少女の願い
時は流れ、幾ばくかの季節がアルゴスを廻っていた。
ここ魔王の巨城ディアム城でも、あるがままに移ろいゆく時の流れとともに、何かが少しずつ変化していく。
ある日のこと。
いつも通りの夕刻頃に、魔王の下へ伺ったプシュケだが、その日は極めて素朴で清貧な衣装を着こんでいた。
清潔な白を基調に、飾り紐をわずかに付けただけの、どこにでもいそうな町娘の出で立ちである。
ディアム城の宮女たちは皆、王族もかくやとばかりの豪華なドレスを身に纏っている。
そのためプシュケの平民じみた質素な装いは逆に際立ち、魔王の目を引かずにはいられなかった。
「どうしたんだ、それは?」
己の感情を露わにすることのないリュネシスも、さすがに面食らったような貌をした。
「ずっと前に、母がわたしのために縫ってくれた服なんです。お祝いの時のために、長いこと大事に仕舞っていた服です」
軽快な笛の音を思わせる、爽やかな声でプシュケは応える。
「お祝い?」
「以前、お伝えしたじゃないですか。今日はリュネシス様と幼い時に初めて出会えた、とても大切な記念の日なんですよ」
「あ、ああ……そう?だったな……」
——女は皆、こういう、どうでもいいことを、よく覚えているな。
あまり関心がないといった感じで、リュネシスは気のない声を出してしまった。
「む……なんだか、つまらなそうですね?」
ちょっと怒ったように頬をふくらまして問いかけてくる乙女に対して、さしもの魔王も幾分焦った表情で返答する。
「い、いや……そんなことはないさ」
「ふふ……母がわたしに似合うようにと仕入れた生地から、一生懸命縫ってくれた服です。似合いますか?」
機嫌を直したプシュケが、少しだけ体をひらりと回した。
それに合わせ、彼女にだけ特別に許可を与えている胸の十字架が、一瞬キラリと光りを踊らせた。
リュネシスは無表情を取り繕っていたが、なぜだか少女の清楚な装いが、どんな高価な衣装よりも尊いものに見え——。
「ああ……確かによく似合うな」
ぽろりと本音のままに呟いた。
「よかった」
プシュケは、満足そうに微笑んだ。
もし天使が舞い降りて笑みを零せば、このような笑顔になるのだろう。
リュネシスは、少女を見つめながらそう思った。
恋など知らぬはずの魔物が、知らないうちに人間の娘に魅了されてしまっている。
彼女の笑顔を前にすれば、自分の中に巣食っていた価値観──つまり王者としての誇りや尊厳に、何も必要以上に拘る必要はないのではないか──最近ではそう考え直すようにもなっていた。
リュネシスは、そんな自分の魔王らしからぬ心境の変化に戸惑い、だが、すぐにいつもの平然に立ち返ると、その視線をバルコニーから日の傾いた街の風景に向けた。
夕暮れのエリュマンティスの街並みは力強く、それでいてどこか儚い燃えるような朱一色に染められている。
自然の美による深い憂愁を秘めた色と光が、あちらこちらで煌々と照り返し、その倒景の空は赤に金が入り混じった七色の色彩となって、燦爛とした輝きを放っていた。
それは、ここからでしか見られない、誰も知らない、ふたりだけに与えられた壮麗な景観であった。
プシュケがディアム城に来て一年余り──。
魔王はいつしかすっかり、この娘と、この刻に、この場所で見る、この情景を気に入っていた。
以前なら、この光景を見ると思い浮かぶのは、ただ殺伐とした激情だけだったが、彼女といる時だけは、なぜか魔王の禍々しい憤怒や闘争への渇望も消え、不思議な安らぎを感じるようになっていた。
それは、プシュケも同じだった。
ふたりはただ静かに、目の前に広がる茜色の黄昏を見つめ、プシュケは、否——むしろリュネシスの方が無意識のうちに、乙女の注ぎ足す酒のペースに合わせ、巧みな調和でそれを喉に流し込んでいる。
