第二章「やっぱり師匠だ」5
驚いて、引き返しかけた足が止まる。
佐山が人に反論するところなんて、初めて聞いた。耳をそばだて、話の続きを待ってみる。
「誤解だよサキちゃん。流森くんは感じ悪くなんてないよ。昨日の五時間目のときだって、笑ってくれたんだから」
「嘘だあ。どうひいき目に見ても、笑顔には見えなかったよ」
「笑ってたよ。私が歌ってたの見て、受けてたもん。流森くん滅多に笑わないから、私びっくりしちゃって、思わず声出ちゃったもん」
え、おれ、笑ってたっけ?
昨日の授業中のことを思い出す。
確かに佐山、おれの顔見て驚いてたけど、まさか理由が「おれの笑顔を見たから」だとは思わなかった。
そんなことで声を出して驚かれるとは、普段の無表情がしのばれるってものだ。うん、わかってたけどさ。
こういう、友達同士の会話のことはよくわからないけど、普通は友達に適当に合わせるものかと思ってた。
「流森は話しにくい奴だ」と友達が言えば、佐山はそれに合わせて「ああ、そうかもねー」なんて答えるんだと思ってた。
そうすることで佐山の人間関係が円滑になるんだったら、多少何か言われてもいいと思ったし、おれが話しにくいのは本当のことだしさ。でも、今……
「流森くんは、いい人だよ!」
合わせるどころか、佐山は友達に向かってめっちゃ言い返してる。
おれの為を思って。必死で。
でも佐山、大丈夫なのかな。友達と言い合っちゃったりしちゃってさ。おれのせいで、友達との関係が悪化するのは嫌だな。
心配になって、さらに話を聞いてみる。すっかり立ち聞き野郎になっちゃったなあ。
最初、友人は佐山の意見に納得できない風な返事をしてたけど、しばらくすると、
「ふうん、そっか。ならいいんだ。逸香が嫌な思いしてないなら」
明るい口調になって言った。
ああ、そうか。友人がおれを睨んだのも、佐山の為を思ってのことだったんだ。
友人は、おれが佐山に対してぞんざいな態度を取っているように見えたから、怒ったんだろう。
二人の言い争いは終わったらしい。授業がどうとか弁当がどうとかっていう、ごく普通の会話に戻っている。
そのうち席を立つ音が聞こえて、おれは慌ててその場を離れた。
やっぱり立ち聞きしてるのがバレるとやばいよな。せっかく佐山がおれを「いい人」って言ってくれたのに、台無しになっちまう。
話を聞いていたのは教室後方の扉付近だったので、おれは前方の扉まで素早く移動し、できるだけ自然な態度を装って教室に入った。
二人に見つからなかったことを確認し、胸をなでおろす。
自分の陰口を言われてる場面に初めて遭遇したけど、おれの思っていたのとは全然違ってたな。拍子抜けしたっていうか。
何だろうな、おれ、世間にはもっと、悪意を持った人間であふれかえってるものだと思い込んでたのかもしれないな。
そう思って身構えてたら、今みたいな場面に出くわしたとき、傷つかないで済みそうだしさ。
しかし現実は、怖い奴ばかりってわけじゃないらしい。
確かに、嫌な人間は本当にいるだろう。
おれ自身からして、とてもいい奴とは言えないし。いつも自分のことばっか考えてるしさ。でも少なくとも、おれが今目にしてる人間は、嫌な奴なんかじゃない。
江見達に放課後のことを断りにくかったのも、嫌な反応が返ってくるって勝手に予想して、身構えてたからだ。実際言ってみなけりゃ、答えなんてわからないのに。
よし、ぐだぐだ考えるのはもうやめだ。
心ん中にぎちぎちに詰まってた、人に対する怖さみたいな気持ちは、ゴミ箱へ華麗にシュートだ。
ついでに、今朝小学生に泣かれそうになってヘコんだことも、そっと一緒に投げ入れておこう。
反応なんて気にするな。もし、もう一回くらいヘコむようなことがあったって、大丈夫だ。
おれには、おれのために必死になってくれる友達がいるんだから。
江見と棚橋はもう自分の席に戻っていた。おれは意を決して、二人の元に歩み寄る。
途中、机の足にひっかかって転びそうになったけど、何とか体勢を立て直し、一直線に二人の元に向かう。
「あれ、どうしたんだ? 流森。怖い顔して」
おれに背を向けて座っていた江見が、振り返った途端に言った。やっぱり顔、怖そうに見えるのか……。
自分の顔に触ってみたけど、どうすれば好感の持てる表情になるのか、さっぱりわからなかった。すでに家の布団に逃げ込みたくなったけど、今はぐっと我慢だ。
