第二章七節『真夜中の特訓はシャンプーの香り』
「――えっと……おまた、せ?」
レヴァの待つ部屋の前まで来て、ドアノブに振れるが妙に不安になってしまい先にトイレに行き、水を一杯飲んでから意を決して扉を開けた。
勿論ノックは忘れていない。安い少年誌のラブコメばりに着替え中だったら困るし。
「いえ、お気になさらずに」
部屋にはベッドが二つ並び、小振りのテーブルに飾られた花瓶に箪笥と非常にシンプルだった。
窓際のホテルの様に綺麗にシーツが敷かれたベッドに腰掛け、そう静かに答えるレヴァに心臓が跳ねた。
明かりのつけられていないうす暗い部屋。
だからこそ窓から差し込む月明りが際立ち、彼女の横顔を照らしていた。
長く鮮やかな薄紫色の髪が輝いている。
その姿が神秘的で見惚れていると、
「――どうしました。夜は長いと言っても時間を無駄にする事はありません」
彼女はベッドに上がり、女の子座りでチョコンと座る。
ゴブリンを相手にする時やアイリに話をしている時とは打って変わり、大分リラックスしている様で、大人の女性のあどけなさを見てしまうとまた心臓が早鐘を打つ。
クラリと眩暈を覚えていると、レヴァは片手で自分の前を軽くポンポンと叩き、促した。
――誘っておられるので?
異性と無縁の男子高校生には些かハードルが高いのだが、
「……取って食うとでも?」
彼女は狼狽える俺に眉を顰めた。
「べ、別に! ビビってねーですしおすし!」
語尾を裏返しながら答えて、ベッドに上がる。
月明りが差し込む部屋に男女がベッドの上で向かい合う……結婚初夜か。
数秒の間ですら崖っぷちに立っている様な心細さに襲われる。
――ぁ、思ったより気まずい。お腹が痛くなってきた様な……?
俺の不安感を察してか、レヴァは溜息を一つ。
「心を落ち着かせてください。その為にこの場を選んだのですが」
無理でーす! と内心答えるが、彼女は俺の冷や汗を無視して。
「今貴方に必要な事は戦闘技術より先に『神の力』の扱いを深く知って頂く事です。――でなければ、明日にも命を落とすかもしれません」
「――」
真っ直ぐに目を見られて、その心当たりの多さに息を飲む。
俺が辿るであろう無数の死の光景が容易に浮かぶ。その大抵が自滅ENDなのだから稀に見ぬクソゲー感だ。
先が思いやられて眉を顰めていると、レヴァがスルリと前に乗り出して俺の胸に手を触れる。
「『神の力』とは高濃度のマナ。そしてマナは生命の根源から生成されるリソース――つまり、心臓が『力』の炉心となります」
まじかに迫られてフワリとシャンプーが香る。
透き通る瞳と視線がぶつかり息を詰まらせた。
触れられている事で、自分の心臓が早鐘を打つている事が際立った。
「戦闘時に『神の力』の増減が目立ちます。ですので、貴方の炉心と私の炉心を同調させて、出力と精度の向上を図ります」
無意識なのか、胸を撫でられ身体が強張った。
彼女に他意など無いのは確かだが、意識するなというのが無理な話。
「では、準備を」
と、レヴァは俺から離れTシャツのボタンを外していく。
「あ、あの――レヴァさん? 何故、シャツをキャストオフ?」
「互いの『神の力』をより明確に感知する為に、炉心を極力接近させる必要があります」
「つまり?」
「素肌を合わせますが」
――何か? と小首を傾げるレヴァ。
なるほど、どうやら年齢指定の暖簾の前に居るらしい。
◇
ベットの上。上着とシャツを脱ぎ上半身裸で何かに負けて打ちひしがれる様に頭と膝を抱えていると、
「では、準備はよろしいですね?」
背後から“NO”とか“いいえ”とかの選択肢を用意してくれていない質問が。
「心の準備は出来てませんが、スタンバイは出来てますよ。今が冬じゃないのが救いです」
レヴァは季節的には春の終わり頃と思われます、と前置いて。
「それでは姿勢を正して貰えますか。背を丸められては上手く接触させられません」
「はいよ――ぉっ゛」
座高測定を受ける様に背を伸ばすと間もなく、僅かな重みとひんやりとした滑らかで柔らかい感触を受けてビクリッと小さく身体が跳ねた。
彼女は最初、“全裸になり抱き合う”事を迫って来たが「それは、マジで勘弁してホントマジで。俺の心臓取れちゃうから」と断固拒否。ならどうすれば良いのですか、と眉を顰める彼女に提案した打開策の“背中合わせ”が採用された。
まぁ、その僅かな肌の擦れ合いでも思考をショートさせるには十分な刺激なのは変わりない。
――だって、喪男だもの。
無意識に逃げようと僅かに前かがみになるが、預けられる体重がその分増える。
……え、このまま逃げてるとレヴァさんに潰されちゃう? 俺で背中伸ばしされちゃう?
