第二章「やっぱり師匠だ」3
胃袋をラーメンで満たしたおれ達は、運動がてらその辺をぶらぶらして行こう、ということになった。
左に曲がると児童公園、右に曲がるとゲームセンターがある。
どっちに行ってもいいんだけど、どうしようかなー、とゆるーく相談しているとき、おれは店での会話を思い出した。
確か、佐山は本を返すって言ってなかったっけ……
「佐山、図書館寄ってくんじゃなかった?」
疑問をそのままぶつけてみると、佐山は口を「あ」の形に開け、ぐるんとこちらに振り向いた。
「そうだ、忘れてた! ありがと流森くん、思い出させてくれて!」
佐山はおれに向かって両手を合わせ、ものすごい勢いで拝み始めた。いつもながら、何というオーバーリアクション。
拝み終わって顔を上げた佐山は、おれと目が合うとすぐにうつむき、口元にちょっとだけ笑顔を浮かべた。そして彼女らしくない細い声で、
「やっぱり流森くん、話、聞いててくれた」
ぽつりと言うと、前を向いて歩き出してしまった。
あんまり小さな声だったから、おれは佐山の反応の意味がわからず、しばらく考え込んでいた。
言葉の意味からいっても、別に怒ってる訳じゃないよな。歩き方だって軽やかで、今にもスキップを始めそうだし。
もしかして、おれが話を覚えていたことが嬉しかったのかな、佐山。
『話、聞いててくれた』
頭の中で佐山の言葉を繰り返す。たったそれだけのことで、喜んでくれるもんなのか? ほんの些細なことなのに。
些細なことと思いつつ、こっちまで口元がゆるんでくるから変だ。
人と会話するって、やっぱり変で、面白い。
言葉だけじゃなくて、相手の反応で、自分の気持ちが変化する、なんてことがあるんだもんな。
くせのある髪を揺らしながら歩く佐山を見ていると、更に不思議な気分になってきた。
そうか、いつもなら、遊びに行くのは一樹と二人だけど、今日は三人なんだ。
しかも、もっと妙なのは、あれだ。
普段あんまり意識しないけど、佐山が女子ってことだ。放課後に女子と遊びに行くなんて、ひと月前の自分からは考えられない。
自分とは無関係な世界に生きてるもんだとばっかり思ってたぞ、女子って。一体全体どうなってるんだ。自分でもわけがわからない。
まあ男か女かは置いとくとして。複数の人間と行動するのって、正直しんどいよなあ。
顔の筋肉は倍疲れるし、しゃべり慣れないせいであごもだるいし。
けど、のびちまったラーメンが結構おいしいと感じたのと同じように、こういうしんどさも悪くないかも、って気持ちがある。
とりあえず、人付き合いでもラーメンでも、目の前に出てきたものは全部味わってみるべきなのかもな。なんて、ちらっと思った。
図書館に入った途端、佐山は「そうだ」と短く呟くと、片手を口にぴったりと当て、静かになった。
咳を我慢しているわけではないらしい。
この間図書館に来たとき騒いでしまい、注意されてしまったことを思い出したのだそうだ。
「今日はおとなしくしてなくちゃね」佐山の手の下から、もごもごと声がする。
確かに佐山は普段から賑やかだけど、場所もわきまえず騒がしくするタイプには見えないんだけどなあ。
おれと一樹が疑問のまなざしを向けているのに気づいたのか、佐山は「騒いだ」理由を語ってくれた。もちろん小声で。
「この間、良さそうな料理の本を見つけてね。借りようかどうか、ぱらぱら見てたんだけど、なんかすごく面白くて、思わず大笑いしちゃったんだよー。周りの人達には心配そうな顔で見られちゃうし、図書館の人には注意されちゃうし、本当、恥ずかしかったなあ」
床に靴の先で文字らしきものを書きつつ、佐山はうなだれた。
ふうん、大変だったんだな。佐山の笑い声は教室でもよく通るから、静かな図書館内ではさぞかし響いたことだろう。
ところで、その本に興味がわいてきたんだけど。思わず爆笑するほど面白い料理の本って、どういうものなんだ?