最近では魔王は、知らぬ間に少女に酒の量を管理される形にまでなっていたが(節度ある倹約・清貧の心がけらしい)そのことですら自然と納得ができていて、微塵も不満に感じてはいなかった。
やがて——。
リュネシスは、ふと、思い出したように尋ねた。
「あえて今まで訊かなかったのだが……おまえの母親は、どういう女性なのだ?」
もし他に聞く者がいれば、かつて全世界を恐怖のどん底に陥れた〝魔の者〟の口調とは到底思えぬ、穏やかな声音だった。
「母は——」
プシュケは、遠くを見つめる眼差しのまま応える。
「とても親切な修道女でした。戦争で傷ついた兵隊さんたちを救いに行って——そこで倒れていた父を助けて、結ばれて、わたしを産んでくれたんです」
「そうか——だったらおまえは、まちがいなく母親似だな」
リュネシスも遠くを見ながら、同じようにそう言った。
「今は両親はどうしてる?」
「父も母も、もういません。戦地の魔物たちに殺されてしまって……わたしは十二になるまで、司教である祖父に育てていただいたんです」
プシュケの応えに〝ずきり〟とリュネシスの胸が痛んだ。
やはり、訊くべきではなかったのだ。
もしリュネシスが、ラド―シャと本気で戦っていれば、そのようにはならなかったであろうから。
そもそも人間に一切興味を持たないリュネシスは、他人の生い立ちについて尋ねたことなど一度もない。
その魔王の不文律が、プシュケにだけは通じないことが度々ある。
迂闊な言動に気を付けなければ——と、彼は密かに内省した。
しかしプシュケは、どのようなことであれ、リュネシスが自分のことを気にしてくれたのが嬉しかった。
少女は微妙に沈んだ空気を和ますかのような透き通る声に変えて、リュネシスに明るい顔を向ける。
「父は連隊長だったんです。厳しいけど正しい人でした。今思えば、そうですね——リュネシス様は、少し父に似ている気がします」
「——私が?」
少女にうまくフォローされて、簡単に気を取り直した魔王だったが、皮肉な微笑みの形に唇を歪めた。
「はい。なんとなく……ですけど——」
どこか可愛げのある、プシュケの言い回しであった。
だが、何も応えずリュネシスは再び酒を唇に運ぶ。
「……リュネシス様」
「なんだ」
リュネシスの背が、微かに張り詰めた。
「ここで寝てください」
「……え?」
膝の上をポンポンと叩く乙女に、リュネシスは思わず拍子抜けし、一瞬ぽかんと口を開ける。
当の本人は気づいてなかったが、永い生涯で魔王であるリュネシスがこのような貌をしたのは初めてのことであった。
そんな微笑ましく崩れた彼を見て、プシュケはきれいに整った顔に太陽のような笑顔を添えて、続く言葉を織りなした。
「昔、よく母にやってもらったんです。それで小さな時のわたしは、いつも気持ち良く眠れましたから——」
「ふん。何を言いだすかと思えば……」
リュネシスは失笑して、そっぽを向いた。
そんな魔王の貌を、プシュケは屈託のない目で見つめている。そうして、もう一度丁寧に自分の膝の上を叩いた。
「リュネシス様。ここで寝てください」
まるで子供に言い聞かせるような言い方である。
当然リュネシスは、頑として抗って見せた。
「私は魔王だぞ。そんなことができるか……」
だが、プシュケも簡単には屈しない。
彼女は根気強く、魔王に訴えかけようとする。
「リュネシス様」
魔王を直視するプシュケの表情に、真剣な色合いが浮かび上がっていく。
「ここで寝てください」
「……」
断固として応じようとしない男だったが、口元の張りにわずかな動きが見て取れた。
そこに乙女が、さらに口調を強めて繰り返す。
「お願いします。リュネシス様」
いつもは淑やかなはずのプシュケが、ここまで自己主張をするのは珍しい。
その声音には、魔王すら突き動かす不思議な力が籠もっていて、彼はもう逆らうことはできなかった。
——今日ぐらいは、黙ってこいつの言うことを聞いてやるか……。
