5 この思いは鮮やかな花のように ⑥
じりじりと距離と掴む様ににじり寄っていくと、猫は道路の先に何か見つけたのか、ぴょんと飛び出して行った。私も慌てて、猫を掴もうと……同じように道路に飛び出してしまった。私の視界は猫でいっぱいになっていたから、その横から車が来ていることなんてすっかり頭から抜け落ちていた。
指先が猫に触れようとした瞬間、私も猫も、あらぬ方向に弾き飛ばされた。その凄まじい衝撃に、痛いとか怖いとか、そんな気持ちを抱くことはできなかった。地面に打ち付けられた時、私は、猫はどこに行ってしまったのだろうという事ばかり考えていた。うまく動かない頭を傾けて、猫を探した。……お願い、無事でいて。そう何度も願いながら。
でも、私の視界の端っこにいた猫の体からは……おびただしい量の赤黒い血が溢れ出していた。幼かった私でも分かる、あれはもう【ダメ】なんだって。
見ているうちにあの血の色が怖くなってきて、私はそこから目を反らした。でも頭の中にその色がこびりついて離れなくなってしまった……何度も「消えろ」と念じる。
猫が死んでしまったことも、血の色も……何もかも、消えてしまえ!
何度も頭の中でそう念じているうちに、ようやっとその赤色も目の前にぼんやりと広がる空の色も消えていくのが分かり、私はほっと息を吐いた。
でも、私はその時気づいてしまった。もしかしたら、私が近寄ったせいで猫が道路に飛び出してしまったのかもしれない、と。
私が猫に近づかなければ……私が公園になんて来なければ、猫は死なずに済んだのかもしれない。
私が、私が、私が……。
全部、私がいけないんだ。
私さえいなければ……。
(わたしさえ、いなければ……)
声に出したつもりなのに、もうかすれた声さえ出なかった。きっと、私もあの猫のように死んでいくのだと、この時気づいた。
なんだ、ちょうどいいじゃない。猫を死なせてしまった罪滅ぼしができる。体から力が抜けていく、とても眠たくなってきた……私は許されるのかな、そう思って目を閉じようとしたとき、どこからか誰かの声が聞こえてきた。
「おい! 起きろ! 目を閉じるな!」
聞いたことのない、男の人の声だった。
誰だろう、と思って目を開けるけれど……目の前が霞がかっていてその人がどんな顔をしているのか、私には分からなかった。でも、その声がずっと私を鼓舞し続ける。
「絶対目閉じるなよ、家族がいるんだろ? 悲しませたくないだろ!」
彼の言葉に頷く力も、もう残っていなかった。
でも、その言葉がなければきっと、私はあのまま死んでしまっていたに違いない。
「あれは、センセイだったの……?」
センセイが話していた彼の罪と、私の事故の話。
全てを思い出した今、はっきりとその繋がりが見える。センセイの絵と自分の絵を抱きかかえ、私は走り出していた。廊下を駆け抜けて、靴を履き替えないまま玄関を通り過ぎる。そしてわき目も振らずにまっすぐ病院へ向かっていた。無我夢中になって走り続けていると、肺は破けそうなくらい膨らんで痛くなるし、脚がもつれて何度も転びそうになる。それでも私は止まることはなかった。センセイ、センセイ、センセイ!
センセイの事になると、私は走ってばかりだ。初めは逃げるために、その次は探すため。そして今は……ただセンセイに会いたい一心で。心の底からこみ上げる感情に身を任せて、ただひたすら一直線に。 私は何人もの看護師に怒られながらも、センセイの病室まで走って向かっていた。病室にたどり着き、大きな音を立てながら引き戸を開ける。「センセイ!」と叫びながら。
「……あれ?」
私から漏れる呟きは拍子抜けしたものだった。
病室の中にセンセイの姿はなかったからだ。私は慌てて病室に貼られたネームプレートを確認する。でも、ちゃんと『伊沼直人』という名前が貼ってある。それに、ベッドテーブルの上にはコーヒーが少しだけ残ったマグカップがおいてあり、布団に触れるとまだほんのりとぬくもりが残っていた。センセイが先ほどまでここにいた形跡は残っている。
「どこ行っちゃったんだろ……?」