「ほうほう。で、その問題の本はどこにあるの?」
一樹もおれと同じ考えだったようだ。きらりと輝かせた目を、料理の本がある辺りに向けている。
「ま、まさか見に行く気? 駄目だよ、素人がうかつに開いていい本じゃないよ。本当に本当に、すごいんだよ」
佐山は両手を大きく振り、おれと一樹を本のある場所に行かせないようにしていた。
しかし逆効果。それほどすごい本なのかと、ますます見てみたくなっちまうって寸法だ。人には、無茶をしたくなる時期があるってことだろう。多分。
佐山も、最初は本気でおれ達を止めにかかっていたけど、本の面白さを皆で分かち合いたい、って気持ちには抗えなかったらしい。おずおずと、棚から当の本を抜き出した。
本を手にしたおれたちは、静かに閲覧室の隅へと移動した。三方を書棚と壁に囲まれた、薄暗い場所だ。
万が一誰かが笑ってしまっても、人がいないこの場所なら、被害を最小限に抑えられそうだからだ。
三人固まり頭を突き合わせ、まずは表紙をじっくり眺める。
表紙を見る分には、ごく普通の料理の本だ。
しかしおれ達が、腹筋を震わせるほどの地獄を味わったのは、ページを開いてからだった。
その本は、料理の作り方を可愛いキャラクターが説明していく、という構成なんだけど、キャラの見た目がすでに変だった。
人間なのか動物なのか、果ては地球外の生物なのかも判別できないんだ。
更に語り口調で、そいつの変さは確たるものになった。
語尾が「ぷるぷる」ってなんだよ。キャラがいちいち「ぷるぷる」言ってるせいで、作り方なんか全く頭に入らないぞ。
結論。これは料理の本ではない。図書館利用者の腹筋を痛めつけるため、誰かが仕込んだ非道な罠だ。
まともな表紙に油断していた分、おれと一樹の苦しさは半端なかった。
免疫があるはずの佐山さえ、おかしさがよみがえってきたのか、肩を震わせ、必死に口を押さえている。
二度も注意されては、佐山が図書館に来づらいだろうと、おれ達は必死で我慢した。限界まで耐えた。吹き出すのを我慢することがこんなに辛いなんて、十五年生きてきて初めて知ったよ。
こうなってはもう、本を借りるどころではない。
何とか本を元の場所に返し、息も絶え絶えといった様子で外に出たとき、おれ達はフルマラソンを走り終えたかのように疲れていた。
「本当、すごかったよな……何だろうな、ぷるぷるって」
思わず呟くと、一樹と佐山が一斉に吹き出した。
「やめろよ慎! あの変な生き物、思い出しちゃっただろ!」
「駄目だあ、頭の中からぷるぷるが消えないよー」
しまった、二次災害を引き起こしてしまった。二人は「ぷるぷる」に文句をつける合間に爆笑している。器用だな。
おれももちろん、二人と同じように笑ってる……つもりだった。けど一樹が言うには、おかしがってる風には全然見えないらしい。良くて、少しニヤリとしてる程度だそうだ。
ああうん、わかってたよ。佐山先生に師事したところで、すぐ表情豊かになれるわけないよな。わかってたんだけど、また一人だけ大縄跳びに入り損ねたみたいで、ちょっと寂しい。
まだまだ修行が足りないな。腹筋より、頬の筋肉を鍛えたいところだ。
しかし意外なことに、そんなおれを、佐山は大いにうらやましがっていた。
「授業中に話しててさ、何かがツボに入っちゃって、笑っちゃうときってあるじゃない? そういうとき、流森くんみたいにクールにやり過ごせたら、先生に見つからなくていいよねえ」
考えたことがなかった。おれの無表情に、利点なんてあったのか? 今まで授業中のひそひそ話には縁がなかったから、気づかなかったな。
「慎ってさ、ポーカーフェイスみたいだけど、結構態度には出てるよ。困ったことがあったら、よくフリーズしてるもんな」
