第三章「こんなモテ期はいやだ」1
気がつくと、もう七月だ。
梅雨はまだ明けちゃいないけど、期末テストも終わったため、気持ちだけはカラっと晴天。
あとは夏休みを待つばかりという、気持ちが浮わつきまくる季節の到来である。
実際のところ、先生に「夏だからって、羽目を外すなよ」なんて言われても、今まではよくわからなかったんだけどな。
夏休みが来たって、一日を過ごす場所が教室から自分の部屋に移動するだけじゃないか、いつもと同じだろ? って思ってた。
けど、今年はちょっとだけ、理解できるような気がする。
いや、決して浮わついてるわけじゃないんだ。おれはまだまだコミュニケーション修行中の身。
後ろの席の奴にプリントを回すとき、いかに自然に「はい」と言いながら渡すか、なんてことを練習しているくらいなのに、正直浮かれる暇はない。
ただ何て言うか……佐山が授業中「夏休み」をテーマに歌ってたり、江見と棚橋が対決合宿をする計画を立ててたりするのを見ると、おれまでそわそわしてきちゃうんだよな。
こういうのは初めてで、こそばゆいような、尻がむずむずするような、変な感じだ。
何だろうな、これ。
「夏と言えば、かき氷だよねー」
放課後、佐山は教科書を鞄にしまいながらそう言った。
いや、教科書を鞄にしまい損ねながら、というのが正解だろうか。
夢見心地な表情で前方の空間を見ているため、佐山の手にした荷物は鞄の遥か上を移動するばかりで、なかなか目指す場所に入らない。
どうやらすでにかき氷の幻覚が見え始めているらしい。これはいち早く、彼女に食物を与えたいところだ。
かき氷、かあ。もうそんな時期なのか。夏と言ってもまだ梅雨時。今日みたいな曇りの日には、寒いと感じることもあるけどなあ。
とか言いつつ、おれと、隣のクラスからやってきた一樹は、佐山のお誘いに二つ返事だった。
味の先導者・佐山逸香が言うならば、きっと今日はかき氷日和なんだろう。そうに違いない。
三人揃って、学校近くのアイスクリーム屋へ繰り出す。
店のガラス戸には、昨日まではなかったかき氷のメニューが貼ってあった。なるほど、佐山は登校時にこれを見て、食べたくてたまらなくなったんだな。
しかしいざ店に入り、どのシロップにするかを選んでいると、佐山は「やっぱり熱いものもおいしそうだよね」などと言い出した。
その目は、店主が今まさに青ノリを振りかけんとしている、熱々のたこ焼きに釘付けだ。
師匠、おれ達はどっちの言葉を信じればいいんだ。生じた混乱は、五秒後にあっさり解消した。
そうか、どっちも信じればいいのか。師匠イズア育ち盛り。おれ達も同じである。
おれと一樹は慎んで、「おいしいものは全部食べましょう」という師匠の格言を拝聴した。たこ焼きは後で一皿買って、皆で分けあえばいいだろう。
おいしいことはいいことだ。
佐山がいつものように、無駄に気合いの入った注文をし、出来上がったカラフルなかき氷に歓声を上げているのを見ていると、ああ、今日も平和だなーと実感する。
以前、ラーメンを食べに行ってからというもの、おれ達三人はよく食べ歩きをするようになっていた。
最初は、「こんなに頻繁に買い食いして、先生に見つからないのか?」と、びくびくしていた小心者のおれだけど、すっかり慣れたもんだ。
今では二人と一緒に、どの店が安くてうまい、なんて情報交換をしながら、そぞろ歩きをしている。
おれ達が今年初のかき氷を堪能しているとき、江見と棚橋も店にやって来た。
おれ達と同じように、ごく普通に小腹を満たしにやって来た……わけではないだろう、絶対。
この二人が向かい合ったなら、対決が始まるに決まっているんだ。
そして二人を遠巻きに眺めているうちに、何故かおれ達も対決に巻き込まれてる。これが一連の流れだ。
当然のようにかき氷を注文した江見と棚橋は、いつものように妙な審判を頼んできた。
「かき氷を食べ過ぎると頭が痛くなるだろ? キーンってさ。で、俺と江見のどっちが大きくキーンとしてるか、流森に見極めてもらいたいんだよ」
棚橋、無理言わないでほしい。「キーン度」なんて、端から見ててわかるわけないだろ。
わかったとしても、そいつが演技をしてる可能性だってあるじゃないか。
つまり、公正な判断をするには、その演技力に騙されない眼力が必要だってことになる。どれだけ難易度の高い審判を要求するんだよ。
