学校へ行こう
その日の昼、バロンとロミナは森の中を散歩した。
散歩中、ロミナは妙に静かであった。いつもなら、放っておいても好奇心のおもむくままに走り回り、はしゃぎ回るはずだ。しかし、今日は心ここにあらずという感じだった。時おり、バロンに向かい何か言いたげな表情を見せたりもする。だが、決心がつかぬのか言い出せずにいた。この少女にしては、珍しいことである。
バロンはというと、彼もまたムッツリと黙りこんでいた。必要なこと以外は、いっさい口にしない。実のところ、ロミナの不審な挙動には気づいていた。また、何が言いたいかもわかっていたのだ。
しかし、あえて気づかぬふりをしていた。
夜の帳が下り、バロンが「仕事」に出ていった頃。
夕飯を食べた後は、いつもの通りである。ライムは、ロミナと話をしていた。昼間はいつもよりおとなしかったが、今は違う。母を相手にした時、娘は元気に喋りまくっている。
「ジュリアンの髪の毛は、とっても綺麗なのだ! 肌も真っ白なのだ! お母さんと同じなのだ!」
ジュリアンのことを語って聞かせるロミナ。その瞳はキラキラ輝き、顔には嬉しいという感情が溢れ出ていた。
この少女、バロンの前ではジュリアンのことを話さないようにしているのだ。父は、ジュリアンのことを嫌っている……それがわかるからこそ、ロミナもうかつには口にしない。
天然ではあるが、そのくらいの気配りは出来る少女なのであった。
「ロミナは、ジュリアンのことが本当に好きなんだね」
ライムの何気ない言葉に、ロミナは大きく頷く。
「うん、大好きなのだ! ジュリアンはカッコいいし、とても賢いのだ! 数のかぞえ方を教えてくれたのだ!」
勢いよく話していたが、不意に顔が曇る。
「一度、ジュリアンと一緒に学校へ行ってみたいのだ。学校は、なんか楽しそうなのだ。でも、お父さんは行っては駄目だと言うのだ」
「そっか。ロミナは、お勉強がしたいんだね」
「オベンキョウ? 何なのだそれは?」
「字を習ったり、計算を教わること。学校はね、勉強をするところなんだよ」
「そ、そうか。勉強は、難しそうなのだ。でも、知らないことを習うのは、なんか面白そうなのだ」
「そうだね。勉強は、しておいた方がいいよね。ロミナも、いつかは……」
そこで言いよどむ。この少女との別れの時が、少しずつ近づいているのを感じた。
ロミナは、今いる閉ざされた世界から旅立たねばならないのだ。その時のために、ロミナはいろいろなことを学ぶ必要がある。
ひとりででも、生きていけるように──
「ん? 何なのだ?」
無邪気な顔で聞いてくるロミナ。悲しみを押し隠し、ライムは微笑みながら尋ねる。
「ねえ、ロミナは街で暮らしたい?」
「えっ? 街で暮らす?」
「そう。この家から、街に通うのは大変でしょ。だから、街に家を買って住めばいいんじゃないかって思ったの」
「おおお! それは素晴らしい考えなのだ! そしたら、街に住めるのだ! 街に家があれば、ジュリアンやロバーツとも、いっぱいいっぱい会えるのだ!」
「そっか。やっぱり、ロミナは街に住みたいんたね」
「うん! 住みたいのだ!」
言いながら、ロミナは両手でテーブルを叩いた。街に住む、そのことを想像し興奮しているらしい。
「お家が街にあれば、お母さんも街に住めるのだ! お母さんにも、ジュリアンやロバーツやララーシュタインと会って欲しいのだ!」
なおも勢いよく言ってきたロミナに向かい、ライムはそっとかぶりを振った。
「お母さんは、街に住めないんだよ」
「どうしてなのだ?」
「お母さんの病気は、街にいるともっと悪くなるんだよ。だから、街には住めないんだ」
聞いた途端に、ロミナのテンションはみるみるうちに下がっていった。
「そ、そうなのか。じゃあ仕方ないのだ。ロミナも、森にいるのだ」
「街に住まなくていいの?」
