5 この思いは鮮やかな花のように ⑦
私は呼吸を落ち着かせながら、病室や廊下を見渡す。きっと、遠くには行っていないはずだ……センセイはもう何も、見えていないのだから。私はベッドに浅く腰を掛けてセンセイの行きそうなところを考える。診察室か、もしかして売店とか? 色々と候補が溢れ出して頭がパンクしそうになる。私は顔をあげて、窓の向こう側を見た。センセイの病室は、中庭に面していた。きっと春になったらきれいな桜が見ることができるに違いない。私は窓に近づいて中庭を見下ろす。患者や看護師たちがのびのびと息抜きをしている風景が見えた。
「……あ」
そして、中庭の真ん中に植えられた桜の木、その根元に……私が探している姿があった。
「センセイ!」
大急ぎで窓を開けて、私は叫ぶ。でも私の声が吹き抜ける風にかき消されて、センセイまで届かない。
「あ~~! もう!」
私は勢いよく窓を閉めて、もう一度走り出していた。
体は疲れなんてこれっぽっちも感じていない。会いたくて仕方がない人の元に向かうとき、身も心も、羽のように軽くなるなんて、私はこの時初めて知った。
息を切らせながらも、私はセンセイの姿が見えた中庭にたどり着いていた。大きく葉を広げる桜の木は、花を咲かせている時よりも心地よさそうに風になびいている。呼吸を整えるように息を吸うと、花壇に植えられた花の香りが鼻腔をくすぐった。センセイは、それらを全身で感じるように、車いすに座って空を仰いでいる。目はじっと上を向いているが、どれだけ桜の葉が風になびいても、鳥が飛んで行っても、彼の視線は動くことはない。
会いたくて仕方がなかった姿が、そこにある。
言葉にならない喜びが、私の体を包み込んでいく。
雲の隙間から、サッと陽の光が差し込んできた。あまりにも強い光に、私はとっさに目を閉じてしまう。目の奥が太陽の光で焼かれたのか、強く痛む。それでも私はセンセイの姿を二度と見失わないように、再び、ゆっくりと目を開けた。
「え……」
まるで夢を見ているかのようだった。私は自分の目を疑う。
私の目にセンセイの姿が、まるで火であぶったような色に見えていたからだ。そこから、いびつな円が広がっていくように、センセイを中心としてその炎が広がっていく。私は何度も瞬きを繰り返す、瞬きをするたびに……私の世界が変わっていったのが分かった。
始めはモノクロだったセンセイの姿は、炎で焦がしたような色になり……そして――じんわりとにじむ様に、センセイが着ているパジャマの色が私の目に飛び込んだ。それから一気に、まるで絵の具をちりばめたようなカラフルな世界が広がっていく。
私は息を飲んでいた。
深緑の葉、赤や黄色の花……柔らかな青色が広がっていく空。
そこには、私が今まで失っていたものがあった。私は戸惑いのあまり言葉を失い、ただ色の真ん中で立ち尽くしていた。脚が震えて、呼吸も上手くできない。
震えながら、私はもう一度センセイを見た。空に似ているパジャマの色、少し浅黒い肌、真っ黒だと思っていた髪は光の反射で茶色みがかっていることに気づく。私は少しふらつきながら、センセイの元に向かった。あと十歩、五歩……こんなに近くにいるのに、センセイは私に気づかなかった。
「……センセイって、そんな色をしてたんですね」
ぽつりと溢れた言葉はかすれていたけれど、センセイの耳にはしっかりと届いていた。センセイはハッと顔をあげて、私の顔のあたりを見ながら「三原か?」と口を開く。もうセンセイとは目が合うことはない。それが悔しくて、悲しくて……目から一筋の涙が流れていく。
「……やっと見れた、センセイの色。ずっと知りたかった」
「三原、お前……目が」
センセイの声も、わずかに震えている。
「ねえ、センセイ」
私はしゃがんで、センセイの手を取り、ぎゅっと握った。
「私なんです。あの時、センセイに助けてもらった子どもは、私なんです」
「……三原、お前何言って」
私はセンセイの言葉を遮る。
「あの白と黒のぶち模様の猫、私、とてもかわいがっていたんです。でも、私はあの猫を助けることができなかった。それどころか、猫の体から出てくる血の色が怖くて……まるで自分が犯した罪から逃れたくて、頭の中からすべての色を消してしまったんです。色だけじゃない。猫の事も、あの時声をかけてくれていた男の人の事も、すべて……まるで自分の罪から逃げるみたいに」