両端から頭痛アピールをしてくる江見達の相手だけで手一杯だってのに、知らない間に佐山まで対決に乱入していた。
「今きた! キーンってきたよ!」などと言いつつ、スプーンを振り回している。
いや待て佐山。その見事なリアクションっぷりを検分したいのは山々だが、今は審判で忙しくて、じっくり見る余裕がないんだ。
一樹はと言えば、一歩下がってうまいこと傍観者に徹している。マイペースにかき氷をすくいながら、無責任に面白がっているばかりだ。
「うーん、それだけじゃわかんないよなあ。もう一杯ずつ食べてもらって判断しようか?」
さらに戦渦を広げるなよ。
もう無茶苦茶だ。まあ、「江見の方が五ポイントくらい高いんじゃないかな」なんて真剣に答えてるおれもおれだけどさ。
今回の対決も、もちろん決着がつくことはなく、うやむやのまま終わった。
その後は、予定通りたこ焼きを買って、皆で食べた。江見と棚橋が加わったから分け前が減っちまったけど、まあ良しとする。
帰りには、雨雲は端っこに追いやられ、磨きあげられたような青空が広がっていた。まるで雨雲でぞうきんがけでもしたみたいに、まっさらだ。
空を見ながら歩いていると、無意識に小石を蹴飛ばしてしまったらしい。石は音を立て、リズムよく跳ねていった。
それを佐山が追いかけていって、また蹴飛ばす。「小学生みたいだな」と笑いながら、一樹も後に続く。いつの間にか石蹴り大会が始まったらしい。
軽やかな音が、つながっていく。
その音を聞いてたら、何かわかった気がした。
前に感じた、むずむずする感じ。これが「浮かれる」ってやつなんだ。
「浮かれる」って、一人で勝手にやってるだけじゃないんだな。誰かから伝染することだってある。たった今、このときみたいに。
かき氷を食べ過ぎて口の中が凍えるだの、まだ頭痛がするだの、まだ食い足りない師匠が、今度は大判焼きのポスターを見つめてる、だの。
一個一個はくだらないことで、いいんだな。
くだらないことがちょっとずつ集まって、浮わついた気持ちになるんだな。
中学三年にもなって、石けりに夢中になってる三人。客観的に考えて、どこからどう見ても、しっかり浮かれてるだろう。
おお、すごいぞ。おれも立派に、浮かれた奴の仲間入りを果たしたみたいだ。
佐山と一樹も、おれと同様テンションが上がっているらしく、気づいたら必殺技を唱えながら石を蹴っていた。
「弾丸シュート」や「ハヤブサシュート」ならまだ普通でいいんだけど、「足の小指を蚊に刺されたシュート」って何なんだ、一樹。想像しただけで痛痒いだろ。
佐山の「赤点シュート」も、想像すると恐いものがあった。受験生のおれ達に恐怖を与えるという点では、改心の出来だろう。
おれは蹴りながら技を考える、なんて器用なことができずに、立ち止まってばっかりだったんだけど、二人は「流森くんがすごそうなの考えてるよー」「早く逃げろ」なんて笑いながら、おれの必殺技を待っていた。
技が出るのを待ってもらうってのも変だけど、まあいいか。
熟考した後、とりあえず、「かき氷のシロップで、舌がレインボーになっちまったシュート」を放ってみた。
おれたちの浮かれまくった夏は、現在進行中らしい。
最後に、いらない知識を一つ。今日の対決で、おれは審判のレベルが上がったようだ。店を出るとき、江見と棚橋が認定証をくれたんだ。
認定証って言っても、メモ用紙にペン書きだ。文面は「A級審判に昇格」と書いてあるだけ。
A級ということは、さっきまでのおれはB級審判だったのか? 全然知らなかったぞ。ちなみに、このまま順調に行けば、秋にはS級になれるのだそうだ。
どうやらおれは、世界で一番使えない資格を手にしてしまったらしい。うわ、心底いらねえー。
江見達は塾があるので、認定証をもらってすぐに店の前で別れた。
二人の背中と認定証を微妙な気持ちで見比べていると、佐山が含み笑いで頬を盛り上げながら、おれの目をのぞき込んできた。
「江見くんと棚橋くん、流森くんのこと大好きだねえ」
恐ろしいこと言うなよ、と一瞬思ったけど、佐山は真面目に言っているらしい。「だって流森くんに認定証渡すとき、目がキラッキラしてたよ」本当なのか。やっぱりちょっと恐い。
二人に好かれてる、なんてことあるんだろうか。
審判を頼まれたって、気の利いたジャッジができるわけでもないし、ただ二人のやってることをぼーっと見てるだけって感じなのに。
