今生の別れ
プシュケの部屋の扉が、コンコンと叩かれた。
もの柔らかいが含みのあるその音は、聡い者ならば強い敵意と災いの先触れとして感じ取れたであろう。
「はい」
プシュケが訝し気に扉を開けると、冷ややかなアカーシャの視線とぶつかり合った。
思いがけぬ来訪者に、少女の身が無意識に固まる。
「……アカーシャ様?」
黒衣の皇女に対する不穏な印象を隠し切れず、プシュケはくぐもった声を出した。
「プシュケ——大事な話があるの」
アカーシャも、低く唸るような声を発していた。
「あなた、この城を出て行きなさい」
「え……?」
突然すぎる宣告に戸惑うプシュケに、アカーシャは抗えぬ力を言語に込めて言い放った。
「あなたには、今日限りでディアム城の宮女を辞めてもらう」
「それは……どういうことですか?」
すぐには意味が飲み込めず、半ばうろたえた状態で問いかけてくるプシュケに対して、アカーシャはこの上なく冷酷な目線を向ける。
「だから、すぐにここを出ていけと言ってるのよ。理由は言えない。言う必要もない。その代わり破格の条件を付けてあげる。そうね……本来ならありえないんだけど、私の計らいとして特別に、一生楽な生活ができるほどのお給金を充てがってあげるわ。だから嫌とは言わせない。ただひとつだけ言えることは、私はあなたが嫌いだし、あなたを快く思っていない宮女たちも何人かいるの。あなたの命まで狙うほどに──だから取り返しがつかないことになる前に、とっとと出て行けと言ってるのよ」
いつもなら冷静沈着なはずの魔少女の威圧感に圧迫され、頭の中が一瞬真っ白になりながらも、言葉を絞り出すようにプシュケは尋ねた。
「……それは……リュネシスさまも……ご存知なのですか?」
アカーシャは、やはり冷たく高圧的に応えた。
「誰が質問していいと言ったの?黙って私の言うことだけを聞いてなさい。ここでの決定権はすべて私にある。あなたのような小娘が、私に逆らうことも問いかけることも一切許されない。だから私を怒らせる前に、つべこべ言わずここを出て行くのよ。ありがた過ぎるほどに与えられた、田舎娘には分不相応な大金を手にしてね」
内側に燃え盛る炎を宿すアカーシャの口調に、しかしプシュケも、けして負けない気迫の籠る声ではっきりと言い返した。
「お断りします」
思わぬプシュケの勁い返答に、アカーシャの麗しい切れ長の目元がわずかではあったが、苛立たし気に動いたように見えた。
しかし、次の瞬間には妖美な笑みの中に消え、露ほどの痕跡も残さない。
アカーシャは鼠を前にした猫の如く、一旦面白そうにふっと微笑んだ。
そして、いかにも態とらしく、蜜を含んだ甘い声に変える。
「聞きなさいプシュケ。あなたテュルゴに〝予言の白い子羊〟とか吹き込まれたらしいけど、それは絶対に違うわ。私には解るの。もしあなたがそこまでの存在なら、私の直感にも訴える何かがあるはず。でも、あなたからは全く何も感じない。あなたはただ守られているだけで何の力もないわ。リュネシスにとっても、いずれは邪魔になるだけよ」
バッサリと言い切って、皇女としての威厳に溢れたオーラを放つアカーシャに畏れることもなく、プシュケは静かに彼女の目を見つめて切り返した。
「アカーシャ様はリュネシスさまのことが、本当にとても好きなんですね」
プシュケの言葉を無視したまま、ふーっとアカーシャはつまらなそうにため息を吐く。
「だから、わたしをいつも邪険にするのですね」
(泥棒猫ってうざくない?)
