神に挑む者
アルゴスより遥か遠く──。
赤い月の光りに照らされた世界の理から外れた場所に、それはそびえ立っていた。
〝ヴェルハール城〟──魔女王の住まう北の暗黒大陸ヘルヘイム西端に広がる、オルティギュアと呼ばれる地に存在する城である。
その規模は、かの魔王の名城〝ディアム城〟に勝るとも劣らない。
もし、地上の人の目に触れることがあれば、このような過疎地に、いかなる者が、どれほどの労力を費やして、これほどの建造物を造り上げたのかと目を疑うことであろう。
最もこの地は踏み入れたが最後、二度と帰ることは叶わない。
それを物語るかのよう、妖しい城は、ほぼ明けることのない夜の空を背に、まるで地の底から這い出た悪夢のごとく佇んでいる。
高い城門は閉ざされ、無数の魔紋が不吉な光を灯している。風がなくとも不気味な息遣いがそこから漏れるようで、まるでこの城そのものが生きているかのようだ。
城には数多の厳しい居室があるが、最も奥まった所に特別な一室があった。まるでそこだけ明るく開けたかのような、無垢な調度品に飾られた空間が──。
その可愛らしく飾り付けられた部屋の寝台の上で、病に蝕まれた幼い少女が苦しげに横たわっている。
輝く銀の髪が枯れた花のごとく枕に広がり、透き通るように青ざめた肌は月光を浴びた雪のよう。荒い息遣いは胸の奥で途切れがちに波打ち、熱に浮かされた瞳は、まるで夜空に瞬く遠い星を求めるかのように輝いている。
部屋には甘やかな薬草の香りが漂うも、その香気は彼女の苦痛を和らげるにはあまりに頼りなく、かすかな呻きが静寂を切り裂くたびに、重厚な天蓋のカーテンが揺れた。
少女の指先がわずかに動く。夢か現か、遠い誰かを求めるように──けれど、その手が触れたのは冷たい空気だけだった。
「お兄さま、お兄さま……」
弱々しく響く少女の声──だが人気のない城内では、そんなかすれ声など虚しく広がるだけで、それが外の者に聞こえることなど絶対にありえない。
だが城の外では確実に、闇に沈む森がざわめいていた。
まるでこの世の誰かが、遥か遠くから少女の声を聞き取り、急ぎ駆けつけているかのように、全ての木々がざわざわと揺さぶられていた。
唐突に森の上空を、大きな黒い鳥が横切る。
放たれた矢よりも疾く飛ぶその鳥は、力強い羽ばたきひとつで森全体に、円状に広がっていく羽風を広げていった。
謎めいた鳥は瞬く間に巨城の尖塔に降り立つと、虚空に魔力の渦を巻き、ひとりの若者の姿に変える。高貴な漆黒のマントを長身に纏う、およそこの世の者とは思えぬほどの美貌を誇る若者の姿に──。
若者は、尖塔に隠された秘密の入口から中に入ると、足早に歩を進めて行った。彼は難なく、城内に数多ある魔法じかけの障碍をくぐり抜けて行き、最奥にある部屋へと──少女の眠る居室へと急ぐ。
「……お兄さま……どこにいるの?とっても苦しい……助けて……」
幼い少女のうめき声が、すでにはっきりと若者の耳に届いている。
「ロゼリア!」
長い回廊の奥にある最後の扉をばんと力強く開きながら、彼は悲痛な表情で叫んでいた。
「ロゼリア……大丈夫だ。私はここにいる」
少女の──ロゼリアの視界に待ちわびた愛しい兄の姿が映る。直後、彼女の目には、苦しみとは別の意味の涙が浮かび上がっていた。
「ルーファお兄さま!」
「ロゼリア。待たせてすまなかった、ロゼリア!」
兄ルーファは、幼い妹を驚かさないよう穏やかな声音に変え、それでも熱にほてる少女の体をしっかりと抱き寄せた。そうすることで、彼女の苦しみを少しでも自分の身で受けようとしているかのように。
「もう大丈夫だ。私はここにいる。おまえが良くなるまで、ずっとそばにいる。もう、どこにも行かないさ」
「お兄さま……」
「だがすまない……そばにいるだけで、お前に何もしてやれない私を許してくれ。それでも、いつか必ずお前の病を治してやる……必ずだ」
兄の抱擁の中、息切れをしつつも、ロゼリアは月明かりのような安らぎに満ちた笑みを浮かべる。
「ううん……お兄さまがいてくださるだけで、わたしはとっても幸せ」
「ロゼリア……」
押し殺した声を発する兄を恍惚と見上げたまま、少女はそっと手を伸ばし、世界一美しい若者の頬に愛しげに触れた。
「ほら……お兄さまのおかげで、もうあんまり苦しくないよ。ありがとう……」
「……」
哀しげに微笑むしかない若者に、少女は哀願する表情に変えて続けた。
「でも、今夜はずっとここにいてね……お願いだから、どこにも行かないでね……」
「ああ、当たり前じゃないか」
「お兄さま……」
すがるように見つめてくる幼い妹を、ルーファはさらに強く抱きしめる。自分以外に頼る者がいないか弱い妹を、誰よりも愛しく思う。世界を──たとえ天と地のすべてを敵に回しても、必ず守ってやろうと誓う。