「謝ることがある」
おれはそう切り出し、江見と棚橋に今日の放課後付き合えないことを伝えた。
これだけだとすんなり言えたみたいだけど、実際は何度もつっかえ要領も悪く、聞き取りにくい話しかたになってしまった。
二人は「ええー」、「まじかよ」と大ブーイングだ。おれは最後にもう一度謝ると、頭を下げた。
そうか、おれってこういう反応が来ることを恐れてたんだ。
けど、実際浴びてみるとたいしたことないな。いやまあ、退避用の布団が今すぐ欲しいってことには変わりないんだけどさ。
「何でだよー」当然、二人は不満そうな顔をしている。あ、そうか。理由も話した方が、理解を得られるかな。
「おれ、動物アレルギーなんだ。動物のそばに行くと、色々と見苦しい症状が出るかもしれない」
文句の大合唱、もしくは輪唱をしていた二人の声が、ぴたりと止んだ。
「ああ、それは……大変なんだな。いとこが猫の毛のアレルギーだけど、ひどいときは涙が止まらなくなって、辛いって言ってた」
棚橋は眉を下げ、同情するような顔になった。いとこを思い出しているんだろう。江見もその話を聞いて、何となくわかってくれたらしい。
「わかった。しょうがないもんな」
と、納得してくれた。
ここで話を終わりにしても良かったんだろう。けど、もう少し何か言わなきゃいけないような気がした。
「ごめん。おれも、本当は行きたかった。犬とか猫とか見るの好きだから、生で見たかったし、江見と棚橋がやってること、面白そうだったから。残念だ」
やっぱりつっかえながらだけど、真面目に気持ちを伝えてみた。二人は、今度は何も突っ込まず、黙って聞いてくれている。
言い終わって恐る恐る顔を上げると、二人は怒ってなんかなかった。それどころか、笑っていた。
「そっかー、動物好きなのに近寄れないって、辛いよなあ。しょうがない、おれの秘蔵の画像をやろう」
江見が携帯でおれの腕をつつき、連絡先を教えろと急かす。棚橋も反対側の腕を攻撃してきた。
わけがわからないながらも携帯を取り出し、とりあえず教える。
すると速攻で、先日見せてもらった子犬子猫の写メがおれに送られてきた。
え、この前は「軽々しくやらん」って言ってたのに、本当にくれんの? おお、マジで嬉しい。やっぱりこの毛玉達、超絶可愛いな。
「また対決でどっか行くかもしれないから付き合えよ。ただし、ペットショップ以外な」
「今日の結果、また教えるからなー」
二人は口々に言うと、おかしな笑い方をしながらどこかへ行ってしまった。気のせいか、テンションが高い。ひょっとして照れくさかったのか?
ぽつんと一人取り残され、考えてからようやく気づく。
そうか、おれの言いたいこと、伝わったのか。対決が面倒で断ったんじゃなくて、本当は皆と行きたかったってこと。
精一杯伝えようって思ったら、ちゃんと伝わったんだ。
「流森くん、ごめんね」
自分の席で、もらった写メを眺めて癒されていたとき、同じく席に戻ってきた佐山に話しかけられた。
声が沈んでるなあと思いつつ顔を上げると、表情はもっと沈んでいた。『しょんぼり』とはこういうことだ、ってお手本にできるくらいの完璧な落ち込みぶりだ。
いや、お手本にされても佐山は嬉しくないだろうけど。
「何で謝るんだ?」
とりあえず訊いてみると、佐山は両手の指を知恵の輪のように絡ませながら、理由を語り始めた。
「廊下で江見くんと棚橋くんに聞いたんだ。流森くん、アレルギーがあるからペットショップに行けないって。流森くんは好きな動物を近くで見られないのに、私、放課後楽しみだなあ、なんて言ってはしゃいじゃった。流森くんの気持ちも考えないで、無神経だったなって」
「え、佐山が気にすることじゃないだろ」
おれは首を傾げた。この件に関して、佐山には非なんて全然ないもんな。
そこまで周りの人間の気持ちを思いやってたら、とても身が持たない気がするぞ。おれだったら胃痛で倒れそうだ。
「そう、かな? でもやっぱり、すみませんでしたー!」
もじもじした態度から一変、佐山は勢いよく頭を下げた。
「おれは気にしてないから。頭を上げてくれ」
これ以上謝られると、くすぐったい気持ちになるからやめてほしい。
