正しい人
シュネイデルはただ一人、黙考しながら馬を進めていた。
もう、ほとんど日は暮れかかり、街は夕闇に包まれようとしている。
魔王の命を受けたのが、今日の昼間のことである。ゆえに彼は今、サムエル司教の元へと赴く途上であったのだ。
——いいのだろうか?
先ほどから、同じ問いを自分に何度も繰り返す。
——いいのだろうか?本当にサムエル様を、魔王様の下にお連れするなんて……サムエル様に危険はないのだろうか?
シュネイデルは元来た道を振り返った。彼の視線の先には夕闇の中、妖しくも荘厳に聳え立つ魔王の城——〝ディアム城〟がある。
この国において〝ディアム城〟は畏敬と恐怖の象徴であり、また、ある意味では若者たちの憧れの城でもあった。
あの城に戦士として仕えられるのは生涯に望みうる最高の名誉と出世であり、貧しい幼少期を過ごしたシュネイデルは、どれだけの想いで闇夜に煌めく〝ディアム城〟を眺めたことであろうか。
(いつか母さんに楽な生活をさせてやろう。ぼくを救ってくれたサムエル様にも認められるような戦士になって、御恩にも報いよう。そのためにもこんな世界ではあるが、信じられる道を歩んでいこう)
幼かったシュネイデルの願望は、愚直だが純真だった。
それゆえに運命はいたる所でこの若者の努力に報い、援助をし、道を切り開いたのである。
そして彼は〝ディアム城〟の——しかも魔王の親衛隊の一員にまでなったのだ。
まだ十八で、なんの後ろ盾もない貧しい庶民出の若者としては、異例の出世であった。
若者が自分の出身地であるヴィーニュに帰ることは、故郷に錦を飾ることでもある。
しかし、今は親衛隊に入隊して初めての要務——そのうえ魔王直々の命令という、あまりに荷の重い大任を任されているのだ。到底、浮足立っていられる気分ではない。
魔王が直接、親衛隊の下士官のひとりに命令を下すなど、まず有り得ない。
それが、どのような理由によるものかは判然としないが、親衛隊の中で最も若く新米兵士に過ぎない彼に、リュネシス自身の口から下知されたことなのだ。
身に余る光栄であり、手違いも絶対にあってはならない。
シュネイデルはふと、魔王の言葉を思い浮かべた。
「案ずるな……あんな年寄りを害する気などない」
それはまず、信用していいのだろう。
若き魔王は理性的で物静かな側面があると噂されており、単に邪悪なだけの存在でないことは元より解っている。
特にシュネイデルは、リュネシスとの昼間の出来事において、そのことは強く確信していた。
その拠り所がなければ、そもそもシュネイデルは魔王城の兵士になろうとも思わなかった。
この国の人間なら、幼い頃から誰もが聞かされる魔王の伝説。
その魔王に対して、恐怖とともに仄かに抱いた幼少期の憧れを思い出し、シュネイデルは決意する。
——やはりサムエル様には、ありのままお伝えしよう。多分、それが正解だと思う。
青年は顔を引き締めて前を向いた。
サムエル司教はヴィーニュ一帯において、最も愛され、尊敬されている真の聖者だった。
彼は常に穏やかであり、清らかであった。
そのような人間だけが持ち得る特質としての聡明さ、非利己性などをいかなる時も漂わせ、親愛的でいながらも馴れ馴れしくはなく、博愛的でいながらも押し付けがましさは少しもなかった。
司教はときおりまどろむように、深く思索することがあった。
それは無限なる叡智と至高なる善への探究であり、そのようなときの彼を見る者には、ある種の恐れすら抱かせた。
サムエル司教の生活は、極めて単調で崇高であった。
毎朝夜明け前に自宅と海が一望できる近くの丘に登り、一時間ほど瞑想にふける。
そして午前と午後のほとんどを、司教としての務めと善行に費やし、暇な時間だけは彼の持つ僅かな畑の仕事に精を出していた。
その後、夜は教会の扉を開き、望む者たちに神の教えと摂理を説き、人々にさらなる真理の知恵という施しを与えた。
サムエル司教について特筆すべきは、彼はこの辺りで最も富んだ者であり、そして貧しい者でもあったということだ。
司教ともなると、現アルゴスにおいて宰相テュルゴの指導体制の元、それなりの俸給が約束される。
しかし、彼はそれをすべて貧しい者たちに惜しみなく分け与えた。
そのような生活を数年続けている内に、近隣の者たちは皆、彼の所に献金を持って集まるようになった。
この地方の金がサムエル司教の元に、次から次へと集まりだしたのだ。
それは膨大な金額に膨らんだので、彼はヴィーニュ近郊で一番の大金持ちとなった。
