第一章「まあ、いいか」3
悩みっていうよりは、微妙に困ってると言うべきだろうか。
アンケート用紙は空白なのに、手にしたシャーペンを少しも動かせないでいた。全然集中できない。
ぶっちゃけると、腹が痛い。
黒板の上にある時計を見る。すがるように目で秒針を追っても、進みは速くなってはくれない。それどころか、体感時間はどんどん長くなっていくような気がする。
嘘だろ、あと二十分もあるのかよ。おれは絶望的な気持ちで、自分の胃腸を必死になだめすかしていた。
これってどう考えても、さっき食べた『よくばりハムサンド』のせいだよなあ。
普通に食べればおいしいものを、賞味期限を何日も過ぎるまで、気温の高い場所に置いといたのが良くなかった。
もうすぐ梅雨の季節だってのに、うかつにも程がある。しかも、何で食べたときに気づかないんだよ。ああもう、くだらない考えごとばっかしてたからだ。
苦し紛れに反省をしたところで、腹の痛みが緩和するわけでもない。下腹はそんなおれに抗議するかのように、きゅるきゅると音を立てていた。
五時間目が終わるまで、持ちこたえられるんだろうか。
まあ、幸いなことに、一分一秒を争うほど緊急を要する状態ではなさそうだけど……クラス中の人間が暖かい眼差しで見守る中、トイレへと駆け出すってのは、できれば避けたいところだ。
もうちょっと頑張れ、おれの腸。おれの精神力。
あと十九分。必死で腹から意識を逸らそうとしているとき、目の前に、いきなり手が現れた。
その手は紙片を置き、すぐに引っ込む。紙は端に可愛いクマか何かの絵が書いてある、メモ用紙みたいだった。
『大丈夫? お腹痛い?』
メモを置いた人物を見る。やっぱり、佐山逸香だった。心配そうに眉を下げ、問いかけるように首を傾げている。
えっ、佐山、どうしてわかったんだ?
普通の奴なら、具合が悪ければ、仕草や表情ですぐわかるかもしれない。しかし、相手はこのおれだ。具合が悪くても、気づいてくれることは全くと言っていいほど、ない。もちろん決して隠そうとしてるわけじゃない。ただわかってもらえないんだ。
おれは衝撃のあまり、女子に腹痛を知られて恥ずかしい、なんて気持ちをどっかに飛ばしてしまっていた。だからごくごく素直に、佐山にうなずいてみせた。
佐山はきゅっと唇を引き結んでから小さくうなずき返した。そして先生に向かって手をあげた。
「先生、流森くん、頭が痛いみたいです。保健室に付き添ってもいいですか?」
あれ、何で頭? 一瞬悩んだけど、すぐにわかった。佐山はおれが恥ずかしい思いをしないように、気を使ってくれているんだ。
先生はおれに顔を近づけた。目は何だか不審げだ。
「流森、本当か? 何か、普段と全然変わらんように見えるけど」
ああ、うん、わかってたよ。それが普通の反応だよな。でも具合悪いのは嘘じゃないぞ。頭じゃなくて、腹だけど。おれは信じてもらうため、必死に返事を絞り出した。
「は、はい。ちょっと……」
「おお、声が変だな」
佐山が心配そうな様子をしていることもあり、先生に信用してもらえたらしい。
「わかった。佐山、連れてってやれ」
「はい、わかりました」
先生の言葉を受け、佐山が素早く席を立つ。おれもへろへろと立ち上がり、二人で教室を出た。
しばらく無言で廊下を歩いていたけど、教室から離れた場所まで行くと、佐山は小声でささやいた。
「私、適当にぶらついてから教室戻るね。流森くんは保健室で寝てますって、先生に伝えとくから」
佐山の好意をありがたく受け取り、おれはトイレへと急いだ。
五時間目が終わる頃には、身も心もすっきりと軽くなっていた。
ああ、腹が痛くない状態って、こんなにも素晴らしいことだったのか! 気のせいか、目に映る景色が明るく見える。おれは生まれ変わったような心持ちで教室に戻った。
「流森くん、大丈夫? もう痛くない?」
自分の席にいた佐山が、こっそりとおれに話しかけてきた。
普段は大声でしゃべってるのに、今は聞き取れないくらい小さな声だ。さっきの「頭痛」と同じように、周りにバレないよう、気を遣ってくれているんだろう。
親身になってくれる佐山を見て、おれは彼女に対する感想を訂正することにした。
佐山、能天気とか思ってごめん。
何も考えてないかも、とか疑ってごめん。おれが間違ってた。佐山は誰も気づかないようなおれの不調に気づいてくれ、なおかつフォローまでしてくれた。
このまま、黙っているわけにはいかない。
口下手だから、なんて言い訳をして、無言で済ますわけにはいかない。ここでちゃんとお礼を言わなければ、ただの最低野郎になってしまう。
おれは言うべき言葉を頭の中でシミュレーションし、何度か大きく呼吸をしてから、ようやく話すことができた。
「大丈夫。ありがとう。助かった」
「よかったねえ」
佐山は顔いっぱいに笑みを広げ、安心した様子を見せた。
そのとき、なぜか佐山がおれの話の続きを待ってくれているように思えた。だからおれは、もうちょっと続けてしゃべってみよう、という気になった。
こんなの、普段ならありえない。心身のすっきり感も手伝っていたのかもしれない。
「その、何でわかったんだ? 腹が痛いって。おれ、顔に出ないのに。さっきのなら、親でも気づいてなかった、と思う」
佐山は左に首を傾け、さらに右に傾けて、深く悩む様子を見せた。
「え、そうなの? どうしてだろ。流森くんに似た友達がいるからかな?」
似てる友達?