この世でロゼリアに味方する者は、彼以外いないのだ。
魔界の帝王であるルーファの血縁という身分でありながら、彼女は光にも闇にも受け入れられない存在であった。
父である堕天使ディルヴァウスの忘れがたみであるという彼女の呪われし宿命は、天にも地にも居場所を見出すことができぬ。また闇の世界においても、ルーファの権力闘争に巻き込まれる、か弱き犠牲者として常に狙われる立場にあるため、彼女の存在そのものを、この巨城で隠さなければならなかったのだ。
さらにロゼリアは不治の病に犯されていた。
終始病魔の苦しみにさらされながらも、姿形だけは崩れることなく、老いることも死ぬこともできない。
彼女は天使長であったディルヴァウスの、清い心の映し身であるため、現世にはわずかな力で留まっている、非常に脆い存在に過ぎなかった。
神に最も近い熾天使から受け継いだ至高なる霊質は、魔界の瘴気に当てられると激しい拒否反応を示す。だが逆に太陽の光を浴びてしまうと、ざわめく血が彼女の肉体に極度の負荷となってのしかかる。
わずかに苦しみから開放されるのは、月明かりに絶えず照らされたこの地にいるときのみ。それでも彼女には、激しい病魔の苦しみがつきまとう。
いかなる治癒魔法もこの世界最高の医術も、あまりに特異な彼女の身を癒すことができず、それゆえロゼリアは長き時を苦しみに苛まれて生きてきたのであった。
周期的にやってくる発作のごとき症状──助けてやれる方法はない。
今も……おそらくこの先もずっと……。
その時だった。
唐突にルーファの表情が、恐ろしく変わったのは──それは、決死の覚悟を宿した顔つきでもあった。
暗黒の皇子は扱えるはずもない、光の呪を発動させようとする。
もし成功したとしても、自身の身を滅ぼしかねない取り返しのつかぬ精神集中の喚起となる。
ロゼリアに翳された掌が淡く輝く──はっと少女は目を開き、兄の腕をその小さな両手でしっかりと握りしめる。魔法の知識の浅い少女にも、その危険な意味は理解できていたのだ。
「……だめ、お兄さま……絶対にだめ」
ロゼリアの言葉を無視して、ルーファの掌に魔力の力場が形成されていく。圧縮されたエネルギーが光の霜となって滲み出る。辺りを儚く照らした光は一瞬だけ大きく膨らみ、少女を包んだかに見えた。
だがそれは何の効力も見せず、すぐに虚しく消え去って──解りきっていたことであった。それでも……。
「すまないロゼリア……今の私は、苦しむおまえに何もしてやれずに……」
歯がゆい思いに貌を歪めて、同時にルーファは、反転した光の波動に力を奪われて膝を突く。
自分の内奥で命の根源まで吸い尽くされたような、耐え難い光のエネルギーが蠢いているのが解る。憔悴した王子の額に、辛い汗がダラダラと流れていく。
闇の頂点に立つ者として、強大な敵を打ち倒す破壊の魔術のみを彼は極めている。だからこそ光と癒しの法力とは絶対に相容れない。どこまでも冷静で聡明なはずの男だが、苦しみ悶える妹を前にするときだけは、あらゆる衝動を抑えることができなくなるのだ。
そんな兄に小さな妹は、苦しみに耐えながらも切なげな視線を向ける。
「ううん……わたしはお兄さまが、そばにいてくれるだけで幸せ……それなのに、わたしの方こそごめんなさい……ごめんなさい……」
碧い瞳に溢れるほどの涙を浮かべて、少女は兄にしがみついた。彼女は健気に精一杯、小さな体から癒やしの波動を送ろうとしている。
「だからもう……無茶はやめてね」
「ロゼリア……」
「お兄さま。大好き……」
光の差さぬ暗い魔城の中で寄り添う、世にも麗しい兄妹の声が、密やかに響き渡った。
少女をそっと抱きしめる皇子の瞳に、やるせないまでの怒りの色が浮かび上がる。
──神よ。なぜ……なぜロゼリアにまでこのような業を背負わせるのだ。何の罪もない、汚れなき我が妹になぜ!?
ルーファは遥かなる天を見上げるようにして、憤慨に歯を食いしばった。
──許さん!我と我が父のみならず、清らかなロゼリアにまで永劫の苦しみを与えるというのか!!こんな幼き無力な娘に、一片の情けもかけてやらぬというのか!!それが、神の摂理だと言うのか!!!ならば……ならば神の摂理は、この私が変えてやる!
内側で耐え難いまでの憤りが湧き上がっていき、同時に左の腕に飾られた〝覇者の腕輪〟がドクンと揺れる。
そんな、呪いに固まるルーファの体に、ロゼリアのぬくもりがふわりと覆い重なっていた。
あたかも彼の荒んだ心を、温めようとするかのように──。
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