魔王降臨
その魔王ことリュネシスは、大広間のバルコニー近くで独りどっかり腰を下ろし、静かに夕映えの世界を眺めていた。
男の片手の中には、なみなみと酒が注がれた盃がある。
しかし、何やら深く考え込み、手元の酒に口をつける素振りすらなく、ましてや酔いが回っている気配など微塵もない。
この城から見える茜色に染まった街の景観は、ギラギラと騒々しく賑わい、輝き、昔からあまり代わり映えがしない。
その光景に無言で視線を向けている魔王の双眸が、鋭利に細まり凍りつくような光を宿した。
百年前——若者が〝魔王〟として目覚めた後の、闘争と覇道の日々を、目の前の赤い空が想起させる。
―――― § ――――
あの日——リュネシスは、怒りの〝嵐〟と化した。
ディアム城の者たちを皆殺しにし、アルゴスの新たなる覇者として名乗りを上げ、全世界に向けて高らかに宣戦を布告したのだ。
同じ日、同じ刻に、空を覆う巨大な魔王の影を、世界の人々は見た。
魔王は天地を揺るがすがごとき哄笑と共に、全人類の破滅を宣言する。
それはまさしく〝悪魔狩り〟によって、狂乱と暴虐の地獄と成り果てた、漆黒の世界に降臨する帝王の幻像に他ならなかった。
心正しい者には勁烈極まりない「裁きの天使」の御姿と見え、罪深い者にはこの世の滅亡を予言する、「大いなる悪魔」の顕現に思えた。
世界は大混乱に陥った。
アルゴス国内においても〝黒の一族〟側の正規軍による反乱が各地で起きた。
しかし魔王は、完膚なきまでに対立軍を叩き潰し、一切の容赦なく根こそぎに殲滅した。
そして、その暴力と恐怖を徹底的に知らしめることで、まずは完全にアルゴスを手中に治める。
その後は、怒涛のようであった。
世界を統べる〝十二人の王〟の内、積極的に悪魔狩りに加担していた五人の王と、数多いる配下の大臣、将軍、そして法王——彼らが一日おきに、一国ごとに、計ったような正確さと緻密さで稲妻に打たれ、凄絶な死を遂げたのだ。
さながら地上を舞台に開幕した、忌まわしき道化の狂演のごとくに——。
物理的にも、魔法的にも、完璧な守備を固められた城内に居ながら、突如として凄まじい雷撃を受けて黒焦げの屍となった国王。
悪魔狩りの大義を雄弁に演説する最中、禍々しいまでの哄笑と死の宣告を伴い、天を割いて飛来した光の剣——その閃光に、大衆の目前で焼き殺され、灰と化した法王。
それらは魔王の力と脅威の見せしめとして、この上なく的を得、世界を恐怖のどん底に叩き落としたのである。
人々の多くは元々、悪魔狩りの正当性に疑念を抱いていた。
そのため世界の悪魔狩りの旋風は、アルゴス陥落後、僅か五つの日を数えるだけで消滅したのであった。
激怒した十三人目の、この世の影の王──〝魔女王ラド―シャ〟は、もはや自身の存在を秘めることもなく、大規模な軍隊を自国の〝ヘルヘイム〟よりアルゴスに向けて派遣した。
総数五万にも及ぶ魔女王の大軍団を指揮したのは、女王の一人娘アカーシャである。
当時まだ十四ほどの、ほんのうら若き少女にしか見えぬその風貌は、しかしながら比類なき美しさと威厳に満ち、その瞳に宿る底知れぬ虚無は、獰猛で悪辣なる魔族の群れを従えるに足る、恐るべきカリスマ性をも秘めていた。
対するはまだ、まともな軍勢すら形成しておらぬ、覚醒したばかりであった若き魔王リュネシス。
