ふたりの出会い(1)
「ロミナ、父さんのそばを離れんじゃねえぞ。いいな」
「うん! わかったのだ!」
元気よく答えると、ロミナは荷車を降りた。バロンが荷車を引いていき、ロミナはその隣を歩いている。
バロンは、これから城塞都市バーレンへと向かう。巨大な鹿を荷車に乗せており、彼がひとりで引いている。ここまでは、普段と同じである。
だが、普段とは違う点もあった。先ほどまで、荷車の上にはロミナが乗っていた。
ロミナは日頃から、街に行きたがっていた。しかし、バロンは頑なに拒絶していたのである。お前には、まだ早い……と。
それがどういうわけが、今朝になってみると意見が変わっていたのだ。昨夜、バロンとライムとの間で何らかの話し合いが行われたらしい。朝、まだ眠っているロミナをそっと荷車に乗せて、山を降る道を歩いていたのだ。
ロミナは初め、何が起きたのかわからなかった。だが街に行くと聞かされるなり、大はしゃぎである。しまいには、静かにしないと家に戻すぞ……とまで言われたほどだ。それでも、少女は落ち着かない様子でキョロキョロしている。
荷車には、きのう仕留めた巨大な鹿も乗せていた。どのような手段によるものなのか、カチンカチンに凍っており布に覆われている。これなら、街に着くまで腐ったりはしないだろう。
ロミナは先ほどまで、その物体を不思議そうに見つめていた。
「不思議なのだ。ひゃっこいのだ」
時おり触れたりしながら、そんなことを呟いている。見かねたバロンが、そっと声をかけた。
「あんまりべたべた触るな。手が痛くなるぞ」
「えっ、触ると手が痛くなるのか? なぜなのだ?」
「いや、それはだな……うーん、とにかく痛くなるんだよ。火に触ると、熱くて火傷するだろ。冷たいものに触っても、やっぱり手が痛くなるんだ。そう覚えとけ」
「うん、わかったのだ! もう、触らないのだ!」
元気よく答えると、ロミナは周りを見渡した。
彼女は今まで、自宅とその周辺を行き来するだけであった。ここまで来たのは初めてである。好奇心を刺激されっぱなしで、目を輝かせていた。
昼過ぎ、ふたりはバーレンに到着した。途端に、ロミナは叫ぶ。
「な、何なのだこれは!? すっごくでっかいのだ!?」
叫びながら、壁を指さす。
少女が驚くのも当然だろう。バーレンを囲む壁は高さ二十メートルもあり、巨大な門が付いている。山で暮らしていたロミナからすれば、とんでもないものに映るだろう。
「おい、よそ見すんな。早く来い」
そう言うと、バロンは門番と話を始めた。街に入るための手続きをしているのだ。彼は、既に何度もバーレンに出入りしている。通行の許可証ももらっている。ただし、入れるのは最下層の人間が住むゾッド地区だけだ。他の地区と比べると、ゾッド地区は非常に入りやすい。
バロンと話していた門番が、ロミナの方を見た。
「その子は何だ?」
「俺の娘です」
「娘? ぜんぜん似てないが……まあ、いいか。よし、入っていいぞ」
番兵の声とともに、巨大な門が開いた。その様を、ロミナはあんぐりと口を開けて見ている。
「す、凄いのだ……」
呆然とした表情で呟いた。そんな少女を、バロンはそっと持ち上げ荷車に乗せる。
「いいか、中には悪い奴もたくさんいる。俺のそばを離れるんじゃねえぞ」
そう言うと、荷車を引き街の中に入っていった。
城塞都市バーレンは、ロミナがこれまで見てきた世界とはまるで違っていた。
広い道路には、石が敷き詰められている。その道路沿いには、レンガ造りの大きな建物が並ぶ。さらには街灯らしき物さえ設置されているのだ。アルラト山の緑に覆われた風景しか知らないロミナから見れば、文明のレベルが段違いである。
もっとも、ここはバーレンでも最下層の貧民たちが住む区域である。これでも、他の地区に比べれば劣っていた。
特にアーセナル地区ともなれば、もはや別世界であった。美しく飾られた馬車が行き交い、交通整理の役目を果たす兵士たちは礼儀正しく丁寧な口調である。さらには、道路のゴミを始末するための清掃員までいる。
