5 この思いは鮮やかな花のように ④
絵を描いていたセンセイ。
私に絵を描くことを教えてくれたセンセイ。
一緒に帰ってくれたセンセイ。
最後に強く抱きしめた、センセイの背中の体温。
そのぬくもりは、私の体から一気に消えていってしまった。もうセンセイの目にはどんな光も映らないのだという事実が、センセイとの思い出を氷漬けにしていく。
私は頬に何かが伝うのに気づいた。それに触れると、指先が濡れる。その時、私は自分が涙を流していることに気づいた。流れていく涙を感じている内に、次第に悲しさと悔しさが頭の中で入り混じり、叫びは嗚咽となって喉から溢れた。私はしゃがみ込んだまま、声が漏れないように口を両手で塞いだ。涙は手を伝い、地面に落ちて、桜の木の根にしみこんでいく。
どれだけ止めようと思っても涙が止まることはなくて、私はそれが空っぽになるまで中庭で鳴き続けていた。ようやっと涙が止まったときには、外はすっかり暗くなってしまっていた。それでも、街灯や月の明かりは私には分かる。でも、センセイの世界にもうこんなものはないのだ。そう考えてしまうと、鼻の奥が強く痛んだ。もう涙が枯れ果てているのに、体はそれを出そうとしていた。
それから、私はうわの空で過ごそうとしていた。センセイの事はなるべく思い出さないようにしようとしていたのに、それはやっぱり無理だった。
目が見えなくなったセンセイの事を思い浮かべるだけでじわりと涙が滲むのを感じる。苦しい思いをするくらいなら何も考えることなくぼんやりと、時間の流れに身を任せよう。私は受験勉強にも手を付けることなく、じっと座ったまま、時間と胸の痛みが過ぎ去るのを待っていた。その間、どこか調子の悪そうな私に気を使ってくれたのか、友達が私に話しかけることがなかったけれど……数日経ったある日、ついに舞がそっと近寄ってきた。
「サヤ、今日の美術の授業でね」
「……うん」
舞の声はいつも以上に優しかった。私が顔をあげて頷くと、舞は安心したようにわずかに笑った。
「二年生の時に描いた絵、あったじゃない? サヤも描いたやつ……」
「うん、あったね」
センセイに追いかけられ、課題の絵を描くように言われた事はこれから先もずっと忘れることはできないと思う。私がぎこちなく頷くと、舞は困惑や不安を隠すように頬に小さな笑みを貼りつけたままだった。
「今、美術室にあるんだけど……場所とって邪魔だから、各自持って帰るようにって渡辺先生が言ってたの。サヤも、時間あるときに取りに行きなよ」
「……うん、わかった」
私がそう返すと、それ以上何も言うことはなく、舞はそっと離れていく。
分かったとは言ったけれど、私は美術室に行こうとはしなかった。
だって、行くとセンセイの事を思い出してしまう。
しかし、クラスメイトがどんどん絵を持って帰っていき、いつの間にか残ったのは私の絵だけになっていたらしい。ぼんやりと廊下を歩いていると、私は渡辺先生に話しかけられた。
「三原さんって絵、描けたのねぇ」
「は、はぁ……」
「だったら、言ってくれたらいいのに」
言う隙を与えてくれなかった渡辺先生は、自分の事を棚に上げて私にチクリと文句を言った。言い返すこともせず、私はもう一度「はぁ……」とだけ頷いた。
「でも、今までは描いていなかったんでしょう? 前の先生の時は描いたのかもしれないけれど、私の授業では無理しなくていいからね。今まで通り、レポートで」
「……はい、わかりました」
「私も、あなたみたいな子を指導するなんてできないし。……あ、それで三原さんも早く絵を持って帰って欲しいの。よろしくね」
渡辺先生は忙しいのか、それとも余計な事を言った気まずさからか、そそくさといなくなってしまう。
「指導できない、か……」
今までの美術の先生も、同じことを考えていたのだろうか? 私みたいな変わった見え方をする生徒に、みんなと同じように絵を描かせるのは大変だから、レポートで片づけることができるならそうしちゃえって。
その中で、センセイだけが、私のこの目に向き合ってくれたのだろうか。
「……センセイ、戻って来てくれないかな」
戻ってきて、私にもう一度絵のことを教えて欲しい。今度は文句も言わない、センセイの話をちゃんと聞くから。心の底から、そんな事を思ってしまう。でも、センセイはもう戻って来てはくれないのだ。私はもう、彼の事を諦めるしかない。