一樹がいつものにやにや顔で、水を差してきた。せっかくクールキャラになりかけてたのに、台無しだ。
「そっか、困ると固まるのかー。でも外からは、深いことを考えてるみたいに見えるよ。いいなあー、私なんか考え事してても、『お腹すいたの?』って聞かれちゃうもん」
佐山は大げさにしょげて見せた。けどその五秒後には起き上がりこぼしのように顔を上げ、白い歯を見せた。
「まあ本当に、お腹がすいてることが多いんだけどね」
「じゃあ、当たってるんじゃん」
「なんだ」
一樹とほぼ同時に声が出た。このおれも、とうとうツッコミというものができるようになったみたいだ。これは嬉しいぞ。
おれがこっそりと感慨にふけっている間に、話はさっきの料理本のことに変わっていた。
「あの本のこと、秘密だよ? もし学校で話したりしたら、私また、笑いが止まらなくなっちゃうから。絶対、ぷるぷるとか言っちゃ、駄目だ……よ」
佐山、もうその単語を言うのはやめておけ。腹筋の痛みが増すだけだ。
おれたちも「ぷるぷる」の恐ろしさは十分に味わったので、反対する理由なんてない。本のことを他の人には言わないと誓った。
「わかった。秘密な」
この、秘密、って言葉、実際言うとすごい威力だな。
言った後しばらく、口のどこかにくすぐったい感触が残る。
今まで「秘密」なんて言ったことあったっけ? 何気に初めてのような気がする。
居心地の悪いような、逆に、何度でも繰り返したいような、妙な気分。これが友達同士の会話って奴なのかって思うと、なんか恥ずかしい。
けど、ラーメン屋に行く前よりも、もっと結束が深まったように思えて、嬉しかった。
おれの気のせいじゃないことを、祈るとしよう。
図書館での興奮が冷めやらないまま、街中を歩いていたとき、突然、佐山が立ち止まった。すぐ後ろにいたおれも、彼女にぶつからないよう慌てて止まる。
佐山の視線は、道路を挟んで向かい側の歩道に釘付けになっていた。
そこにいるのは、数人で歩いている他校の生徒だ。確かあれは、私立の女子校じゃなかったっけ。見るからにお嬢様っぽい雰囲気の制服を着ている。
佐山は彼女たちの中に、何かを探すような視線を送っていた。
「どうかした? 佐山」
声をかけると、佐山は驚き、肩をぴくりと跳ねさせた。
「ううん、何でもないの。友達に似てるなーって思って」
「友達?」
「うん、ほら、この前言った、流森くんに雰囲気が似てる感じの……」
ああ、言ってたな。寡黙な女子のこと。
「でも人違いだったみたい。じゃ、行こっか」
さりげない風に、佐山は再び歩きだした。けど、どことなく、がっかりしてるように見える。テンションも下がり気味だ。さっきと比べて、明らかに歩幅が狭くなってる。
寡黙な友達と、何かあったのかな。ふと考えたけど、佐山には訊ねなかった。個人の領域に立ち入る、なんてのは、おれにはまだまだ難しすぎる。
普段は明るい佐山も、何かを抱えて思い悩むことがあるかもしれない。
まあ普通に生きてりゃ、人には見せない部分だって、そりゃ、あるだろう。理屈ではわかってる。けど、これまでまともに人と向き合ってこなかったせいか、佐山の違った面を見たことは、おれには驚くべきことだった。
とは言え、考えていたのは一瞬だ。新たな話題に移ると、さっきの佐山のことは頭の奥にしまい込まれてしまった。
ちなみに新たな話題っていうのが、今日の五時間目、佐山がノリノリで演奏していた「ラーメン楽しみだな」の歌のことだ。授業中に、フルコーラス分の歌詞を作成していたらしい。
歌詞を書き留めたメモ用紙を見せてもらったが、かなりの力作だ。
力作すぎて、おれたちはまた笑いをこらえなければならず、すれ違う人にいぶかしがられながら帰る羽目になったんだ。