魔王自ら操り率いる、十体余りの希少金属の〝巨神兵兵団〟を前衛に敷き、七つの首を持つ〝風の龍神ティアマット〟の背に立ち、たった独りでアカーシャ率いる魔女王大軍団を迎え撃つ。
常勝無敗の悪鬼の戦闘集団を統率する、アカーシャの布陣と作戦は完璧であった。
また、空と陸をも埋め尽くす圧倒的総力数は、出会う者すべてに確実な滅びをもたらす死神の超軍勢であり、アカーシャは自軍の勝利を信じて疑わなかった。
だが——。
戦端が開いてものの数分で、魔少女は悪夢を見ることになる。
破滅と絶望の具現化である魔女王拝領の精兵たちが、魔王従属の龍神と巨神兵たちに為す術もなく蹴散らされ、あからさまな劣勢に陥ったのだ。
「ぐお——っ!!!」
「がぁ——っ!!!」
龍神と巨神兵たちの物凄い咆哮が重なり合い、大地と大気を揺るがした。
想像を絶する戦闘力である。
魔王の実力をけして侮っていた訳ではない。
しかし、己の配下たる魔女王軍の絶大な戦闘力と、高度に確立された自身の戦術すべてを、ことごとく覆されるなど、魔族の頂点に立つ者として永らく君臨してきた魔少女にとってあり得ないことだったのだ。
動揺する胸の内を抑え戦陣を見据えるアカーシャの目が、ほんのわずかに見開かれた。
彼女の視線が捉えたのは、天を舞う巨大な竜の背に仁王立ちとなり、大いなる力を操る年端もいかぬ少年ではないか。
——おのれ!!
怒りに猛るアカーシャ自らが先陣に立ち、放った灼熱の炎の呪文が巨神兵たちを襲う。
その威力は巨大な隕石のような勢いで、過重にして重厚な希少金属の巨神兵ですら、紙礫のように軽々と弾き飛ばす。
そして同時にその超高熱は、いかなる攻撃にも耐えうるはずの合金性の怪物たちをも、飴のように瞬時に溶解させた。
さらに連続して叩き付けられた凄まじい炎の玉は、巨竜の背で悠々と腕を組む魔王をめがけて一直線に飛んでいく。
しかし──。
その巨大な炎の球体が魔王を包み込んだ瞬間に、少年の姿が忽然と視界から消え失せた。
魔少女の放った炎の極大呪文が、確実に魔王と龍神に与えたダメージの手応えはあったのだ。
だが、その刹那——爆発的な閃光に包まれ眩し気に目を細めた黒衣の魔王が、直後に〝ニタリ〟と妖しく微笑んだのをアカーシャは確かに見た。
——幻影か?
訝しむアカーシャは、すぐにその逡巡を打ち消した。
紅い瞳を持つ魔少女の真価は、その「魔眼」の異能にある。
彼女の魔術回路から繰り出される絶対的幻術の妖力は、母ラドーシャですら一目置くほどに完成された魔術を発動させる。
それほどまでに幻術を得手とするアカーシャを出し抜いて、逆に彼女に幻術を繰り出せる者など、この世に存在するとは思えない。
ましてやあの瞬間に、魔法が働いた気配は全く感じられなかったはずなのだ。
「うっ」
突如として背後から強烈な〝殺気〟を感じ取り、アカーシャは凍りつく。
そこから在るはずの無い手がすっと伸びていて、いつの間にか魔少女の喉元に、光り輝く大剣を突き付けていたではないか──。
「なんだ……あれほどの魔力を振るう者がどんな化け物かと思えば、こんな小娘だったのか——」
嫌味なまでに甘ったるい声が、辺りに響いた。
すでに周囲の配下たる獰悪な魔物たちは、光のような剣撃で惨殺されている。
同時に無敵不敗を誇るはずのアカーシャの体が、強い金縛りに掛けられ、身動き一つ取ることもできぬ。
まさに、神業とも言うべき所業であった。
——これは魔法ではない。まさか失われた神の力……神霊力か?