「うん、住みたいのだ。でも、お母さんが一緒じゃないなら、住まなくていいのだ」
「そう……」
ライムの胸の裡を、様々な思いが駆け巡る。この娘の素直さや優しさが、とても嬉しい。ライムのことを、ちゃんと思ってくれているのだ。
同時に、とても悲しい──
「ほら、そろそろ寝る時間だよ」
複雑な気持ちを押し隠し、ライムは立ち上がった。そっとロミナを抱き抱える。
「えー、まだ寝たくないのだ。もっと、お母さんとお喋りしたいのだ」
「お母さんも、あんたとお喋りしたいよ。けどね、早く寝ないと大きくなれないよ」
「ロミナは、別に大きくならなくてもいいのだ」
そんなことを言うロミナに、ライムは思わず笑ってしまった。
「ふふふ、そうなんだ。でも大きくなれば、ひとりで街に行けるんだよ」
「そうなのか。だったら、早く大きくならなくてはならないのだ」
「でしょう。だから、早く寝ようね」
そう言うと、ライムは娘をベッドに寝かせた。
やがて、ロミナの寝息が聞こえてきた。
熟睡しているのを確認すると、ライムはそっと立ち上がった。音も立てずに家を出ていく。
彼女が丘の上に到着するのと、巨狼と化したバロンが鹿をくわえて現われたのは、ほぼ同時であった。
バロンは、鹿をそっと地面に置く。ライムはしゃがみ込むと、鋭く伸びた犬歯を鹿の喉元へと突き立てた。
血を飲み終えると、ライムは顔を上げた。寝そべっている巨狼に向かい口を開く。
「ねえ、ロミナを学校に連れて行ってあげなよ。あの子は、学校に行きたがってる」
「ダメダ」
「どうして?」
「ソンナジカンハ、ナイ。オレガ、ヘンシンシテシマウマエニ、アイツヲヤママデ、オクラナケレバナラナイ。イマデスラ、アヤウイトコロナンダ」
そう、ロミナを連れてバーレンに行った場合、帰り道で必ず日が沈む。その時、目覚めたライムが外に出て、山の中でバロンと交代することになるのだ。
もしも学校で時間を取られて、山に入る前に夜を迎えてしまったら、バロンはその場で巨狼へと姿を変えることになる。万が一、その場面を誰かに見られら……もはや、バーレンに入ることは出来なくなるのだ。
それよりも、万が一ロミナに変身を見られたら……。
「そうだね。でもさ、少しくらいなら授業を受けさせることは出来るんじゃない? いざとなれば、ジュリアンだって協力してくれるだろうし」
「キョウリョク? ドウイウコトダ?」
「ロミナを、馬車で山まて送って行ってくれるかもしれないでしょ。そしたら、あたしが連れて行けるし」
「ソンナコトハ、ダメダ。ユルサナイ」
「じゃあ、どうするの? ロミナに、このまま読み書きも教えずにほっとくつもり?」
ライムが語気強く尋ねたが、バロンは不機嫌そうにプイッと横を向いた。
しかし、ライムはその程度では引かなかった。
「ロミナは、いつか帰っていかなきゃならないんだよ。あたしたちとは違うんだ。普通の人間として、生きていかなきゃならないんだよ。その時までに、他の人間たちとの付き合い方を教えてやんなきゃ」
根気強く繰り返す。
実のところ、文字の読み書きや計算くらいなら、ライムても教えられる。だが、学校で得られるものは、それだけではない。
その時、バロンがふんと鼻を鳴らした。
「ワカッタ。ナラバ、アシタハ、ヨウスヲミテミル」
「様子を見る? どういうこと?」
「ロミナヲツレテ、ガッコウトヤラヲ、ノゾイテミル」
言った途端、ライムが巨狼に抱きついた。顔に口づけし、嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。きっと、あの子も喜ぶよ」
「タダシ、ナガイハシナイ。スグニ、カエル。アクマデ、ヨウスミダ」
バロンの声は、いつもとは違っていた。少し照れているようにも見える。
その姿に、ライムはくすりと笑った。
「それでもいいよ」