プシュケにだけは、とことん弱い自分に呆れつつ、穏やかな諦めをその貌に漂わせて、リュネシスは密かにため息をついていた。
―――― § ――――
夢の中で博愛に満ちた、天使の歌声が聴こえる。
白い、白い、華奢な手に頭を撫でられ、リュネシスの意識は、ただ、今——この光の揺り籠の中に在った。
——讃美歌、か……。
およそ自分には似つかわしくないものではあったが、なぜか拒む気になれない。
幼子が子守唄に諭されるように、リュネシスはプシュケの安らかな歌声を聴いていた。
優しく髪を撫でられる感覚が心地良く、若き魔王はさらに深い眠りへと落ちていく。
それは彼も知らない、母の腕の中で眠る赤子の体感であった。
思いは遥か昔の──忘却の彼方にまで飛んでいる。
そこでは邪念を知らず、怒りも存在せず、身を護る必要すらなかった。
永遠の光と無限の愛に包まれていた場所。そう……そこは彼の中で、確かに在ったのだ。
七色の光の中を、どのくらい漂っていたのだろうか。
自分を包む光が、脈動するのを感じる。
彼はそれを受け入れ、在るべき方向に向かっていく。
ただ、より光の強まる方へ。光は何処までも続いている。その果てに、向かっていく。
―――― § ――――
慈しむ少女の眼差しが、じっと覗き込んでいるのを感じながら、リュネシスの意識が深い底から徐々に揺り戻されていく。
至福の眠りに落ちていた若者は、乙女の膝の上で静かに目覚めかけていた。
目の前には、眠る前と変わらぬ姿勢のままのプシュケがいる。
──おれが寝てる間、こいつはずっと見守ってくれていたのか?
リュネシスの頬に顔を近づけたプシュケの豊かな亜麻色の髪が、さらさらと流れ落ちている。
薄く目を閉じ、まだ眠っているふりをしながら、彼はその感触を心底愛おしく思った。
少女の背後から、強く輝く朝の陽が登ろうとしている。
そこでようやくリュネシスは、一瞬眩しそうに目を瞬かせてから、無造作にプシュケの顔に視線を送った。
まるで、母の胸に抱かれた幼子がするように。
その誰もが畏れる魔性の双眸と、きらめく翠玉の瞳とが真正面から見つめ合って──唐突に目を潤ませた少女が、ゆっくりと唇を重ね合わせてくる。
薄桃色の柔らかい唇を、ふわりと押し当てられたリュネシスは、思わず甘い吐息を漏らした。
そして同時に……プシュケが優しい仕草で、男のてのひらに〝贈り物〟を添える。
「……これは?」
見れば、陽の光を受けて淡く照り返す、ミスリル銀の横笛だった。
そっと顔を離したプシュケの形の良い唇に、柔らかい笑みが浮かび上がった。
「先日、衛士の方に付き添っていただき、街に出て買ったんです。きっとリュネシス様に、気に入って頂けると思って……本当はリュネシス様の、お誕生日にお渡ししたかったのですが……」
慎ましい乙女の言葉に、魔王はしばし考え込む。
誰も──彼自身も、リュネシスという存在の生まれ落ちた日を知らない。
そんなことは、気にしたこともない。
短い人生しか生きられない人間たちが、他愛もないことに情緒的になり、恋人同士が祝福し合い、喜びを見出している。
その姿はただ、無意味で無価値で愚かしいもの──というのが、数百年に及ぶ生を闘争で彩り、最強無比の伝説を欲しいままにする無敵の魔王の結論であった。
そして、そのようなことに一喜一憂する弱者でしかない人間たちには、北風のように冷めきった侮蔑の眼差しを向けるのみであった。
しかし——。
「今日の日をリュネシス様が、ずっと覚えていてくださいますように——」
彼女は、慈母を思わせる笑みを浮かべて、そう言った。
まるで今生の別れの時を、予感しているかのような……含みのある少女の言葉は深い余韻を伴って、この後、果てしない時の流れの中、魔王の耳に永遠のリフレインを奏でることになる。
「……これは美しいな……大切にしよう」
