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32.戻っておいで、ティア

声の先へ振り向くと、黒いフードをかぶった巡礼者姿の男がいた。

 長い旅を続けてきたのだろう。靴はすり切れ、服も汚れきっている。顔はやつれ、眼光は鋭い。

 司教クレスである。


「……クレスさま……」


 ティアは驚きのあまり混乱する。

 乙女の楽園にいたころは、いつでも身ぎれいにしていて余裕たっぷりだったクレスが、ボロボロに身をやつした姿で現われたのだ。


「ああ、ティア、私の聖女。ずっと、ずうぅっと探していました。さぁ、もう心配はいらないよ。こちらにおいで」


 クレスは乙女の楽園のころのように、優しげに微笑んで両手を広げた。そうして、イディオスなど目に入らないかのように、ティアにだけ話しかける。


 イディオスはそんな男を見てゾッとした。今まで自分に向けられ続けてきた恋慕の視線が、ティアに向けられているのを目の当たりにして恐怖を感じたのだ。

 その視線が狂気に変わる瞬間を、イディオスは知っているからだ。


 しかし、イディオスには罪悪感もあった。

 ティアの意思を確認したとは言え、ドタバタに便乗したようなものだったからだ。

 奪うようにエリシオンに連れ去ってきた自覚はあった。


 戻りたいと言われたら……俺は引き留めても良いのだろうか……。


 ティアを抱きしめる腕に力を込め、イディオスは尋ねた。


「ティア、知り合いですか」

「はい。以前お世話になっていた孤児院の……ドロメナ教の司教様です」


 クレスは手を広げたまま一歩ずつティアに近づいていく。


「ドラゴンに攫われたと聞き心配しましたよ。乱暴はされていませんか?」

「違います! 司祭様に除籍されて追い出されたところを助けていただいたんです」

「ああ、ティア。可哀想なティア。私がその場にいれば、こんなことにはならなかったのに……。もう大丈夫です。除籍は私がなんとかしてあげます。だから、戻っておいで、ティア」


 クレスの声は甘い。

 恋い焦がれていたような声だ。


 ティアは動揺した。

 十二回のループのたび、結婚を誓った相手だった。それが、クレスにとっては嘘だとしても、ティアは信じて縋ったひとつの希望だった。

 好きだったのだ。


 イディオスの腕の中で、クレスを見つめたままティアは固まってしまった。


「……ティア」

「きゅぅ……」

 

 イディオスとキュアノスが不安そうに名前を呼んだ。

 ティアはハッとしてふたりを見つめた。

 そして、ギュッとイディオスに抱きついた。


 クレス様を好きだった。でも、それはもう過去のこと。不自由な教会から、自由な世界に連れ出してくれたのはイディオスだ。

 ティアは今までの人生の中で、今が一番幸せだった。


「戻りません」


 ティアはキッパリとクレスに告げた。


 クレスは信じられないかのように小首をかしげる。

 まさか断られるとは思っていなかったのだ。

 小さなころからティアはクレスに懐いていた。好きだと体全体で表現していた。「クレス様と結婚するのだ」と、できるわけないのに屈託なく言っていた娘だ。


「どうしたのですか? 戻れない理由があるのですか? その男に穢されたとしても」

「私は穢れてなんかいません!!」


 ティアは憤慨した。

 イディオスに、キュアノスに触れたからといって穢れるはずなどないのだ。


「いいのですよ、ティア。あなたがどんなに穢れていても私は許します」


 クレスは慈愛に満ちた笑顔を向けた。


「すべて清め直してあげますから、ね? ティア。どんなティアでも私は愛します。だから、安心して戻っておいで? 復籍が叶わなくても私の妻になればいい。結婚したいと言っていたでしょう? 私がすべてから守ってあげます」


 クレスの絡みつくような甘い声が、ティアにとっては恐怖でしかない。


 どうしたの? 私の知っているクレス様じゃない!


 ティアは涙目になってフルフルと頭を振った。


 その姿が扇情的で、クレスは更に煽られる。


「ティア……。どうしたのですか? ああ、その竜騎士に脅されているのですね?」

「違います! そんなことないです!!」

「わかりますよ、有名な冷徹王子です。きっとあなたにひどいことを」

「違います! 違います!!」

「まさか、あなたまでこの見た目に騙されて? ああ、しかたがないですね。あなたは男性に免疫がないですから。魔女に愛された美貌の前には、心が揺らいでもしかたがないんです。でも、私は許します。気の迷いですからね。ティアが悪いわけじゃない、この男が――」

「止めて! もう止めてください!! これ以上、イディオスを傷付けないで!!」


 ティアが叫んだ。

 

 クレスは息を呑んだ。


 白い頬に、ティアの涙がコロコロと転がっていく。

 サファイアピンクの瞳からこぼれ落ちる光の粒は、ほんのりと恋の色に色づいて見えた。


 クレスはティアの涙を初めて見たのだ。

 ティアは小さなころから泣かなかった。どんなに苦しくても、笑顔を作るような子だったのだ。

 それが今、他人のために泣いている。


「……まさか、ティア、本気で」


 クレスに問われて、ティアはやっと気がついた。


 私、イディオスのことが好きなんだ――。


 そして、同時に叶わない恋だとわかった。


 イディオスに思いを知られたら気持ち悪いと思われる! 嫌われてそばにいられなくなってしまう!


「違う! 違います!! 私、そんなんじゃない!!」

「ええ、そうですよね。まさか、その男を好きなわけはない」


 クレスが言って、イディオスがビクリと体を硬直させた。

 硬くなった腕の中で、ティアは震える。


 イディオスに嫌われたくない!


 あわてて抱きついていた手を離す。


「違います! イディオス、そんなことないから! 私、あなたを好きになったりしないから! だから嫌いにならないで」


 自分からは触れないようにと身をすくめ必死に訴えるティアを見て、イディオスは胸が痛い。

 女嫌いの自分のために、ティアがそう言っていることはわかっている。

 それでも、ティアに「好きになったりしない」と言われることは苦しかった。それが自分に嫌われないためだと知ればなおさらだ。

 

 イディオスは切なく、苦しく、ただ頷くしかできない。


 クレスはほくそ笑み、ティアに手を伸ばした。

 その手をイディオスが払い、キュアノスが咆吼する。

 クレスはよろめいて尻餅をついた。


「力に訴えるとは野蛮ですね」

「お前こそ俺をだれだと思っている」


 イディオスは冷え冷えとした目で、クレスを見おろした。イディオスは呪いのせいで王都から離れ竜騎士をしているが、王子なのだ。

 

 クレスはその冷たさにゾッとして黙り、俯く。


 イディオスはティアを抱き上げた。

 そして無言でその場を去った。


 クレスは地面を見つめ、ひとりほくそ笑む。


「……でもね、ティア……。あなたはどうせ私のもとに帰ってきます」






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