それはそれで、どこかの業界ではご褒美なのか? ――そうなのか?
「…………ぬぬぬっ」
思いっきり眉を顰めつつ、押し戻そうにもその度胸もなく怯えた仔犬バリにプルプル震える。
「――そこまで私と肌を合わせるのは苦痛……ですか?」
どこか悲し気な声。
それが、自身の女性としての魅力を心配してか、それとも俺の狼狽具合に失望したのかは定かではないが、そう言わせる時点で男として廃っているのか。
……いや、もう今日だけでも『男の株』なんてものは大暴落しているのだが。
「レヴァさんみたいに見目麗しい方に素肌を預けて貰えるのは、光栄の至りなのだけど――お風呂の事もそうなのですが、少しは男の子の事も気遣って欲しいなっ!」
「………………」
割と間の長い沈黙に不安になって来る。
「性欲を憂慮しているのですか?」
「だから考えた末に、ストレートに言うのやめぃ――ぁ、身じろがないで……」
肌の擦れ合いに再び刺激が奔る。彼女の髪が流れてきて絹が触れた様に思えた。
「劣、情――愛、欲?」
あ、言い直した。
肩越しに盗み見てみると、その眉を顰めた割と真剣な横顔が俺の希望に適した言葉を探している様だった。
一応、オブラートに包もうとして、包み切れていない辺り――やはり相当に不器用らしい。
それはそれで、愛らしいのだけれども。
彼女は、諦めた様で「表現はどうあれ」と。
「生命として本能的な感情を否定する事など摂理に反するでしょう。その類の欲求でヒトという種は貴方の世界でも、この世界でも繁栄してきたのです。仮に――」
レヴァは俺に背を預けたまま。
「私に”ソレ”を求めているのなら先に済ませてしまいましょうか。私の伽で満足されるかは別ですが」
伽。この流れでは確実にZ指定の意味だろう。
「いや……だから、まだ新しい器うんぬんはですね?」
「子を残すだけが“まぐわう”目的では無い筈ですが」
「まぐ――――」
ごもっともですが。
恋人同士でもあるまいし、
「既にこの心身は貴方のもの。求めて頂けるのであれば、拒む理由はありません」
そんな事を言われ――。
「……」
思考が、妙に空回る。
背中から伝わる感触が、香る匂いが、重ねられる手が、その声が。
彼女を求める感情を掻き立てる。
男としての責任など頭の片隅にも無い。
彼女の言う欲求に任せて、抱き寄せれば応えてくれるという。
――だが、
「――っ」
気持ちが昂ぶる程に、廃神殿での惨状と――あの男の後ろ姿が脳裏に過る。
村娘や冒険者を襲い攫ったゴブリンや父さんと母さんを殺し妹を奪ったあの男と今の俺が持つ感情は同じではないか。
少なくとも『女性を求めている』事に違いは無いと自覚してしまうと、酷く自分が浅ましく思えてしまう。
のぼせる様な甘い熱が冷水を被った様に冷めていく。
一人では得られない快楽で満たされる為に、それらと同格になる事など――。
「――俺にそんな度胸はないな」
姿勢を正して、大きく息を吐く。
「とっとと鍛錬っての始めよう。明日からゴブリン狩りなんだ。……お楽しみはその後ってね」
浅ましい期待とそれを卑しいと自嘲する苦痛も、わざとらしく肩を竦ませて強引に思考から蹴り飛ばす。
「わかりました。では、その時に」
なんか、妙な予約が入ってしまった様な気がしなくもないが……。
「さぁ、それでは集中を。全身の細部に『神の力』を纏わせつつ心は平静に」
言われて、目を閉じる。
――スイッチを切り替え、五感と身体に『神の力』を流し強化を始める。
押さえ付けられていた枷が外れた様に身体が軽くなり、意識の加速を自覚した。
戦闘時の様に身体の奥に熱が生まれ、走り出したいような妙な興奮を覚えるが深呼吸を繰り返しその衝動を抑える。
次第に瞼越しに僅かに光を感じる程度の暗闇が完全な黒に塗りつぶされた。
自身の息遣いや周囲の小さな音も消え、レヴァと背中を合わせている事すら忘れ水中に浮かぶ様な浮遊感に包まれる。
感じるのは俺とレヴァの心臓の鼓動だけ。
その中でも、
「【神装】を召喚する際の様に『力』を表に出すのではなく、自身の内面、深層に潜るイメージを」
彼女の言葉は、はっきりと響く。
その声に導かれる様に、意識を更に深い奥底に潜らせた。
黒く冷たい妙な重みのある深海に沈んでいく感覚。
その黒い世界の中で、自分の中に拳大の白い灯火を感じ取る。
それは、雨で潰えてしまわないように常に細い枝をくべて無理矢理、火を維持している様な力強さはあるが、同時に次の瞬間にでも消えてしまいそうな危うさがある。
その小さな光が、俺の存在ごと闇に飲まれてしまいそうになった時、
