5 この思いは鮮やかな花のように ⑤
放課後になってから、私は美術室に向かっていた。そこには絵を描いているセンセイの姿はない、不気味な石膏像や誰かの描きかけの絵が置いてあるだけ。センセイはいないと分かっているはずなのに、私は思わず彼の痕跡を探してしまいそうになる。今でも、美術準備室からひょっこりと顔をのぞかせるんじゃないか……そんなどうしようもない妄想を頭の中から振り払い、私は自分が描いた絵を探した。
探していたものは、美術室の隅に置かれたダンボールの中に入っていた。見覚えのある果物の静物画と目が合う。私は段ボールからその絵を出して、キャンバスの上に乗っていた埃を払い……ぎゅっと強く抱きしめた。乾いた絵の具と埃の臭いが鼻のあたりに漂う。センセイの匂いは、もっと甘かったなと体が勝手にセンセイに抱き着いた時の事を思い出す。私は絵をグッと自分の体から引き離して、もう帰ろうと足を出口に向けた。その時、絵を持っていた指先が、絵の裏にある何かに触れた。私は後ろをひっくり返してみると、四つ折りにされた紙がテープで貼り付けられていた。
(何だろ、これ……)
その紙が破けないように慎重にテープを剥がしていく。誰だろう、こんなイタズラをするのは……少し憤慨しながら四つ折りになっていたその紙を開く。
次の瞬間、ガンと強く頭が揺さぶられた。目の前がクラリと歪んで、モノクロの視界がぼやけて、目の奥に強い痛みが走る。
「センセイ……?」
声が、そして手が震える。体から力が抜けて、私はそのまま力なくぺたりと床に座り込んでいた。
その紙には、センセイの絵が描かれていた。
あの時、センセイが最後に描くと言っていた絵が、私の姿を描いた絵が、そこにあった。鉛筆で描かれる黒の濃淡。雨が降りしきる窓を背に、じっとセンセイを見つめる私の姿。センセイはきっと……静物画がいつか私の元に返ってくると読んで、先回りしていたに違いない。まるで子どもが考えたサプライズだ。私は息を漏らすように笑っていた。
紙に張り付いていたテープを剥がそうと裏返したとき、私は声を失った。
四つ折りの内側に、センセイの文字で私宛のメッセージが書き記されていた。
『俺の目になりたいって言ってくれてありがとう。
お前の描く絵が好きだった。三原の目線で世界を見るのも悪くないと思う自分がいるのが、今は少し憎らしい』
センセイの文字は筆跡が強いのか文字の黒は濃く、少し乱れている。センセイが見えにくくなっている目を見開いて懸命に書いたのだと伝わってきた。私はそのメッセージを何度も何度も指でなぞる。目からは、どんどん涙が溢れてくる、私はその絵に涙の滴が落ちないように何度も目元を拭った。それでも溢れでる涙は、私の頭の中をぐちゃぐちゃにかき回していった。まるで、穴を更に掘り起こすみたいに……センセイとの思い出を遡っていく。
センセイの病室で聞いてしまった会話から始まり、美術準備室でセンセイと過ごした最後の時間、絵を描いてもらったときのこと、センセイが打ち明けた『昔話』。
道路に飛び出していった猫。
「猫……?」
私の脳裏に、サッと小さな影がよぎった。私はその正体を知りたくて、目を閉じてそれを追いかけていた。
小さな影は、白と黒が入り混じった模様に変わり、次第に生き物の形になっていく。
白黒のぶち模様の猫になったその影が、私を見てニャアと鳴いた。
その時、私ははっきりと思い出した。――あの事故の事を。
私が小学生だった頃、近所の公園に野良猫が住み着いていた。白と黒のぶち模様、とてもかわいい子猫。誰かに保護されることなく、公園の中をまるで自分の家のように歩き回り、とても人懐っこかった。みんなは『シロ』とか『クロ』とか『ブチ』とか、好き勝手名前を付けてその猫を可愛がっていた。私も、そのうちの一人だった。うちは動物を飼うことができなかったから、尚更その猫が可愛くて仕方なかったのだ。だから私は、放課後に友達とよく公園に寄っていた。
その日は、仲の良かった友達が休んだり、家の用事があったりで……私は一人ぼっちで帰っていた。その途中で、あの猫を可愛がろうといつものように公園に寄り道をした。
「あ、危ないよ」
いつもなら公園の中をうろうろと歩き回っていたのに、私が公園に着いた時、その猫は道路の向こう側をじっと見ていた。まだ遠いけれど、車が近づいてくる音が聞こえてくる。でも私が声をかけても、猫にその言葉が分かるはずもない。
私は猫の様子をじっと見守っていた、もし道路に飛び出したら……私が助けてあげなきゃ! だってあんなに小さな生き物、車に轢かれるようなことがあったらひとたまりもない。