〝神霊力〟——アカーシャも、目の当たりにするのは初めてだった。
魔王がたった今垣間見せた、瞬間移動と念動力。
それは確かに超能力の一端ではあったが、俗に言う超能力の概念とは根本的に異にする。
超能力の定義をも超えた高次元の能力——精霊や魔法の力を介さずして、思念だけでいかなる現象であろうとも引き起こす力。
因果律からなるこの世の法則を超え、思考の力だけで因を飛び越え、天変地異の規模に至るほどの事象すら引き起こす、まさに神の力であったのだ。
魔王の真の力を悟ったアカーシャに応えるように、声の主は軽やかに語った。
妖麗なる悪魔は、彼女の心すら読み取っているようだった。
「ああ……まだ、この〝力〟を使うつもりはなかったのだが、まさか私の可愛い巨神兵たちが、あれほど容易く倒されるとは思わなかったからな。恐ろしい娘だ──本当に恐れ入ったよ」
危険なまでの甘さで、脳裏に響くような声だった。
「——殺せ」
アカーシャは、ただそれだけを囁いて、静かに眼を閉じていた。
魔王が喉元に突きつけた聖剣——〝雷煌聖舞〟と呼ばれる——から肌を通して感じられる底知れぬ神気は、不死不滅である魔少女の肉体ですら、その不死性を無効にして、確実に破壊と死に至らしめるであろうことを察することができた。
すでにアカーシャによる統率力を失った悪虐なる集団たちは、阿鼻叫喚の坩堝に飲まれ、〝風の龍神ティアマット〟の引き起こす猛烈な竜巻の餌食となり、片っ端から吹き飛ばされ、あるいは切り刻まれていく。
たとえティアマットの風の洗礼を免れた者がいたとしても、まだ半数以上は残存している巨神兵たちの信じがたい力に叩き潰されていく。
すでに戦場は、絶望的にして、一方的な殺戮の舞台と化していた。
「ぎゃーっ!!」
「に、逃げろーっ!!」
兵たちは、もはや暗黒軍団としての意地も誇りもかなぐり捨て、我先にと悲鳴を上げて逃げ惑う。
魔女王兵団の生き残りは、今や三分の一ほどもいない。すでに壊滅していると言ってよかった。
覚悟を決めたアカーシャは、ただ虚ろな眼で戦場を眺めている。
——これでよかったのかもしれない。もともと、母に与えられた非道な軍の存続などに未練も執着もない。これでよかったのかも……。
アカーシャの唇が、苦味のある微笑みの形に微かに歪んだ。
たとえ、自分ひとりがこの場を生き延びたとしても、一軍団を失うほどの失態を犯せば、いかに魔女王の娘とはいえ処刑は免れない。
そしてどの道、冷血な母とは決定的な確執もあったのだ。
いずれは母の手に掛けられ殺されていたであろう、と彼女は思う。
さらに魔王にはまだ、隠し持っている実力が──底しれぬ力を秘める風と雷の魔力もあるときく。
さしもの魔少女も茫然自失となり、完敗を認めざるを得ない。
アカーシャの紅く光彩の無い瞳には、人間の少女が持つ、無邪気な夢や希望などを一切拒む、果てしのない虚無だけが映し出されていた。
そう……もとより彼女は、死を望んでいたのだ。
「おまえ、私と同じ匂いがするな……」
艶めかしい魔王の声が、ふと──魔少女に似た抑揚のない囁きに変わった。
「おまえの目は美しいな——」
「!?」
思わぬ言葉に、魔族の姫はわずかに動揺する。
「最初から捨てるつもりだったのか?その命を……ならば、私に捧げろ——私と共に生きる意味を探そう」
魔王の声には、何者もけして逆らうことのできぬ力が籠っていた。
そして、酷似する境遇を持つ者同士の共鳴する想いが、強く惹かれ求め合い——その短い静寂が流れた後、魔少女から躊躇いは消えていた。
その時より炎の魔女アカーシャは、無意味な生と死を放棄し、魔王リュネシス麾下において忠誠を誓い、彼を守護する最初のひとりで最強の独りとなる。
そこでこそ魔少女には、誰憚ることも束縛されることもなく、自由に生きられるという不思議な確信めいたものがあったからだ。
以後、魔王リュネシス麾下において、想像を絶する統率力によって支配された、魔獣・魔物たちの大軍団が形成される。
