司教との出会い
リュネシスは〝白夜〟の鞍上で、終わりのない思索を繰り返している。
その憂愁な面持ちは、聖と邪に迷う堕天使のように、無垢でありながらも危険な予感を漂わせて昏い影を曳いていた。
魔王にとって、人間との愛ほど無価値なものはなかった。
たいていの女は何もしなくても好きにできたし、そうでない者も、魔眼で魅了するだけで事は足りるのだ。
人間を厭う彼は、これまで情欲を満たしたいときや退屈に倦んだとき——つまり、ただ自分の都合で必要なときにだけ女性を翻弄し、好き勝手に扱っていた。
ゆえに何ら愛に執着したことはなかったし、その意味すらも理解できない。
ぽつり、ぽつりと降りかかった小雨が、次第に本降りの雨に変わる頃、リュネシスの周りに三十人ばかりの騎兵の一隊──魔王の親衛隊が恭しく頭を下げながら追いすがって来た。
アルゴスの大兵士団の中でも、魔王の護衛として特に武勇に秀でた者として選ばれた上級兵士たちである。
一般の民からすれば、うっかり口を聞くことも憚られるほどの高位の王宮戦士たちであった。
リュネシスは気がついていないかのように、彼らには目もくれず馬を進める。
騎兵たちはすぐに主の周囲を守護の隊列で固めだし、なおかつ、沈鬱なる王の機嫌を損ねぬよう、一定の距離を開けて粛々と騎行する。
本降りに変わった雨を避けるため隊のひとりが魔王に傘を差そうとし、そこでようやくリュネシスはおもむろに反応して、無言のまま片手でそれを制した。
仕方なく兵たちもそんな王に付き従い、物静かに馬を進めていく。
リュネシスは雨を避ける気にすらならないほど、暗鬱に一心に思考を巡らせていた。
——プシュケは気づいていただろうか。あの娘の恋心のきっかけは、そもそも私が魔眼で作り出したものであったことに……そうだ。そんなものに何の意味があるのだ?ただの幻想ではないのか?もしそうであったなら、私は知らぬ間に自分の都合で、とんでもなく罪なことをしてしまったのではないのか?否、それ以前の、幼い頃の想い人とか言う私に対するあの娘の思い込みすらも、私が知らぬ間に魔力ですり込ませたのかもしれぬ、あの娘の錯覚ではなかったか?
(わたしは今生の限り、リュネシスさまだけを愛します)
(フフ……リュネシスに気紛れで翻弄されているだけなのに、今生の限りですって?)
プシュケの切実な声と、アカーシャの嘲笑う言葉が、同時に脳裏を過った。若者の表情が、際限なく襲いかかる懊悩にどこまでも昏くなっていく。
——アカーシャの言っていることは正しい。
今は皮肉にも自らの苦悩に翻弄され、顔を掌で押さえているリュネシスの唇から、思わず声が漏れる。
「……莫迦な娘だ」
それは魔王としての、最期の自我の抵抗であった。
だが——。
——可哀そうなことをした……。
理性がそう囁く。ずきり、ずきりと心が痛む。
リュネシスを呼ぶ、プシュケの朗らかな微笑みが——リュネシスを見つめる、アカーシャの哀し気な眼差しが——ぐさり、ぐさりと心を抉る。
若き魔王は、さらに深く熟考した。けして起こってはならぬ、この悲劇の本質を解き明かすために。
——アカーシャはいい女だ。呪われた宿命を背負ってはいるが……あれに罪はない。私がプシュケを殺したようなものだ。
そこで一瞬、リュネシスの頬が強張る——。
——私が……私が、プシュケを殺しただと?
彼は、ぎくりと固まった。
呼吸が止まり、瞬時に様々な記憶が思い浮かぶ。
プシュケとの出会い、身勝手な力の行使、アカーシャへの不実——。
それらの想いが錯綜して、リュネシスの頭の芯にまでのしかかり、瞳の光がくらく重く揺れていく。
——強欲、肉欲、利己心、虚栄心……すべては無知のせいか……一体何のために私は………。
どうしようもない罪悪感に、彼は苛まれた。
——最低だな。私は……。
と、そのとき——魔王の行軍にひれ伏す民衆たちの中で、異彩を放つひとりの老人に気づかされた。
その老人は他の者たちのように跪くことなく、ただ穏やかな様子で立っている。まるで、そこにだけ光明を当てたかのような、奇妙なまでの高潔さを漂わせて。
すぐさま、近衛隊下士官が走り寄る。
だがその兵士は、本来ならその場で首をはねられてもおかしくないはずの無礼な老人に、遠慮がちにボソボソと話し込むだけであった。
不審に思ったリュネシスが耳を澄ますと、ふたりの声が届いてくる。
「困りますサムエル様。どうか頭を下げてください」
「私は、ただ見ているだけだよ」
「しかし——相手を誰だと思っているのです?」
「大丈夫だ。あの方は心配ない」
埒が明かない様子のふたりに、近衛隊長が怒声を張り上げて近寄っていく。
「おい!何をしている!?いい加減にせんか!!」
逞しすぎる体躯で威圧するように、場を仕切る大男が腰のさやに手をかけながら歩を詰めていく。
「わしは一度しか言わんぞ。頭を下げろ。それに貴様も貴様だ!我が軍の近衛隊員でありながら、さっきから何をやっているのだ!?」
太い人差し指を突きつけて怒鳴り散らす近衛隊長に、下士官は素早く腰を折って謝罪する。
「はは!申し訳有りませぬ!!しかし、この方は……」
「しかしもカカシもあるか!!魔王様の前だぞ!!」
