愚かと蔑む人間たち以上に、卑しい生き方をすることになる。果たして、あなたの母はそれを望むでしょうか?」
「黙れ!!」
魔王がとっさに放った稲妻が、司教の足元の床を焼き尽くした。
それでも正しき人サムエル司教は全く怯まずに、魔王に向かってずいと前に出る。
「あなたはけして、闇に染まるような悪魔にはなれない」
「何を言っている!?私は魔王だ!天を追われ、地にすらも恐れられるこの世で最も忌み深き者だ!!」
ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる聖者に畏れに近い感情が迸っている。
が、その自覚もなく声を荒げる魔王に、司教は重々しい表情でさらに詰め寄った。
「違う。あなたの本質は〝光〟だ。だからこそ神はあなたを生かし、この世界に召された」
「!?」
「さあ、勇気を出して目覚めるのです。〝光の皇子〟よ」
「まだ言うか!貴様が言っているのは、あの予言の〝光の皇子〟のことだな!?私はその言葉が最も気に入らん!!貴様、本当に殺されたくなければ……」
だがその叫びは、聖者の見えない力に遮られる。
それでも負けじと怒りに見開いた魔王の目に、崇高な眼力を叩きつけて司教は断言する。
「それこそが、あるべきあなたの姿なのだ」
「戯言だ!!」
「あなたは」
小柄なはずの司教が見る見るうちに、魔王を押し包むほど大きく見えるようになり、その目は気高い光輝で溢れ出した。
「あなたは光に目覚めるために、神から遣わされたのです。だからあの子も、そんなあなたの内なる正しさを信じて、身も心も捧げたのだ。ただ、あなたへの愛ゆえに──」
「お、おまえは!?」
「あの子は──プシュケは……私の孫娘だ」
「ああ……!」
思わず立ち上がりかけていたリュネシスの膝が、がくりと崩れ落ちる。
——やはり……やはり……そうだったのか!
リュネシスはサムエルと出会った瞬間から、プシュケに似た気配を感じ取っていた。それゆえに、不必要な悪を演じようとする自分がいた。それは、彼女への哀しい想いの裏返しだったのだが──。
老人への疑念が確信に変わり、いかに百年自己の存在意義として守り続けた魔王の威厳であろうとも、そんな傲岸不遜を演じきれなくなって、悪しき力を失くしたリュネシスが憂いに染まった瞳を天に向ける。
と、そのとき——気づかぬ内に、若者の意識は過去の光の記憶の中に飛んでいた。
(リュネシスさま……)
(リュネシスさまが大好きです……)
(リュネシスさまは、本当はとても優しいから……いつかきっと、この世界を……)
少女の眩しい笑顔が光の思い出の中でキラキラと煌めいて、それに心を奪われかけながらも、魔王が吼える。
「やめろ!!」
リュネシスは哀しげに震えながら、両手で頭をおおった。
——やめてくれ、プシュケ!
いつの間にかリュネシスの〝魔性の瞳〟から、どっと涙が溢れていた。
──私は無垢なおまえを欺こうとしていたのだ。おまえが死んだのは私のせいなのに、なんで……なんでそんなことを言うんだ!?
懺悔する罪人のように、彼は自分を取り巻く薄闇の中で咽びながら、誰よりもか弱い存在に成り果てていた。
今の弱々しい彼を見て、誰がかつて世界を震撼させた、恐るべき魔王の姿と重ね合わせることができただろうか……。
だがその刹那、温かい光が天上から差し込んで、若者の身を優しく包み込む。
抗えぬ力に魂を持っていかれ、意識が過ぎ去りし日々の甘い思い出をしばし漂った。
プシュケと過ごした、短くも満ち足りた、永遠に得られぬであろう幸福に溢れた時の中を──やがてリュネシスの内側に、離れていた清らかな魂がひそやかに戻っていった。
〝求めていた夢〟から醒めて呆然としている若者の元に、サムエル司教がゆっくりと近づいてくる。
「あの子から送られる手紙には、いつもあなたへの想いが綴られていた。あなたの言葉……あなたの仕草……あの子がどんなにあなたを愛しているか。冷酷を装いながらも、本当はとても心温かいあなたのことを——あの子は、あなたの気まぐれな力に翻弄されていた訳では無い。そのことを十分自覚していながら、幼い頃からずっとあなたを想い続けていた自分の心に従っただけなのだ。やがてあなたが、正しい生き方に目醒めるであろうことを確信していたから……」
諭すように、宥めるように、司教の言葉が静かに流れる。
魔王は、自分を偽る力を完全に喪失し、その場にしゃがみ込んだ。
——プシュケ……プシュケ……!すまない……!!
蹲るリュネシスは、打ちのめされたかのように両手を地に突いて何度も叫んだ。彼がただ一人愛した、乙女の名を。
リュネシスの瞳から、ぽろぽろと黄金の涙が溢れ出る。
彼はまるで少年のように、いつまでも泣きじゃくっていた。
サムエル司教は慰める父のように、そっとリュネシスの肩に掌を置いた。