愛の夢
リュネシスは今日もただ一人、自身の白馬を御して、アルゴスの地を当て所なく彷徨っていた。
魔王が跨る、輝かんばかりに見事な白一色の巨馬——〝白夜〟と名付けられている天馬は、利発で常に主の気持ちに忠実であった。
〝白夜〟の進むがままにさせておけば、おおよそ自身の意に沿う道筋を選んでくれるので、何の指示も与える必要はない。
否──今はむしろ、行く先を考える気にすらならぬ。
そんなことは、どうでもよかった。
心の芯を失ったかのように、彼はとぼとぼと、いつまでも物静かに馬を歩ませている。
もう何日、ディアム城に帰ることなく流離っているのだろうか。
だが、プシュケとの思い出の詰まっているその城には、とても帰る気にはなれなかった。
また、城の中で暗く塞ぎ込んでいるアカーシャとも、到底顔を合わせることができなかった。
様々な想いは何処までもついて回り、リュネシスは〝白夜〟の背に跨りながら、深く深く考え込んでいる。
遡ること半月前——。
リュネシスとプシュケを乗せて夕空に羽ばたいた〝白夜〟はその後、遠く離れた不可思議な土地へと向かっていた。
そこは誰も知らない、リュネシスの聖地〝ルーヴェの森〟——時空の狭間に存在し、母ディアーナの眠る秘められた小さな異界であった。
リュネシスは、ひとりでプシュケの亡き骸を手厚く埋葬した。
人を弔う術も知らぬまま、それでも乙女の身を丁寧に洗い浄め、彼女が大切にしていた、母の形見の服を着せる。
そして柩には、プシュケの好みそうな花を敷き詰めてやり、最後にその胸に人形を抱かせてやる。
彼女の部屋にひっそりと飾られていた、赤いドレスの金髪の人形を──。
神は原初の男と女を創造する時に光と闇で人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれた——と神話は語る。
リュネシスもプシュケに口づけをし、己の魂の一部を分け与え、仮の命を吹き込んだ。
神のそれには及ばぬが、人知を超えた力から成る、かりそめの命とも言うべき霊的エネルギーを……。
——これでおまえの身は、永遠に崩れることはない。この地にいればもう、おまえを傷つける者など誰もいない。
とわの眠り姫となった恋人の髪を何度も撫でながら、リュネシスは哀切この上ない眼差しを乙女の顔に向け続けている。
彼女が一度も、自分を魔王と呼ばなかったことに今になって気づく。
この世界のいかなる財宝も、いかなる美姫にすらも、価値を感じたことのない彼にとって、しかし彼女だけは何と尊い宝であっただろうか。
何とかけがえのない娘であっただろうか。
一度も口に出してやれなかったが、どれほど彼女のことを大切に想っていただろうか。
なぜ、今まで気づいてやれなかったのだろう。
プシュケの手元に置かれている人形──あれは昔、戯れに助けてやった幼い娘が手にしていた物ではなかったか。
プシュケはあの時の、取るに足らぬと思われた小娘だったのだ。
あの娘は、あの時からずっと──自分との想い出を、ほんの小さな胸に、密かに大切に育んでくれていたのだ。
以前、切なげにその想い出を語ってくれた時に、なぜ気づいてやれなかったのだろう。自分はどれだけ愚鈍だったのだろう。
あらゆる情愛を価値の無いものと見做していた。
愛を知らず、また、知ろうともしなかった。それ故の無知だったのか──しかし彼女だけは、こんな愚かな自分に、温もりと安らぎを与えてくれていたのだ。
自分は何と大切なものを失ってしまったのだろう。
何と可哀想なことをしてしまったのだろう。
リュネシスは懐からミスリル銀の横笛を取り出して、湧き上がってくる様々な想いとともに、いつまでも寂しげにそれを見つめていた。
(今日の日を、ずっとリュネシスさまが覚えていてくださいますように——)