怒声を張り上げて、さらに憤る大男に恐縮する兵士とは対象的に、老人は一切動じる様子もない。
雨の勢いはますます強まり、辺りを暗くしていた。
その老人は出で立ちから察するに、神父・司教の類と見えた。
だが、何より目を引くのは彼の透明性である。この状況であるにもかかわらず、見えない光明の反射があり、顔全体が満足と希望と幸福の表情で輝いている。
「貴様、まだふざけた態度をとるのか!いい加減、頭を下げんかーっ!!」
老人の不可思議な圧にわずかにたじろぎながらも、荒ぶる近衛隊長が剣を振り上げ襲い掛かる。
その瞬間薄闇の中、天の反映が老人の上にあり、その身が厳かで澄み切った後光で包まれているのをリュネシスは見た。
彼は思わず叫ぶ。
〝やめろ!!!〟
それは、生きとし生きる者すべてを震わせる獅子の咆哮であった。
同時に放出されたリュネシスの強烈な思念波が、近衛隊長の剣を粉々に打ち砕いていた。
魔王の怒りがなぜ自分に向けられたのかを理解できぬまま、近衛隊長は真っ青になった。
刃を失い柄だけを持つ手が、振りかざした格好のまま静止してブルブルと震えている。
民衆のみならず兵士たちも、あまりに凄まじい魔王の一喝に戦慄し、皆、水を打ったようにしーんと静まり返っていた。
リュネシスは目を閉じて、大きく息を吐いた。
そして、ゆっくりと目を開ける。激昂した王は、それでいつもの平静さを取り戻していた。
「構わんから捨てておけ。たかが枯れた年寄りひとりぐらい——」
リュネシスは冷めた一瞥と、ただその言葉だけを近衛隊長に投げかけると、埋めようのない寂寥感を背に漂わせながら押し黙って立ち去った。
近衛隊長共々、凍り付いていた騎兵たちは、我に返ると慌ただしい様子で魔王の後を追う。
帰る道すがらリュネシスは、しばらく考えた後に側近を通じて、先ほど老人に走り寄った下士官を呼び寄せるよう命じた。
静かなる暴君の突然の声掛かりに、連行されるように近衛隊員に連れてこられた未熟な兵士は、血の気の引いた怯えた顔で唇を固く結んでいる。
顔を見れば彼はまだ、少年といってもよい年齢に見えた。栗毛色の巻いた髪が特徴的な若者だった。
「なんだ、あれは?」
歩を進める〝白夜〟の鞍上で前を向いたまま、リュネシスは尋ねる。
「は!」
若者は顔色を蒼白のままに、必死で答えようとする。
だが、恐怖に絡み取られているのか、あるいは簡略すぎる魔王の問いへの返答に困惑しているのか、続く言葉が出てこない。
「心配するな。別に貴様を咎めようと言う話ではない。さっきの年寄りと面識があったようだが、どういう男なのだ?ただ、それだけを訊いている」
「は!あの方は私の恩人です」
「そうなのか。多少言葉は乱れてもいい。貴様なりの説明の仕方でいい。できるだけ詳しく話せ」
皆が畏れる王の意外なまでの思慮深い尋ね方に、わずかに動悸と警戒が収まった若者は、しどろもどろにも何とか答え始めることができた。
リュネシスは彼の要領を得ない話を、馬の歩みを遅くしてすべて辛抱強く聞いた。
若者は幼少時代、病気がちな母親とふたりだけで、大変貧しい生活を送っていたらしい。
辺境の村に住んでいたが、金貸しに土地も家も取り立てられたために村を出たと言う。
そして、流れ着いた町の聖堂に恵みを求めに入り、そこで出会ったひとりの司教に救いの手を差し伸べられた。
住む場所も、服も、母親の仕事や、若者が通う学校の世話までも司教は親切に面倒を見てくれたのだ。見ず知らずの彼らのために。
「あの方は——サムエル司教は私の父です」
黙って、しかし真剣に耳を傾けわずかに相槌まで打つリュネシスの様子に安心したのだろう。
いつの間にか、ほぼ饒舌になっていた若者は最後にそう締めくくった。
「そうだったのか……よく解った」
リュネシスは、納得したように短く呟いた。
「ええ……今はせめてお給金の中から少しずつでも、昔お世話になったお返しをしています。なので、今でもたびたびサムエル様とはお会いしているのです」
「そうか……」
「は!」
しばらく黙した後、ふとリュネシスは尋ねた。
「貴様、名前は何というのだ?」
「は!シュネイデルと申します」
若者は最敬礼をして応えた。
彼の中で巣食っていた恐怖がいつの間にかほとんど消え、代わりに不思議な熱い思いへと昇華されていた。
その時である。
リュネシスの内側にも突如として再び、先ほどのような勁い衝動が沸き起こっていた。
それは抗えぬ力となって、喪失感でなかば我を失っていたはずの彼を促し、取るべき行動としてその口を付いて出る。
「シュネイデル。近い内にあの司教を私の所へ連れて来い。おまえにしかできぬことだ。近衛隊長にも口添えをしておこう」
「サムエル司教を──ですか」
さすがに顔を曇らせるシュネイデルに、リュネシスは感情の籠もらぬ声音で言い切った。
「案ずるな……あんな年寄りを害する気などない」
「は、ははぁ!」
シュネイデルを立ち去らせるとリュネシスは、疲れ切った表情を刹那に忍ばせながら、雨の上がりかけた雲間を見上げる。
天空からはうっすらと淡い陽の光が差し込み、今までとは異なる未来の到来を示すかのように、大地をゆっくりと包み込もうとしていた。