(アカーシャ様も、ブチ切れてたよね)
(ププ……だからって、あの子に嫌がらせしろとか、あのアカーシャ様が……)
プシュケと通り過がる時に、さも白々しく陰口を叩き、小狡そうにこちらを盗み見てくるエレナたちの言葉を信じないようにしていた。聞かないようにしていた。
しかし、今——その一抹の疑念が、乙女の中で膨らんでいく。
無理もなかった。
常であれば聡明なプシュケは、冷淡に見えるが超然としたアカーシャの本質を見抜き、彼女にわだかまりを抱くこともなかったであろう。
多少冷遇されても穏やかに受け流し、アカーシャの隠れた美徳を信じ続けることで、二人の確執もやがて多少は解けていたかもしれない。
だが今のプシュケは、魔王への恋に盲目になっていた。
その上、あまりに完全すぎる魔族の姫への羨望もあった。
さらには、エレナたちから受けた度重なる陰湿な横暴は、乙女の心を膨らみ切った風船のように、わずかな刺激で破裂しかねないほど危うくしていたのだ。
リュネシスとの幸福な時間の一方で——。
プシュケは、物憂げな目線をアカーシャに向ける。
「やっぱり今までエレナさんたちを使って、わたしに嫌がらせをさせていたのは、アカーシャ様だったのですね?」
「違うわ。というか、私に質問は許さないと今言ったはずだけど、あなた言葉は解る?自分の立場は理解できる?」
アカーシャは冷めた顔つきのまま、口調に根強い憎悪を含ませた。
だが、今までの状況とこの言い方を聞けば、プシュケに行われ続けた嫌がらせの背後にいたのは彼女しかいないと誰もが思うであろう。
そんな非道い魔女に対して、少女は精一杯の勇気を振り絞って立ち向かう。
「わたし負けません」
プシュケは、力強くアカーシャを正視した。
「リュネシス様を想う気持ちだけは、あなたにも負けません」
「何を言っているの。馬鹿な子ね……」
アカーシャは、呆れたように肩を竦めた。
「これだから人間の小娘というのは、本当に始末が悪いわ。言葉は理解できない。頭は足りない。なのに、思い込みばかりがやたらと激しくて……つか、さっきからこの子、誰に向かって口を利いてるのかしら?」
少女を小馬鹿にするアカーシャの表情と口調に、さらに不快げな色合いが強まっていった。
彼女はもう、常日頃の優美な様相を取り繕うともしなかった。
「頭の悪いあなたでも解るように、はっきりと言ってあげる。あなたとリュネシスでは、絶対に釣り合わないのよ。なるほど——確かにあなたは可愛いと思うわ。これほど美しい人間の娘は、そうそういないでしょう。流石はリュネシスのお気に入りね。でも、この後はどうするの?十年後、二十年後は?とても惨めで見ていられないわ。所詮あなたは生身の人間——不滅の私たちとは違うのよ。それに身分もね」
「そうかもしれません。でも——」
それは、いつも心の片隅で憂えていた辛い現実であった。
それは、不老にして永遠の絶美と、頂点の地位に君臨する魔族の姫から突き付けられると、ことさら重みの感じられる無情な事実であった。
アカーシャにこっ酷くなじられるプシュケの翠玉の瞳から、いつの間にか耐えきれぬ涙が零れ落ちてくる。
一瞬の静寂があった。それでいて長い静寂が——すると乙女は、神に祈りを込めるような遠い切ない眼差しに変えて言葉を紡ぎだしていった。
「でもわたしは、リュネシス様を愛してます。リュネシス様も、わたしを愛してくれたから。だからわたしも、その気持ちに応えたい。たとえ報われない恋でも——今生の限り、ずっと信じて想い続けていたい」
「……今生の限り?」
アカーシャはプシュケの言葉に、両目を大きく見開いて静止する。
漆黒の魔少女の紅玉の瞳と、清楚な乙女の涙を湛える翠玉の瞳が、暫し激しく交錯した。
「わたし、何を言われてもあきらめません!絶対に——リュネシスさまのことだけは、あきらめたくない!!リュネシスさまのことだけは、あなたにも奪われたくない!!」
プシュケのどこまでも直向きな想いがアカーシャを直撃し、さしもの魔少女もほんの一瞬身じろぎする。
だが、その言葉こそが、アカーシャの内なる怒りに完全に火をつけていたのだ。
──言うに事欠いて、私に奪われただと!?こ、この小娘……泥棒猫の分際でよくもぬけぬけと!!