まるで、普段はその辺の床に放ったらかして自分でも忘れてたようなものを、丁寧に拾い上げられ、大事に手入れしてもらった、みたいな。わかりにくいけどそんな感じがするんだよ。
「あのね、もしペットショップの人がいいって言ってくれたら、可愛いワンちゃんと猫ちゃんの写真、いっぱい撮ってくるからね」
頭を上げた佐山は、今度はにっこり笑って、そう約束してくれた。
ああもう、佐山って本当に人がいい。まあいいことだけどさ。おれだってさっき、彼女のそういうところに助けられたわけだし。
何て言うんだろ。表向きは良く食べ良く笑い、大雑把そうに見せといて……実はピュアな人なんだよなあ、佐山。
「佐山って、優しいよな」
さすがに『ピュア』なんて単語を口に出すのは恥ずかしかったので、ちょっと言葉を変えて言ってみた。
「……えっ?」
すると、佐山は驚いた顔のまま、動かなくなった。
妙なのは、動かないのに顔の色だけがどんどん赤くなっていくってことだ。顔から湯気が出てきたらどうしよう、と思った辺りで、佐山は大声を出した。
「ええ、そんな、優しいって、えええー?」
実際には、他にもよくわからない言葉を織り交ぜつつ、佐山はものすごい速さで後ずさった。
相変わらず、おれの動体視力では追跡不可能な動きだ。スーパーリアクション半端ねえ。
それにしても、何でこんなに驚くんだろうな。思ったことをそのまま言っただけなのに。
呑気に感心できたのはここまでだった。
佐山が勢いよく後ずりすぎて、机の角に手の甲を激しくぶつけてしまったのだ。同時に、ごつっという鈍い音が聞こえた。
「い、ったあ……」
佐山は息が詰まったような声を出し、ぶつけた手を抱え込んだ。うわ、これは痛そうだ。
いつもなら「へへ、やっちゃった」なんて頭を掻きつつすぐ復活するのに、今の佐山は目をぎゅっと閉じたまま動かない。
まさか、骨にヒビとか入ってないだろうな?
実際には、こんなことを考える暇はなかった。
その前に、おれは自分でも信じられないような行動に出ていた。
「大丈夫か」
無意識に佐山の手を取り、怪我の具合を調べ始めていた。
よく考えたら、医者でも看護師でもないおれが見たところで、判断できるわけないのに。
「動かせるか? 変なとこないか」
見た感じ、ぶつけたところが少し赤くなっているだけで、ひどくはなさそうだけど……
「うん、一瞬ものすごく痛かったけど、大丈夫みたい」
言いつつ、佐山は手を握っては広げてを繰り返し、普通に動かせることを確認した。うん、どうやら異常はないみたいだな。
ほっとしている佐山の顔が、やけに近くにあることに気づき、おれはようやく我に返った。
あれ、何でおれ、いきなり手とか掴んじゃってんの。
もしかしてセクハラとか言われちゃうのか、これ? うわああどうしよう。そんなことになったら、おれもう学校来れないぞ。
とりあえず佐山の手を離したものの、もう焦っちまってどうすればいいかわからず、手を所在なく上げたままだ。
そんなおれを、佐山がいたずらっぽい目で覗き込んだ。
「流森くん、困ると固まるって言ってたのに、今、すっごく素早かったよね」
そう言えば考える前に動いてたな。誰かがおれを操ってた、って言われても納得しちゃいそうなくらい。
「……ごめん。おれ、余計なことして……」
手を触ってすいません、とは言えず、おれはごにょごにょと言葉を濁した。
「あ、ううん、心配してくれて嬉しかったよ。ありがとう、流森くん」
佐山は首を振って、笑ってくれた。
いつもの顔一杯の笑顔に戻ってる。もう手は痛まないみたいで良かった。セクハラで訴えられることはなさそうで、その面でも非常に良かった。
今日はおれにとって、色々大変な日だったな。
机をなでながら「思い切り叩いてごめんね」と謝っている佐山を見ながら、ぼんやり考える。
ペットショップのことでは悩みまくったけど、ちゃんと江見達と話すことができて一安心だ。二人とちょっと仲良くなれた気もするし。
おまけにさっきの、あれだ。
予期しないことが起これば即銅像になってたおれが、咄嗟に動くことができるなんて、すごいことなんじゃないかな。いやまあ、結果的には余計なお世話だったんだけどさ。
これってどっちも、佐山のおかげかもな。
「やっぱり師匠だ」
佐山に聞こえないよう小さい声で呟く。口元が緩んでくるのが、自分でもわかった。