ところが、その金は結局すべて水のように下層の貧困層に流していくので、彼の生活は全く変わることがなかったのである。
サムエル司教を語るうえで、切り離せない逸話がもうひとつある。
およそ十年ほど前に遡るが、アルゴスでは長らく廃止されていた法王制を復活させる動きがあった。
百年前に魔王が法王を惨殺するまで、アルゴスは女王と法王による二極統治であったのだ。
しかし魔王降臨後、法王制は瓦解された。
その後は延々と、法王制を蒸し返すこと自体、アルゴスでは禁忌とされていたのである。
流れが一変したのは十年前——サムエル司教が、神父から司教に昇進しておよそ五年頃のこと。
国内の百人の司教が集まる初の大会議が、アルゴスの魔都エリュマンティスのサンペクトロ寺院で開かれた。その大会議に出席するためにサムエル司教もエリュマンティスに上都し、一週間ほど宿泊した。
ある夜サムエル司教は、滞在中に司教間の親睦を深めるという名目で、エリュマンティスで最も裕福な司教の邸宅に招かれた。
その邸宅は噂に違わず贅を凝らしたものであったが、それらを邸宅の主である司教が、どことなく自慢げにひけらかした。
さらに彼は、いけ好かない雰囲気を重ねた言葉を二言三言と付け加えたので、さすがにサムエル司教もついぽろりと口走ってしまう。
「いや、立派な調度品の数々ですな。素晴らしく高価な法衣ですな。これらを本当に我々聖職者に対して神が与えたもうであれば——私ならこんな余計な物はごめんだ。始終、悪魔の嘲笑いと、貧しい人たちの泣き声が聞こえるようでね」
このような、諍いというほどのことでもないが、特定の司教たちにとってはいかにも耳に痛い発言が、サムエル司教の口から漏れてしまった。
その年の大会議の開催目的は、百年近く廃止されていた法王制の復活である。
一部の司教たちが、すでに水面下で布石を打ち、アルゴスの政治的実務を取り仕切る宰相テュルゴとの間に、法王選出の黙認に近い約束まで巧みに漕ぎ着けていたのである。
それは宰相だけでなく、その背後にいる沈黙の魔王をも欺くに近い、あざとく危険なやり方でもあった。
だが、欲望に憑かれた彼らは有耶無耶な内に、密かに完成させていた制度とともに、一息に法王という地位を為政者として担ぎ上げる。
その上でアルゴスの多くの教会関係者たちに、多大な利益を──つまり賄賂を与えることで、百年前の法王制の復活まで盤石のものにしようと目論んだのであった。
その法王候補の一人として、サムエル司教も数えられてはいた。
だが、サムエル司教は自らそれを辞退し、会議に出席することもなく数日でヴィーニュに引き返してしまった。
「私のような田舎者では、皆に嫌がられるだけであろう」
早く帰った理由について、サムエル司教はこのように応えていた。確かに彼を煙たがる司教たちは少なからずいたので、それが正しい判断であったのかもしれない。
そして、事件はその後に起こる。
新たな法王が、司教たちの票決により任命された。
すでに、最も経済力が強く、なおかつ最大派閥でもある司教たちの間で、ぬかりなく根回しされていたのだ。
選抜されたのは、エリュマンティスで誰よりも裕福な司教——以前サムエル司教を宿泊させ、彼を懐柔しようとしたアンサローネ司教であった。
その、アンサローネ新法王の戴冠式のことである。
突如として沸き起こった黒雲とともに、魔王の哄笑と死の宣告がなされた。
それはまさに、邪悪な闇の浸食するこの世に厳罰を下さんとする〝神の影〟だった。
許しを請う間も与えられずアンサローネ新法王は、祈りと歌を捧げる民衆たちの目前で、凄まじいまでの威力を秘めた光の剣によって焼き尽くされたのだ。
その屍は百年前の前法王のように、無残にもぐずぐずの灰と化していた。
瀬戸際に、すがりつこうとしたのだろう。
彼の手にはしっかりと、魔女王ラド―シャの配下であることを示す邪悪な蛇の巻かれた〝逆十字の十字架〟が握られていた。
皮肉にも、サムエル司教の諫めの言葉をそのまま再現する形で命を絶たれて——。
ここにおいて、アルゴスの法王制復活の道は完全に閉ざされたのであった。
シュネイデルがサムエル司教の元に伺ったのは、もうすっかり日の暮れた小夜であった。
シュネイデルを温かく迎え入れた司教は、落ちつかぬ様子の青年からすぐに話を聞かされた。
一通りの話を瞑目して聞いたこの心正しい司教は、最後に極めて物柔らかく微笑みながらこう言った。
「見ていなさい。ようやく時代が、神の意志の元に動こうとしている」