第一章「まあ、いいか」2
へらへら笑い続ける一樹を教室から追い出したころ、始業のチャイムが鳴った。五時間目は、ロングホームルームだ。
この時間は、テーマを出し合って討論会をしたり、大掃除をしたり、まあ、勉強以外の事をする。今日は席替えをするらしい。委員長自作のくじが教卓に置かれ、各自引いていくことになった。
周りの人間はそりゃもう大騒ぎだ。友達や好きな奴と隣同士になりたいのか、席番号を書いたくじを誰かが引くたびに、喜び、もしくは悲しみの声を上げている。
この狭い教室に一日いるだけで、人間の喜怒哀楽を一通り見ることができる。そう考えると何だかすごいよなあ。おれ以外の人間の、だけどさ。
皆、何でこんなことで浮き足立てるんだろうな。ちょっと理解しがたい。席なんて、どこになろうと一緒だろ?
そうだよ、どうせおれには仲のいい奴も好きな奴もいないんだから、仕方がないだろ。うん、何となく、心の内の自分に言い訳してみた。
おれの席は、窓側から三列目、後ろから二番目になったようだ。席はどこでもいい、なんてさっき思ったけど、やっぱり教卓の真ん前なんかは避けたかったので、とりあえずホッとする。
黒板に書いてある席番号と、手元のくじを見比べながら新しい席に荷物を置く。すると、超弾んだ声であいさつをしてくる女子がいた。
「今日からお隣だね。よろしく、流森くん!」
佐山逸香だった。
さっき噂話をしていた対象から声をかけられたので、少なからず驚いた。
もっと驚いたのは、佐山がさっき友達に向けていたのと同じような笑顔をしていたことだ。仲良くない奴に対してもこんな風に笑えるなんて、こいつはかなりの手練れだ。
佐山を間近で見るのは初めてだった。あらためて見ていると、身長は高くなく低くもなく、ごく普通の体型だ。いつもクラスの中心にいて存在感があるせいなのか、もっと大柄なのかと思ってた。意外だ。
彼女の飾り気のない表情は、一樹よりもさらに万人に好まれそうだ。表情だけじゃなく、全体的に素のままって感じに見える。
例えば、髪だ。襟足は短いけどかなりボリュームのある髪は、耳の横で好き勝手にはねている。まるで本人の性格を表してるみたいに、元気がいい。
おれの髪はどっちかって言うとくせもなく、頼りなく垂れ下がってる、って感じだから、正反対だ。佐山とおれに関しては、髪は体を表すと言ったところか。
ここまで考えてやっと、佐山のあいさつにまだ答えていないことに気づいた。しかも不躾に、相手をじろじろと眺め回している。
しまった、どうやら席替え初日にして、佐山の良き隣人になり損ねたらしい。次に席替えをするまでの数カ月、おれは佐山に「何か嫌な感じの奴」と思われるか、もしくはただの空気として扱われることだろう。
ところが佐山は、おれの予想を遥かに上回る奴だった。
「ねえねえ、流森くんがさっき食べてたの、『ワカミヤ』のパンだよね」
おれの無反応を全く気にせず、新しい話題を振ってきている。どういうことなんだ。
確かに、おれが食べてたのはベーカリーショップ『ワカミヤ』で買ったパンだった。店が家のすぐ近所にあるから、よくぶらぶらと買いに行く。
「あそこのパン、おいしいよね! 私も好きなんだよー」
うきうきした気分を隠しきれない、って感じで、佐山は一人うなずいている。
こんな人間、初めてだ。
おれが意表を突かれまくってぽかんとしている間に、佐山は『ワカミヤ』のパンがいかにおいしいかを語っていた。どうやらネタじゃなく、本当にそこのパンが好きらしい。
うん、まあ、おれもこの店のハムサンドは結構好きだ。さっきは考えながら食べてたから、ちゃんと味わえなかったんだけどさ。