今はそのことに気づかぬまま、理解のできぬ熱い想いが胸の底からジーンとこみ上げてきて……直後、リュネシスはふと思い至った。
——そういえば、こいつの誕生日とやらに、おれは何もしてやらなかったな……今更だが、さすがにまずかった……こいつだけは特別なのに。
それは、魔王らしからぬ人間らしい甘い感傷であったが、その概念自体が自分の中で、今確実に深く根付きつつあることを、彼はまだ解っていない。
「おまえ、何か欲しい物はないか?ひとつだけ、どんな願いでも叶えてやる」
「?」
いきなり衝動的に出てきた自身の言葉に魔王は驚き、少女も知らず首を傾げてしまう。
しかしリュネシスには、それ以上に気になることがあった。
同時に今のプシュケには、宝石などの類を与えてやっても意味がないことを悟る。
「いや。何かして欲しいことがあるだろう。何でも言え」
「……して欲しいこと、ですか?」
「そうだ」
すでにリュネシスは気づいている。
先日からプシュケの衣装に、不自然な綻びや、湿り気のあったことに(プシュケは隠そうとしていたが)。
常に敵意や悪意に晒されて、それらに鋭敏な嗅覚を持つリュネシスは、一部の宮女たちが陰でプシュケに向けている害意を、随分前から敏感に詳細に感じ取っていた。
おそらく昨夕の一幕も、陰湿な嫌がらせが原因となって、他に着る服すら無くなった——という理由もあってのことだろう。
とはいえ、さすがに魔王たる者、はしたない宮女たちの諍いごときにしゃしゃり出ることはできぬ。
だから今までは、見て見ぬ振りを決め込んでいた。やがてプシュケが助けを求めてくれば、それに応じてやればよい。
そのように高を括っていたのである。
しかし、プシュケは忍耐強かった。
一言も——愚痴すら零さず、乙女は魔王に仕え続けた。
真に強い娘だと思う。誰よりも気高く気丈な娘だと改めて思い知らされる。
彼女にある種の敬意すら感じ、事実上リュネシスが先に音を上げる形で、自分に助けを求めるよう今は促している。
プシュケが一言でも救いを請えば、目に余る宮女たちなど、全員たちどころに処分してやろう。
もう、自分が誇り高き王者だからという理由で、自制も自粛もする気はない。
それなのに——。
「そうですね。ではリュネシス様——どうかそのお力で、滅びゆこうとするこの世界を救ってください」
清らかなる乙女が、神に祈る仕草をして言葉を紡いだ。
「なっ……!」
ある種の覚悟を決めていたリュネシスの口調に、苛ついた怒気が籠もる。
「ふざけるな——私は魔王だぞ!世界のことなど知ったことか!!他に何かあるだろう。お前自身の問題が!すぐにでも私の力を借りるべきことが!それを言えと言っているのだ!!」
息を荒らげ顔色まで変え、いつの間にかすっかり焦っている自分に気づき、そこでようやくリュネシスは気まずそうに視線をそらした。
そんな魔王の激情を受け流して、清楚な乙女はにっこりと笑う。
「リュネシス様」
乙女は慈愛に満ちた目で、若き魔王をじっと見つめた。
「リュネシス様はいつも偽悪ぶられているけれど、本当はとても心温かくて、思いやりがあって……いえ。むしろ少し臆病なぐらいの方ですね」
「……何!?」
プシュケは唖然として固まるリュネシスの胸に、ゆっくりと顔を埋めていった。
「そんなリュネシスさまが、大好きです。リュネシスさまに出会えて、わたしとても幸せ——神様にお仕えする修道女として、頂いてはいけないものもありました。でも全然後悔はしていません。わたしはとても幸せです。だから少しぐらい、神様の罰を受けても平気なのです」
「……」
魔王の心ですら、柔らかく包み込んで鎮めてしまうその言葉を持て余して、リュネシスは茫然となりながらもプシュケを強く抱きしめる。
明けようとする陽の光が、バルコニーからキラキラと射し込み、動きを止めて寄り添うふたりを祝福して今──眩いばかりの黄金色に照らし上げていった。