その大兵団の主軸として直接統括に携わったのは、誰をおいて他ならぬ漆黒の魔少女アカーシャであった。
魔王軍〝総帥〟として全ての指揮を委ねられ、魔王リュネシス配下の巨大な軍団は、その成立後まもなく実質的に、紅い瞳を持つ妖美な魔少女が永久に掌握することになる。
先の大戦の後、地上の魔族の実に三分の一もの総数が、魔王リュネシスの側に付いた。
それはまさにリュネシスの父である、いと高き天使の長であった者が、かつて引き起こした天界大戦の模倣であった。
運命とはなんと、皮肉な巡り合わせを演出するのだろうか……。
その後、世界制覇を目指さんとする魔王軍の果敢な猛攻が地上を席巻し、それに相対する魔女王軍とのせめぎあいが六ヶ月に渡って続いた。
世界の覇権は魔王側と魔女王側に完全に二分され、両者の烈しい戦いによって地上は荒廃し、魔軍の戦いにまきこまれた人類の半数近くが死滅し、滅亡寸前にまで至った。
以後、両者の間でひとつの条約が交わされる。
互いに領地を侵さずとする無期限・無条件の「不可侵条約」が締結されたのだ。
ただし、この取り決めには裏があった。
それは、あくまで魔族を対象とする魔族間だけの条約であり、その効力は人間には及ばない。
これは解釈しだいでは、どちらの魔軍も人為国家を攻める程度ならば、戦を起こすことは可能となる。
ゆえに前述の通り、魔女王側から人間だけを狙い撃ちにするような、国家間の小競り合いが収まらなかったのだ。
この百年近く、魔王リュネシス配下の大軍団は、世界征服に向けた覇権戦争を半ば放棄している。
来たるべき魔女王軍との真の戦いに備え、不気味なほどの静寂を湛えて、沈黙する主に付き従っている。
―――― § ――――
——ラド―シャか……。
脳裏に浮かぶ様々な想いを反芻しながら、男はひとり盃を唇に運ぶ。
遠くない将来、魔女王軍団との壮絶な大戦の予感を──次こそは両軍の雌雄を決し、どちらかが死滅するまで戦わねばならぬであろう大いなる最終戦争の予兆を、若き魔王は感じ取っていた。
プシュケはドキドキと胸を高鳴らせ、魔王のいる大広間に足を踏み入れた。
今日はなぜか、整えたはずの心が大きく跳ね上がる。
それでも乙女は、静々と歩を進めた。
歩む先には動かない男の背が在る。
その冷徹なまでに研ぎ澄まされた横顔は、美しくも近寄り難い王者の威厳に満ち、そして茜空の照り返しの中、切ない愁いの色を滲ませて——少女は思わずその色に呑まれ、微かに竦んだ。
「何かあったのか」
魔王がこちらを向かぬまま、地獄の底から響いてくるような声で言った。
先ほどの揉め事のことなのか、昨日、足を運べなかったことなのか——さすがにプシュケも一瞬躊躇ったが、どうにか冷静さを保ったまま応える。
「いえ。別に何もありません」
その言葉を受け、魔王はゆっくりと肩越しに振り返った。
若者の耳たぶを飾る闇の白月を象ったピアスが——天界にすらふたつと存在しない、光の貴石で創られた神々の至宝〝クリスタルピアス〟が、その超神秘的な力の一端を現すかのように、キラリと発光した。
「忘れるな——おまえの〝つとめ〟は、ただ私の傍で仕えていることだ」
昨夜エレナがしゃしゃり出て、プシュケの不具合を告げ、自らが魔王の〝たしなみ〟の役を申し出た。
気づかぬふりをしながら、真相を悟っていたリュネシスであったが、黙ってエレナとその取り巻きたちの好きにさせた。
魔王である自分が些末なことに口を挟むべきではない。そう思ってのことだったが──むしろ、それこそが悪知恵の働くエレナの計算であったのだが──結局は、ここのところ慣れ親しんだ、プシュケとの穏やかなくつろぎの時とは真逆の嫌悪感に耐え切れなくなり、彼女らを叱咤して追い返したのだった。
聡明なプシュケは、魔王の様相から昨夜に起きたであろう一幕を、薄々ながら推察する。
「はい。申し訳ございません」
胸元で華奢な両手を握って詫びる少女の表情は──咲いたばかりの花のように、明るく嬉しげに弾けていた。