腸の煮えくり返るような思いに、わなわなと震えた魔少女の脳裏が白く染まる──しかしながら、このような時である。アカーシャの鋭い本領が発揮されるのは──。
彼女の鋭敏な頭脳は、様々な黒い狡知を閃かせていく。
目の前の、なまいきな小娘の精神を完膚なきまでに叩き潰すバリエーションがいくつも紡ぎ出され、アカーシャはその中で最も効率のよい方法を瞬時に選び取った。
あえて、しばらくの時を置いてから──。
彼女は嫌味な薄笑みをたっぷりと浮かべると、心底可笑しそうに、ゆっくりと体を揺らしながら乙女に近寄って行った。
「フフ……今生の限り、ですって?リュネシスの気まぐれで翻弄されているだけなのに今生の限り?おめでたいわねぇ。でもこの先、醜く年老いるだけのあなたが今生の限り、どうするの?このまま老婆になっても、今生の限り、今生の限りと虚しく喚き続けるのかしら。フフフ……面白そう。見てみたいわねぇ」
艶やかな仕草で冷笑するアカーシャの切れ長の目が、いかにも意地の悪い意図を込めてスーッと細まった。
「そう言えばあなた、さっき私が彼を好きだからどうこうと知った風な口を聞いてくれてたけど、特別に教えてあげる。よくお聞きなさい。彼が本当に愛すべき相手は、永遠を共有して同じ魂と力を持つこの私しかいないのよ。天にも地にも……ね……」
アカーシャはぺろりと舌で唇を湿らせて、たっぷりと嘲弄するための絶妙な間を開ける。
そして、プシュケの顔にしなやかな白い指をそっと添えると、その耳元で悪魔のように囁いた。
「もう一度はっきりと言ってあげましょうか?彼が愛すべきなのは私ひとり──その私から見れば、あなたなど猿も同然。だから、あなたと彼は絶対に結ばれない。醜い老婆になる前にあきらめるのよ」
アカーシャの口調が、途中から不気味に変化していた。
〝あきらめるのよ〟最後に発したその言葉が特に気味悪く響き渡り、聞く者を貶める呪術的力が込められたのである。
絶句したプシュケの顔色が変わる。
魔力に抵抗力のない彼女にとって、暗黒の魔術を使ってまでリュネシスとの絆を完全に否定しようとするアカーシャのやり方は、少女の世界そのものを破壊されるに等しかったからだ。
次の瞬間プシュケは、首元に腕を絡みつかせていていた、非情な魔女を突き飛ばして叫んでいた。
「うるさい!化け物!!」
少女の精一杯の反抗に、さしものアカーシャも、ぐらりと体をよろめかせる。
その思わぬ抵抗に、彼女の美貌が瞋恚の焔で燃え上がった。
——おのれ、命を救われていた恩も知らず!!
魔少女の怒りもまた長く抑えつけられて憤慨し、爆発の刻を待っていたのだ。
アカーシャの深紅の眸が、瞬時に激しく輝いた。
「無礼者め!!」
昂ぶりと同時に抑制は弾け、大きく振りかざした掌と共にプシュケに対して強力な思念波が放たれた。
「うっ」
無力な少女は糸の切れた操り人形のように、音もなく床に崩れ落ちた。あまりにも呆気なく。
その時である。押しつぶされそうな胸騒ぎを覚えた魔王が駆け付けて来たのは——。
「プシュケ!」
リュネシスは燐火のように蒼ざめて、倒れた少女を抱き上げると、その顔を覗き込んだ。
「リュネ……シス……さ……ま……」
消え入りそうな声を出して、儚くプシュケは微笑んだ。
体がぐったりと脱力し、薄桃色の唇の端からは赤い血が糸を引いたように流れ落ちている。
すでに全身を取り返しのつかない〝念〟で蝕まれ、体内の血液は半ば凝固し、蒼白な顔にはあからさまな死相が浮かび上がっていた。
はぁはぁと息は絶え絶えになり、この世ならぬ苦しみが乙女を襲う。
それでも彼女には、毅然とした最後の生命の輝きがあった。
この健気な少女には、今この時にこそ、いかなる者も及ばない気高く崇高な美を与えられていた。
そう……プシュケの命は、まさに今、美しく尽き果てようとしていたのだ。
リュネシスは、呆然と目を見開いた。
「お、おまえ……」
こみ上げるような呻きを、喉から漏らす。
だが、すぐに我に立ち返ると、リュネシスは薄く目を閉じながら乙女の胸に右掌をかざし、彼女の肉体を侵食する破壊エネルギーを無効にするための呪を唱えだした。