佐山のパン話をしばらく聞いてから、おれは初めてリアクションをすることができた。って言っても、ほんのちょっと首を縦に振ってみせただけだったんだけど。これは、『おれもハムサンドはかなりおいしいと思う』と言う意味だ。
「やっぱり流森くんも、『よくばりハムサンド』好きなんだ!」
おお、すごい。おれの意図がちゃんと伝わってる。
「ハム自体もおいしいけどさ、あのピリッとした味付けもたまらないよね。うわあどうしよ、お腹すいてきちゃったよ」
腹をさすりつつ、佐山は足をじたじたと小さく動かした。そしておれをちらりと見て、
「へへ、さっきお昼食べたばっかりなのに、何言ってんだろうね」
恥ずかしそうに笑って、首をすくめて見せた。おれの感心している眼差しを、呆れているのだと受け取ったらしい。
すごいなこれ、一体どうなってんだ? パン一つの話で、こんなに盛り上がれるもんなのか。
「よーし、明日は私も『よくばりハムサンド』買うから! 絶対決めたからね!」
佐山はぎゅっと握りこぶしを作り、力強く宣言した。すっかり気圧され、おれはうなずくしかない。佐山も嬉しそうにうなずいた。
あれ、これって、端から見れば、何となく楽しげにコミュニケーションできてるっぽくないか? 実際は、おれ何にもしてないけど。
リアクション下手のおれを相手に笑顔で話し続けるって、かなりすごいだろこれ。昼の妄想ネタじゃないけど、彼女のほうが特殊能力持ってんじゃないだろうか。
おみそれした。佐山のコミュニケーション能力半端ねえ。
そんな風にひとしきり感心したあと、ふと、ある不安が心をよぎった。
もしかして、佐山が隣の席にいたら、毎日こんな感じなんだろうか。毎日話しかけられて、何となく会話を楽しんでるみたいな気分になって。それって、いいことなのかな。
いや、話をすること自体はありがたいんだ。普通ならおれのそっけなさに呆れて遠ざかってしまうところを、こうして構ってくれてるんだもんな。だから嬉しい。けど……ひっかかることもある。理由は二つだ。
一つ目は、毎日佐山がこんなテンションなら、ちょっと疲れるかもしれないってこと。
近くで誰かがいつもしゃべってるなんて、今まで経験したことないからな。そのうち、慣れる日が来るんだろうか。
二つ目は、佐山に話しかけられるたび、上手く返事ができない自分に気づくことになる、ってことだ。
何かヘコむ。駄目な自分を突きつけられてるみたいだもんな。少なくとも、誰とも話さなければ、自分の話下手に落ち込むこともないってわけだ。
何だろうな。おれは、心に波風を立てたくないだけなんだろうか。しかも、波って言っても海じゃなくて、小さい水槽の水が揺れないように、必死になって守ってるって感じだ。
それって、人としての器が小さいってことかもしれないな。
佐山は、おれとは全く逆だな。彼女を伺うと、今は明日行われる英語の小テストについて話しているところだった。話の輪は左右前後斜めに広がって、すごく楽しそうだ。しかも、おれを一人ぼっちにしない配慮か、時々こっちを見て、うなずきかけてくれさえする。
どうして佐山は、そんなに開けっぴろげなんだろう?
怖くないのかな。何か下手なこと喋っちゃったりして、まずいことになった経験はないのかな。波が立ちまくって荒れようが、気にしない人種なのか。それとも、能天気で何も考えてないだけなのか?
って、いかん、佐山に失礼な考えになってしまった。
クラスのざわめきが収まってきた。全員、新しい席に落ち着いたようだ。余った時間は筆記アンケートをするらしく、担任がプリントを配っている。
アンケート用紙を手にした佐山たちも静かになって、シャーペンの音を響かせていた。
よかった、静寂の時が戻ってきた。これでしばらくは、後ろ向きなことを考えずに済む。
おれがそう思ったのも束の間、新たな悩みが襲いかかってきたんだ。