住民たちは金持ちの商人や貴族の親戚たちばかりであり、他の地区とは空気からして違っている。街灯に照らされた大通りは、夜になっても明るい。治安も良く、犯罪などほとんど起こらなかった。
しかし、ふたりが今いるのは城塞都市バーレンのゾッド地区だ。最下層の貧民たちが住んでおり、人相の悪い者も多い。衛兵たちはやる気がないらしく、詰め所に入ったきり出てくる気配がない。
はっきり言えば、このゾッド地区は無法地帯に近い状態である。もっとも、アルラト山で暮らすよりはまだ安全と言えた。
そんな街の中を、バロンはずんずん進んで行く。街角にたむろしているゴロツキやチンピラも、彼に手出しはしない。かつて、軽い気持ちでバロンにちょっかいを出した者たちがいたが、次の瞬間に全員が叩きのめされた話は知れ渡っている。
やがて、バロンはとある店の前で立ち止まった。
「よし、降りろ」
声をかけ、ロミナを降ろす。彼女はというと、見たこともない風景に目を奪われていた。
「お父さん、不思議なものがいっぱいなのだ。ロミナは、わけがわからないのだ」
そんなことを言って、頭を抱えた。バロンは、思わずくすりと笑う。
「心配するな。慣れりゃ、なんてことねえからよ。それよりも、だ。今からこの店に入るぞ。いい子にして俺のそばを離れるな」
言った直後、鹿を覆っていた布を剥がす。
次の瞬間、巨大な鹿を一気に担ぎ上げてしまったのだ。確実に、人間ふたり分くらいはある重さだが、バロンは軽々と担ぎ肩に乗せている。ロミナは、思わず叫んでいた。
「お父さん凄いのだ!」
「へっ、大したことねえよ。これくらい、いつもやってることだ」
軽い口調で言うと、店の裏口から中に入って行く。
そこには、大量の肉が保管されていた。そう、ここは肉屋である。バロンは、この店に仕留めた鹿を売っているのだ。
肉屋のアンジェラは、にこやかな顔で出迎える。
「あれ、バロンじゃないか。今日はまた、いやに遅かったねえ」
「ああ、今日は娘と一緒でな。急ぐわけにも行かなかったんだよ。ほらロミナ、アンジェラさんにご挨拶しろ」
言われたロミナは、首を傾げ尋ねる。
「ご挨拶とは、何なのだ?」
「バカ野郎。いいか、挨拶ってのは──」
「いいよ、そんな堅苦しいことしなくても」
アンジェラが口を挟んだ。次いで彼女は、ロミナの方を向く。
「かわいいお嬢ちゃんだね。お名前は?」
「ロミナなのだ!」
胸を張って答えるロミナに、アンジェラは微笑みかける。
「元気があってよろしい」
言った後、アンジェラは不思議そうな表情で尋ねる。
「でも、本当にあんたの娘なのかい? 全然似てないけど」
「何言ってるんだ。俺の娘に決まってるだろう」
「へえ。じゃあ、お母さんに似たんだ。良かったねロミナちゃん、お父さんみたいな怖い目つきの悪党面にならなくて」
「余計なお世話だ。それより、こいつ頼むぜ」
「はいよ。しかし、こりゃまたデカい鹿だね。こんなの、よくひとりで持って来れるよ」
アンジェラが呆れたような口調で言ったが、それも当然だった。なにせ、人ひとりで持って来られるような大きさではないのだ。
「へっ、こんなの軽いもんだぜ。それよりも、幾らになるんだ?」
バロンがアンジェラと商売の話をしている時、ロミナはあっちこっちを物珍しそうに見回っている。
やがて、店の表側へと出た。ふと窓から外を見てみると、不思議なものを見つける。
ひとりの少年が、こちらに向かい歩いて来たのだ。白いシャツを着て黒いズボンを履いており、髪は金色で肌は白い。きれいな顔立ちをしており、年齢はロミナと同じか少し上だろうか。
ロミナは、自分と同じくらいの年格好の子供を初めて見た。不思議な気分だ。考えてみれば、これまでのロミナの世界には、父と母しかいなかった。
しかも、その少年は片手に紐を持っていた。その紐は、小さな生き物の首に繋がっている。ロミナが、これまで見たこともない生き物だ。
少年は、肉屋の前で立ち止まった。生き物と繋がっている紐を、どこかに結びつけている。
窓から見ていたロミナは、我慢できなくなった。彼女の旺盛な好奇心は、もはや止まらない。扉を開け、少年に尋ねる。
「これは、何という生き物なのだ?」