リュネシスの脳裏に、乙女の言葉が甦る。
若者の肩が震え、瞳から大粒の涙が溢れ出る。
それはキラキラと金色に輝きながら、プシュケの身に零れ落ち——リュネシスは慣れぬ仕草で複雑な印を結び、光の魔術を唱えた。持てる力をひとつに集めて。
——おまえはここで千年の間、幸せな夢を見続ける……そして、ときが至れば天に帰るがいい。神もおまえのことなら祝福するだろう。
天から射し込む光に照らされたプシュケが、花が咲いたような微笑みを浮かべたのをリュネシスは確かに見た。
すると彼女の温かい想念が、内側にふわりと優しく流れ込んでくる。
突然、一瞬の疲労で、気が遠のき景色が歪んだ。
ふと気がつくと、七色の光の幻像の中に彼はいた。妙に心地良い、満たされた感覚に包まれている。
この地にある慎ましい屋敷でずっと暮らしている、あるはずのない記憶がある。
ささやかだが趣味の良い家具や、いかにも清潔感のある簡素な食卓が目の前にあり、リュネシスはいつの間にかそこに座っていた。
「リュネシスさま——」
振り返ると、食事の鍋を運び込もうとするプシュケの眩しい笑顔があった。
「今日は、リュネシスさまの好きなシチューを作りました。少しだけ待っていてくださいね」
プシュケはいそいそと、食事の準備をしている。
手を貸そうと立ち上がりかけると、プシュケはリュネシスの手の甲にそっと白い掌を重ねた。
「ごめんなさい、リュネシスさま。わたしのせいでこんな……」
乙女の言葉に、リュネシスの表情を一瞬の困惑がかすめていく。だが、すぐにそれを打ち消して——。
「何を言ってるんだ。私はとても幸せだと思っている。本当に……誰よりもずっと……」
リュネシスは乙女にうまく伝える言葉を見つけられず、それでもただ、心から和やかに微笑んでいた。でも以前の彼なら、絶対に口をついて出ることのない台詞だっただろう。
——なんだ、これは?今の言葉は私が言ったのか?
自分が自分で失くなった、奇妙な感覚に眩暈を覚えている。
どのような作用が働いてのことか──魔王の力も不老不死の肉体も失った、ただの人間の若者としてリュネシスは生まれ変わっている。
だが、失くしたものになんの未練があるだろう。
もしも、己の罪業を魔の力と命を捧げることで浄化させ、愛しい乙女との束の間の平安に変えられるなら──なにより、彼女がそれを望むなら──。
やがて、日々をいそしむふたりの間に愛の絆の証が産まれる。その喜びを糧として、若者は愛する者たちを守るために毎日を懸命に働いていた。
その、ありえないはずの幻像を瞬時に脳裏に通過させたリュネシスは、すでに理解している。
——プシュケが……あるいは神が見せてくれた夢、か……。
景色が再び揺らいで歪む。
——プシュケ……プシュケ……?
目を閉じ、目を開けると、意識は現実に戻っていた。
辺りはすっかり夜の帳に包まれ、凛とした静けさが、一枚の黒い大きな布のように降りている。
彼以外のすべての者が、まるで眠りに落ちたように密やかだった。
夜の風が、孤独な妖魔の髪をわびしくキラキラと靡かせていた。
リュネシスはプシュケを想い、白い息を吐きながら、ひっそりと瞬く星空を仰ぐ。悠久に輝き続ける清らかな星々の光の中に、失った乙女の面影を見出して──。
やがて心の力を失った若者は、その場にぐったりと崩れ落ちていった。そこで彼は数日間、死人のように動けぬままでいた。
もし見る者がいたならば、かつてはこの若者こそが、世界を震撼させた恐ろしき魔王軍の〝総大将リュネシス〟であると気づく者は、誰もいなかっただろう。
そんな彼にとって、このような姿だけは誰にも見られたくなかっただろう。認めることもできなかっただろう。
それでも倒れ果てた若者は、無意識の内にまた、愛しい娘との甘い夢を求めていた。
だが彼は、もう二度とその夢を見ることはできなかった。