「むう!」
直後、魔王の脳裏に戦慄が疾り抜ける。
この瞬間に、リュネシスはすべてを察知してしまった。行使したはずの呪力には全くの手応えがない。いまさら何をしようとどう抗おうとも、完全に手遅れであることを見抜いてしまったのだ。
魔王の力で以てしても、魔少女の〝呪〟を解くことは容易ではない。
ましてや、すでに乙女の内奥にまで喰い込んでしまった未知の力を解読し、ほんの限られた時の間に解除するなど、到底できることではなかった。
そして、同時に魔王の瞳は黄泉の気配を——乙女を常闇へと誘う死の予告をも、確実に捉えていたのである。
いつの間にかプシュケの背後に、薄暗い〝闇〟が人の形をして蟠っていた。
それは、朽ち果てた髑髏の形骸をぼろの黒衣で包み込み、手には巨大な鎌をしっかりと握り込んだ人の目には映らぬ、虚ろなる姿をした霊体——「死神」と呼ばれる冥府の存在であった。
高等な霊としての力は持たないが、己に与えられた唯一の役割である、死者の魂を地獄へと導く忌まわしき労務だけは絶対に仕損じることがない。
魔界の女帝ラド―シャに次ぐ地位に立つ、皇女アカーシャの〝呪〟を受けた者は、永劫の闇を彷徨う。それが今、最悪の事態となって顕現しているのである。
闇の怪物は一体ではなかった。プシュケの周囲にはくらい亜空間が広がり、幾体もの死霊・悪霊などが群がっている。
乙女の馥郁たる魂の香りに寄せられた魑魅魍魎たち——すべてを理解したリュネシスの貌に、絶望の影が落ちる。
何の罪もなかったとはいえ魔王の恋人であるという業を背負っていたプシュケは、果てしなき闇の中、その清らかな魂をやつらの旨き〝贄〟として、永劫に貪り続けられることになるのだ。
愕然とするリュネシスの腕の中で、それでも乙女は一切の恐れもないかのように微笑んでいた。今わの際まで限りなく美しく——。
「リュ……ネ……」
彼を探すように震えながら、プシュケの華奢な白い手が伸びる。それは時間をかけてたどたどしく、リュネシスの頬にそっと触れた。
ふたりが同時に感じる、ずっと求め合っていた懐かしく、切ない感触。
プシュケの翠玉の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。それは、同時にリュネシスの瞳からも——。
乙女は魔王をじっと見つめた。彼をいつも母のように包み込んでくれていた、どこまでも深い愛の眼差しで。
「……リュ……」
何かを伝えようとする少女の言葉が潰えてゆく。魔王はさらに顔色を失い、息を呑んだ。
「死ぬな、プシュケ……」
リュネシスは声にならない声を上げ、愛しい少女をしっかりと抱きしめた。
今まで望んだことがないほどの勁い想いを腕に籠めて──。
「言ったはずだ。ただ私の傍にいろと!」
激しい口調とは裏腹に、リュネシスの手がプシュケの頬に優しく添えられる。
その掌が、神々しい白色の光を帯び始める。
リュネシスの〝禁呪〟——光の呪文の発動であった。
百年前に魔王として地上に降臨して以来、封じていた秘儀。
扱いには困難を極め、また光と闇の堕とし子である彼には、相容れぬ御業であるため放棄していた魔法。
これを使えば、さしもの彼自身どうなるかは分からない。最悪の場合、自身が招いた光に魔王としての存在そのものが喰らい尽くされるかも知れぬ。
だが、リュネシスは迷わなかった。
かつて、いと高き天使であった者の唇から〝禁断の呪〟が解き放たれる。
掌から迸る神々しい光がプシュケの体全体を覆い尽くす。神聖な光は、さらにその輝きを強めていく。
そして光は、乙女の背後に開かれた亜空間をも照らし出す。
すると、その光の中でプシュケの口元が明るく緩み、そっとリュネシスの掌に頬を寄せてきた。
(あたたかい——)
まるで、そう言っているようかのように。
乙女の苦悶は光で消え去り、最期のひと時を苦しむことなく安らかに逝った。
彼女は、いつもと変わらぬ可憐な微笑みを浮かべたままだった。
