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人の踏み込めぬ僻地にて

 さえざえとする、満月の夜だった。


 人も、獣も、草木ですら眠りにつくほど夜はふけ、すべては静まり返っていた。ただ秋の初めの涼しい風が、乾いた大地の上を優しくなで、さーっと気持ちの良い音を立てている。


 そこは、人里からはるか離れた辺境の地であった。草と、岩と、灌木かんぼく以外には何もない。


 どこまでも広がる荒涼こうりょうとした平原が、遠い過去からの悠久ゆうきゅうの静けさを密かに語り伝えている。


 そこはずっと、人の踏み込んだことのないへきであったのだ。


 月明かりにいろどられた未開の地の、比較的平坦なとある場所──そこに、微かにさいを放つふたつの影がゆらめいていた。


 それは、〝人〟の影のように見える。


 言い切ることができぬのは、そのふたつの影には人の気配がないからである。

 

 人の影にしては魔性のように危うく、それでいて陽炎かげろうのようにもろい。

 魔力に通じる者が見れば、明らかに人ならざる尋常でない存在と察することができたであろう。


 ふたつの影は、闇色のマントで全身をおおっていた。


 ひとつは人間大ほど。もうひとつは小さな子供ほどであった。ふたつの影は寄りそいあいおうを楽しむ恋人同士のように、愛し気に言葉をつむいでいる。


「お兄さま。見て、とてもれいな月……」


 小さな影が可愛らしく夜空を指さしながら、顔をおおう上品な絹のフードをふわりと外した。

 一瞬、その影を祝福するかのように、辺りに月光が集約される。


 現れたのは、おとぎの世界から舞い降りたのかとまがうほどうるわしい少女であった。 


 聖なる輝きを宿す銀髪碧眼と、けがれを知らぬ真っ白い肌。そして、それらに引き立てられた幼いながらも端正な顔。年齢はまだ十歳かそこらほどの、年端のいかない少女だった。

 女性としてはまるで未完成だが、少女の美貌は人としての美しさを超越していた。彼女の小さなかおが、たぐいまれぬ愛くるしさを表現しているのだ。まるで、この世の隠された秘宝として、誰も触れることが許されぬかのような──。


「ああ。そうだな……」


 優しい声でこたえ、もうひとつの影もゆっくりと絹のフードをぬぐった。


 月の光に照らされて、その者のかおがあらわになる。


 立ち出でたのは、えも言われぬ美しさを月夜に放つ若者であった。少女を月の妖精とたとえるなら、それは月の女神と形容すべきであろうか。


 光り輝く黄金の瞳を宿す切れ長の目と、整然としたラインを描く高いりょう。そして同じく完全な形状を誇る唇。それらは何者も魅了するであろう、極上の美しさをたたえている。


 特筆すべきは、貌を形造る要素のひとつひとつは、まるで女神のそれであるのに、月明かりの中、神秘的な燐光りんこうを宿しぜんとして立つ姿は燦爛さんらんたる雄々(おお)しさで、女々しさなどじんも感じられぬことだった。