「うん、その子は女の子なんだけどね、やっぱり、流森くんみたいに寡黙な感じなんだよー」
おれの問いかけるような目線に気づいたのか、佐山は説明をしてくれた。
寡黙か……おれの無口無表情をかっこ良く解釈すれば、そうなるのか。今度からこっそりと、自分のことを寡黙な奴だと思っていることにしよう。
「それから、もう一つ。どうして、おれに構ってくれるんだ。おれ、何にもしゃべらないし、つまらないだろ」
こんなに長いセリフ、一樹以外の奴にしゃべったことない。おれは一生分の気合いを使い果たしたような気がした。……疲れた。
早口すぎただろうか。ぼそぼそ言ってたから、聞こえなかったかな。そんな心配をし始めたころ、佐山はゆっくりと首を振った。
「ううん、つまらないなんてことないよ。外側に見せてるものだけが、その人の世界じゃないと思うから」
……? あまり理解できてないおれに、佐山はさらに言葉を重ねる。
「しゃべらなくても、心の内側には色々なものが詰まってるから、だから無口な人でも、この人はこういう人、って判断はすぐにできないかなあ……えっとごめん、上手く言いたいことがまとめられなかった」
佐山は自分の癖毛を引っぱりつつ、えへへと笑って締めくくった。
「いや、わかった……と思う。たぶん」
わかった気になってるだけかもしれないけど。要は無口な奴もおしゃべりなやつも、同等に接する、ってことでいいのかな。
話を聞いてると、佐山がさらにすごい奴に思えてきた。
おれが小さい水槽の中でびくびくしてるのとは違う。見てるところが自分の中だけじゃないんだ。もっと広いところ、色々な人を見てる。自分と違う人間を否定したりしないで、受け入れてる。視野が広いってことなのか。
それって、普通の人なら当たり前のことかもしれない。でもおれは、そんな人間がいること、知らなかった。佐山が話しかけてきてくれるまで、知らなかった。
照れ笑いをしている佐山を見つつ、おれは不思議な気持ちになっていた。これって、何て言うのかな。……感動? ちょっと大げさか。けど、間違っていないような気もする。
今まで、人と接することに嫌なイメージしかもってなかった。あとで失敗したかもって落ち込むばっかだし。とにかく気持ちがマイナス方面に動きまくる。
でも人と話すことで、いいほうに気持ちが動くときも、あるんだ。
「あれあれ、慎、佐山さんと仲良くなっちゃったの?」
放課後、ホームルームが終わると同時に、うすっぺらい鞄を振り回しつつ、一樹がやって来た。
「あ、元原くん」
近くにいた佐山は、即座に一樹の名前を呼んだ。そうか、二人は一年の時同じクラスだったんだっけな。
「そうそう、さっき流森くんとね、パン屋さんの話で盛り上がってたんだよー」
「それって『ワカミヤ』? 慎、今日も行くんだろ? 近所だからって、通いすぎだよな」
一樹がやれやれ、と言いたげに横目でおれを見た。何だよ、お前だって結局、一緒に行くくせに。
「えええー! 本当? 流森くん、近所なの? うわあ、うらやましい。じゃあさじゃあさ、私も一緒に行ってもいい?」
佐山はこれだけのことを言う間に、驚いて大きく飛びすさり、両手を振り回して、瞳を輝かせていた。
……五時間目とは打って変わって、激しすぎるリアクションだ。これが佐山の本来の実力か。おれは感心するとともに、反応の仕方を勉強させてもらおうと、じっと観察していた。動きが早すぎて、時々目がついていかないけど。
「おー、じゃあ行こうぜ、いいよな、慎」
おれの代わりに、一樹がさらっと答えている。何だ何だ、勝手に話が進行してるぞ。だけどまあ、もちろん反対ってわけじゃない。おれは佐山にうなずき、一緒でもいいという意見を表してみせた。
佐山の近くを歩いてると、友達からの「バイバイ」攻撃がひっきりなしだ。彼女もそのたび陽気に返す。本当に彼女の周りは騒がしいな。
「まあ、いいか」
思わずつぶやいてしまって、自分でおかしくなってしまう。さっきも同じようなこと言ってたもんな、おれ。
何がおかしいかって、言ってる言葉は同じなのに、気持ちがさっきとは全然違うってことだ。百八十度変わってる。昼のときは、人付き合いの苦手な自分でいいやってあきらめてる気分だったんだ。けど、今は……
今の「まあ、いいか」には、これから始まる騒がしい日々も、割といいかもしれないっていう期待が混じってる。そんな気がするんだ。
「早く行こー、流森くん」
佐山が手を振っている。一樹はにやにやとこっちを見てる。
おれは新たな「まあ、いいか」を口の中で何度か転がし、佐山と一樹のあとを追いかけた。