「自身の存在を、私を通じて強く認識してください」
その声が沈む意識を引き上げた。
凍える寒空の下で、毛布に包まれた様な温かさと安心感を彼女の声と『神の力』に感じる。
そして、消えかかる火種が守られ新たな薪がくべられた様にその勢いが増していく。
「貴方と『神の力』の同調を確認しました。このまま、『力』の出力の増減を繰り返し精度の向上を図ります。では――」
と、種火がより強く明確な炎へと成長する。
手を取られ見知らぬダンスのリードをされる様に、彼女に誘導されながら、滑からで繊細に、それでいて力強くその炎を育てていく。
炎はやがて猛火となり、成長した力は俺の手から離れて溢れそうになるが、
「――問題ありません。そのまま集中を」
レヴァが後ろから手を添えて暴れる猛火を、綺麗な球状に整えてくれる様だった。
バスケットボール程のサイズに留めた心臓の様に鼓動を打つ光球。
燃料を――マナをくべればくべる程、耀きと熱は何処までも増していくが、ある時点でその向上は急激に緩やかになる。
「この感覚をよく覚えておいて下さい。今の貴方が行使できる『力』の上限がここまで。コレ以上に無理に出力を高めれば器である貴方の身体は砕けてしまうでしょう」
しばらく、俺の意思だけで光球の出力を維持しているのを見届けて、
「それでは次に出力を抑えていきます。緩やかに少しずつ――」
手ですくった水を一滴ずつ垂らす繊細さで、光球を保ったまま熱と光を抑えていく。
一度に極端に出力が低下しないようにレヴァが支えてくれているのが分かる。
光が消えるギリギリまで抑えてから、
「高出力に達するより、低出力を維持する方が至難でしょう。……では、続けます」
彼女に合わせてまた出力を上げていく。
「――――――っ」
『神の力』を上限値と下限値に振る作業は、思いの外、堪える。
ニュアンス的には、自転車で『崖沿いの曲がりくねった急勾配をノンブレーキで下って行く」のと『止まらず、倒れないギリギリを堪える』様な両極端なバランスの取り方や体感の違いを心身に覚え込ませる様だった。
始めは徐々に、時間を掛けてだが回数を重ねる毎に増減の速度を上げ、緩急を明確にしメリハリをつけていく。
「――っぁ、かはっ……!?」
何度目かの力の向上の途中、分厚い布越しに深呼吸をしている様な苦しさに堪らず水から顔を上げる様に深層から意識を浮上させた。
少なくとも数時間は繰り返していた気がするが、壁に掛かっている時計の針は一〇分も進んでいなかった。
幾ら肺に空気を入れても呼吸が出来ている気がしない。
水溜りに倒れていると思える程に全身から汗が溢れている。
絞れる程にシーツが濡れているのが分かるが、身体を起こす気にはなれなかった。その体力も無い程に消耗してしまったらしい。
眠りに落ちる直前の様に瞼が異常に重い。
ただの瞬きですら、苦痛に感じる。
「ぁ――?」
朦朧とする視界で、淡く光る青い粒子を見た。
薄暗い部屋に光を反射する埃の様に光る微細な粒が無数に浮かぶ。
その一部は湯気程度に薄く集まり尾びれの長い魚の様に薄暗い部屋を泳いでいた。
その中の一匹がテーブルに飾られた花瓶に纏わりついている。
【神装】を形作るソレよりも濃度は相当に薄いが間違いない――『神の力』だ。
変哲も無い花瓶――正確にはソレに活けられている花が『力』の器となっているのが分かる。
遊泳する『力』が俺に気付いた様で、目の前まで来るが伸ばす手が届く前に離れていく。
「『力』の視認は出来た様ですね」
レヴァの声に寝返りを打つ様に首を向ける。
彼女は腕を支えに辛うじて身体を起こしていた。
熱に浮かされている様に、呼吸は浅く俺程では無いが額に玉の汗が浮かんでいる。
そして、身体の周囲を青色の火の粉の様な粒子と半透明の炎の様なオーラが取り巻いていた。
夜空に輝く星々やオーロラの様でそれはとても、綺麗だと思う。
疲労に加えて抗えない程の眠気の中で、無意識に呟いた自分の声になり切れない音が耳に入る。
視界が暗転を繰り返す中で、レヴァが僅かに微笑んだ。
「同調による『力』の調律は成功しました。大気中に漂う『神の力』を視認できるまでに初回で達する事が出来たのは上々です。次回の戦闘では光刃の威力と精度はより安定する事でしょう」
「――ぁ……っ」
意識が飛び飛びで、彼女の言葉の一部が途切れて聞こえる。
身体の力が完全に抜け、瞼が落ちた。
音が遠退く中で、
「ですが、また夜は続きます。今は、ごゆるりと――」
レヴァの声と、頬を撫でられる感覚に誘われて、辛うじて堪えていた意識を手放した。