 さらに若者が内に秘める底知れぬ魔の力は、闇夜に潜むあらゆる悪霊・雑霊達さえもひれ伏してける程、王者の風格と威厳に満ちあふれたたものであったのだ。


 おそらくはあやかしたぐいでありながら、もうりょうたちのどうく存在なのであろう。あるいは妖魔の皇子と呼ぶべきか──。


 少女は高まる想いを胸に隠して、兄である皇子を見つめた。


 皇子のまばゆいプラチナを思わせる銀の髪は、月明かりを浴びながら様々な色彩をおびて、キラキラと光の粒を躍らせている。


 少女にとってそんな兄の秀麗さは、密かな誇りでもあったのだ。


「お兄さま——」


「ん?」


 皇子はただ、慈愛を含んだ微笑みで少女を見つめ返す。


 それだけでこの若者が、どれほど少女を大切にしているかがうかがい知れる。

 これほどまでに帝王としての威容を誇る男が、他に同じぐらい愛情を降り注ぐ対象などいるはずもない。


「今夜はずっと、一緒いっしょにいてくれますか?」


「ああ……いるよ。今夜はずっと一緒だ」


 よいいくとなく少女は同じ問いかけをしてきたが、皇子のこたえは変わらなかった。


「しばらくおまえのそばにいてやれなかったな。すまなかった……許してくれ」


「ううん——いいの、謝らないで。お兄さまのお仕事がお忙しいからですよね」


 ふたりの上で輝いている月明かりのような清らかさで、少女は笑う。


「お兄さまがこうして一緒にいてくださるだけで、わたしは幸せです」


 だが、その花のように微笑んで皇子を直視する少女の顔が、少しだけうれいを帯びた笑顔に変わる。


「でも、やっぱり……お兄さまがいつも一緒にいてくださったなら、もっと幸せです」


「……」


 少女のいじらしい要求に何も応えられず、皇子はただ彼女を右の腕で守るように抱き寄せて、左の腕をそっとえる。


 重ね合わせた腕に飾られる竜の王をかたどった黒色の腕輪ブレスレット──父王から譲り受けたしゃの腕輪──が、皇子のあまりに深い情愛の想念に反応して、一瞬〝どくん〟と血を通わせたかのように微かにゆれた。それは、鋭敏えいびんな者が目の当たりにすれば畏怖いふを覚えるほど、極限の力のこもったどうであった。


 だが、腕輪ブレスレットの恐ろしい心音を、か弱い少女にだけは聞かせぬようにと気をくばりながら、皇子はそのまま優しく丁寧に、大切な妹の小さな頭をでる。


 それが少女の何よりもの安らぎであることを、彼はよく知っていたから。幸い少女も〝それ〟に気づかなかったのであろう。不器用にしがみつくように、若者の胸に顔を埋めている。


 甘く、くすぐったい吐息を肌に感じながら、兄である皇子はいつまでも大切に幼い妹の髪を、ほほを、撫でてあげた。彼女の幸せが彼の幸せでもあったから。


 どのくらいのときが過ぎただろうか——少女は、ようやくゆっくりと美貌の兄を見上げた。


「お兄さま。あのね……」


 少女のあどけない顔に、ささやかなかげりが宿る。


「あのね。わたし最近怖い夢を見るの。お兄さまが大きな〝風〟にさらわれていっちゃう夢……とても怖くて強い〝風〟がお兄さまに襲いかかってきて、それでお兄さまが……その〝風〟に苦しめられて勝てなくて……」


 言いにくそうに、それでも精一杯大事なことを伝えようとする少女の言葉を、皇子は穏やかにさえぎった。


「何を言っているんだロゼリア……ただの夢だよ……分かっているはずじゃないか。この世界に私より強い者など絶対に存在しない。だから、何も心配はいらない」


「……お兄さま」


 誰よりも強く優しい兄にたしなめられ、ロゼリアと呼ばれた少女は、うれいと安心の入りまじった笑みを浮かべた。


 そんな彼女の気を晴らすためなのか、あるいは、どこまでもじゅんしん無垢むくな妹に対する愛しさのためなのか──皇子はゆるやかな動きでロゼリアの銀の髪に貌を近づけて、思いやるように冷たい唇をつける。