いつしか亜空間は閉ざされ、死神たちも消え去っていた。ただ、哀し過ぎる静寂だけを残して──。
「プシュケ?」
死んだ?まさか……。
世界がぐにゃりと歪んだ。脳の中で亀裂が生じた。
それは、若き魔王がこの世に生まれ落ちて初めて味わう、身を割かれたような喪失感であった。
眩暈がしそうになる意識をどうにか治め、リュネシスはもう一度、光の呪を唱えだした。
おれの力で不可能なことなど無いはずだ。それなのに小娘ひとり助けられないのか?おれは、こんなにも無力だったのか?この命と引換えてもいい。この娘が、ただ生きてさえいてくれたなら——。
しかし、リュネシスの掌から放たれる光は、虚しく乙女の体を透過する。
いくら能力を酷使しようと、己のエネルギーを極限まで放射しようと、燻る燠の熱が冷たい雪の中で瞬く間に潰えていくように、魔王の腕の中で少女の温もりは急速に失われていく。
それでも彼は、我を忘れたように、幾度も幾度も禁じられたはずの〝力〟を遣った。彼は生まれて初めてひたすら願う。
願って……願って……そして奇跡が起きるのを待ち続けた……。
〝プシュケ!〟
やがて認められぬ事実を——受け入れられない冷たい現実をはっきりと悟った彼は、乙女を抱きしめたまましばらく茫然自失となっていた後、ゆっくりと貌を上げ、アカーシャを物凄い目で睨みつけた。
さしもの魔族の皇女ですら恐怖に竦み上がるほどの、魔王の怒りを籠めた激烈な視線で——。
〝アカーシャ!!!〟
アカーシャの周囲の空間が突如として凍結する。
魔王から迸った烈しい波動が、魔少女の周囲の時空を歪ませ、足場を消し去り、現世でも幽界でもない、存在の無い虚無の世界に彼女を飛ばす。
黒い風が魔王から逆巻き、ごうごうとうねりを上げて漆黒の魔少女に吹き荒んだ。襲い来る怒りと死の嵐が、魔少女の美しい黒髪を千切れんばかりに靡かせた。
どこからか幾千もの獣の慟哭が聞こえる。
大地を埋め尽くすほどの狼たちが、我が身をもぎ取られたがごとく泣き叫ぶ絶望の咆哮──それは、魔王の魂の叫びであった。
すると魔少女の血液が逆流し、全身にどす黒い血管が浮かび上がり、目から頬に血の涙が伝う。虚無の真空に包まれて息すらも止められる。
これほどまでとは思わぬ魔王の力に驚愕し、苦しみに膝を突いた魔族の姫は思わず貌を上げる。
魔王の輝く髪が、大きくうねり、翻り、妖しく乱舞している。怒り狂った堕天使の貌は、闇に隠れている。
だが、玲瓏と光を放つ眼差しだけが恐ろしく浮かび上がり、その光に魔少女が差し貫かれた瞬間——アカーシャの魔眼が対抗すべく赫奕の輝きを放ち、迸らせた決死の波動が、魔王の赫怒と反響し合う。
対峙するふたりの妖魔の、黄金の眸と紅蓮の眸が、重なり合い弾け──。
そしてようやく、荒れ狂う時が静止した。
本当は、リュネシスはすべてを理解していた。
アカーシャが密かにプシュケの命を救い、千切れるような様々な想いに耐えていたことを……このような結末になってしまったのは、自分を誰よりも、勁く、深く、愛してくれていたゆえであったことも……。
そんなアカーシャを、なぜ憎めるだろう。すべて自分に責があったのではないのか……?
倒れ込んだ魔少女が、覚悟を決めたように冥い悲哀の色を籠めた眼差しでリュネシスを見上げた。
こんな哀しそうなアカーシャの瞳を見たことが、かつて一度でもあっただろうか……。
やがて、耐えきれぬように目を逸らしたのは、リュネシスの方であった。
彼は、無言でプシュケを抱き上げると、音もなく立ち去って行った。
ほどなくして巨大な白いペガサスが、ディアム城から飛び出すのを人々は見た。
その背には、こと切れた乙女を抱いた魔王が跨り、貌には哀し気な影を落としている。
人々は畏れて恭しく畏まった。
注意深い者は、彼の髪の隙間に光る忌みなる瞳から、黄金の涙が流れているのを見たような気がしたが、降りしきる雨の中それを信じる者は誰もいなかった。
そうしてペガサスは、夕空をめがけて静かに駆け上がって行った。
リュネシスもプシュケもアカーシャも……最後には幸せに報われますように。