その辺は疑問だけど、まあ、悪い気はしない。おれは認定証のしわを伸ばすと、折り曲げないようにそっと鞄にしまった。
S級審判でも目指してみるかな。どんな勉強をすればいいか、見当もつかないけど。
携帯の着信音で目が覚めた。
けど、最初は目覚まし時計の音だと勘違いしてしまい、めちゃくちゃ慌てた。
今日は土曜日だからアラームをセットしていない、
ということに気づいた時は、すでに時計の上面を数回ぶっ叩いたあとだった。こいつは無実だったのに、悪いことしたな。
今は午前十時十二分か。
テストが終わって初めての休日だから、昼までは何が何でも寝まくっていよう、という固い決意があったんだけど、早くも邪魔されてしまったみたいだ。
ベッドから這いだすと、カーテンの隙間から射す日差しが顔に当たった。
半分寝ていた頭がいっぺんに覚める。そういや、昨日梅雨明けしたとかテレビで言ってたっけか。夏の日差しは目覚まし時計より効くなあ。
机の前に立ち、すでに鳴り止んでいた携帯を手に取ると、かーちゃんからのメッセージが届いていた。
『一樹くんが来てるよー』
本文はこれだけだが、文の前後には絵文字が満載だ。このメッセージも、語尾の部分に笑顔のマークやら、ハートやらがせわしなく点滅してる。
相変わらず、無口なかーちゃんのイメージとは程遠い。
普段喋らない分、せめて文章だけでも表現力を豊かにしていたいという思いがあるんだろうか。まあ何でもいいけどさ。
このまま返事をせずにいたら、今度は涙マークの入ったメッセージが届きかねない。おれは『わかった』と手早く返信すると、部屋を出た。
それにしても一樹の奴、朝っぱらから何の用だ?
かーちゃんと一樹は、キッチンにいた。
二人向かい合い、仲良くジュースを飲みつつ話している。
話って言っても、喋ってるのは一樹だけだ。そしてかーちゃんは真剣な表情で、一樹の話に相槌を打っている。
「大丈夫ですよ。慎の奴、クラスでもうまくやってますよ」
かーちゃん、ちょっと弱々しい感じで、こっくりうなずく。
「俺だってついてるし」
かーちゃん、両手でコップを握りしめ、さっきよりも大きくうなずく。
うわあ、かーちゃん、さっきから一言も発してない。 しばらく見ていて、おれは居たたまれない気持ちになった。
家じゃ全員が同じような性格のせいか、普段は変とは思わない。
けど、こうして家族がおしゃべりな奴と接してるのを見ると、無口なのが妙に際だってる気がする。見てるだけで無性に恥ずかしい。
この恥ずかしさは、あれかな。かーちゃんの姿が自分自身と重なるからかな。
今は多少ましになったと思いたいけど、他の奴から見たおれって、あんな感じなのかもしれない。
親の背を見て子は育つ、なんて言うけど、おれの場合は、親のふり見て我がふりを直さないといけないのか。
一樹は一樹で、どういう役どころなんだよ。まるで、おちこぼれ生徒の親を安心させようと頑張ってる教師みたいな口ぶりじゃないか。
いやまあ、心配してくれるのはありがたいけどさ、「俺がついてる」も何も、お前同じクラスじゃないだろ。
二人の話がひと段落したようなので、キッチンに顔を出した。片手を上げ、一樹に挨拶する。
奴はおれに、寝ぼすけだとか目が開いてないだとか、軽く嫌味なことを抜かしていたけど、適当に聞き流す。
かーちゃんがちょっとコップを持ち上げ、じっと視線を送ってきた。
意図を察したおれがうなずくと、かーちゃんは素早く席を立ち、自分が飲んでいたのと同じジュースを入れて、おれに手渡してくれた。
そのあと、一樹の隣の椅子をぽんと叩く。これは、さっきの面談の続きに参加しろってことなのか。
先生役の一樹は、おれが友達と弁当を食べているという話をした。
それを聞いたかーちゃんが嬉しそうにうなずいておれを見つめるので、より居たたまれない気分になる。恥ずかしさが最高潮に達したとき、ようやく一樹とおれは部屋に移動することができた。
あ、弁当を食べてる友達ってのは、江見と棚橋のことだ。
最近、昼休みまで対決に付き合わされている。A級審判には、休む暇もないらしい。
時々一樹もやってくるけど、やっぱり参加もしないで、にやにや見てるばっかりなんだよな。要領のいい奴め。
席を立つと、かーちゃんは山のようにお菓子を持たせてくれた。一樹が来てるからって、かーちゃん張り切りすぎ。
一応もらっておくけど、菓子を食うのは程々にしておこう。
このあと「あれ」も食べなきゃいけないからな。