「それより今日は、お前が元気なようで良かった。私はお前が元気でさえいてくれればそれでいいんだ……」


「うん……」


 髪のしんから伝わる兄のわくの唇に心を奪われて、ロゼリアは切なげにうなずいた。


 と、その時——。


「あっ——」


 愛らしく叫んだロゼリアの、宝石のような瞳が夜空に吸い込まれていく。


「流れ星……」


 ロゼリアは、すぐに小さな手を合わせて、星空に祈りを(ささ)げた。


 祈る少女の邪魔をしないようしばらく静かに見守ってから、若者はあたたかく微笑んだ。


「何を祈ったんだロゼリア……私にも教えてくれないか?」


 兄がくと幼い妹は──。


「お兄さまを怖い〝風〟から守ってください。そして……」


 キラキラ光るあおい瞳に精一杯の愛を込めて、ロゼリアは彼女にとって、全世界である美しい兄に目線を向ける。


「いつかわたしが健康になって、お兄さまのお嫁様になって、ふたりでいつまでも幸せに暮らせますようにって——」


「……」


 少女の言葉に皇子は沈黙し、甘く哀しい笑顔に変えた。(ロゼリアが一生忘れられないほど)しかし、瞬時にそれを打ち消して──。


「ああ……いつまでも一緒だ!」


 少女の顔が不安に包まれるよりも早く、兄はこの世でたったひとりである愛しい妹を抱きしめた。


「いつまでも必ず私がお前を守る。お前の病も必ず私が治してやる。この世界を変えてでも必ずお前を幸せにする」


 誰にも見せぬはずの情熱をかいまみせる兄の言葉に、初々しい妹の表情が切ないまでの恍惚こうこつの色に染まる。


「お兄さま大好き……でもわたしは今のままで幸せ……」


「ロゼリア……」


 暗黒の皇子と光の少女の甘い吐息が混じり合う。


「だから悪いことだけはしないでお兄さま——」


 ロゼリアは兄の腕の中で、彼女の手にはあり余る大きな背中に一生懸命両腕を回しながら、言葉につよい熱をこめて続けた。


「お願いだから罪になるようなことはしないで。恐ろしいことはやめてね。いつまでも優しいお兄さまでいて……」


 ふたりの間に一陣いちじんの風が吹き抜けた。それは長い……長い、一瞬であった。

 その間、いたいけな妹の言葉が皇子の胸にぐさりと刺さり続けていた。


「ああ……当たり前じゃないか……」


 罪悪感に耐えきれぬようになり、少女に折れる形で皇子が沈黙を破った。


「愛してるよ。ロゼリア——」


「ルーファお兄さま?」


 心苦しい妹の問いかけを、しかし彼は努めて冷静にはぐらかす。


「帰ろう。ベルゼバブが心配する」


 妖魔は夜空に思念を放つ。


——黒帝。


 すると闇夜の中空から、巨大なペガサスがふわりと舞い降りた。象とまがうばかりの体躯を誇る、つややかな漆黒の魔馬である。


 魔性の馬──〝黒帝〟は主のそばに音もなく着地すると、ブワッとふくみのある一息を吐いてたくましい背を傾ける。その忠実な下僕にも、皇子は笑みを与えてやった。


 だが──。


 幼い姫をペガサスの背に乗せ、自らも鞍上にまたがるときには皇子の——ルーファの甘い微笑は消えていた。

 甘美な瞳が冷たく危険な色を帯びて、横に広がる闇を一瞥いちべつする。


——〝風〟か……。


 ルーファは密かに身じろぎした。やがて来る〝強大な嵐〟を予感して。


 うるわしい兄妹をその背に乗せ、漆黒のペガサスは力強く大地を蹴り、夜空の星々めがけ舞い上がる。あたかも使つかいが天に帰るかのように。


 後にはただ、静まり返った夜闇だけが残されていた。


 それはよいの一幕がすべて、月夜の精霊たちが演じたはかない夢を物語るかのようであった。






はじめまして夜星よるのあかりと申します。

新連載ですが、皆様に少しでも楽しんでいただけるようなファンタジー小説をお届けしたいと思ってます。


応援よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
兄妹が訪れたその土地の情景が浮かびます 麗しいロゼリアと美しさの中にある風格を 備え持つルーファ この2人が今後どうなるのか気になります とても美しい描写で素敵だと思います
描写がとても丁寧でその場にいるかのような気持ちにさせてくれました。流れもついていきやすくて、作者さんの作品に対する熱意が伝わってきます。 また追わせて頂きます!
文章の流れが、とても綺麗で羨ましいです(⌒∇⌒) また行の開け方も凄く参考になりました。
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