5 この思いは鮮やかな花のように ③
(……どんな青色なんだろう)
私には見えないその色は、センセイにはどう映っていたのだろう? 画集の絵にに触れている内に、センセイに会いたいという気持ちがむくむくとこみ上げてくる。
(……放課後、病院に行ってみようかな)
足が遠のいていた、センセイがいるところ。私が勝手に感じていた気まずい思いはもうどこかに飛んで行ってしまっていた。
私はシャガールの絵についてのレポートをさっさと書き上げて、放課後になった途端学校を飛び出し、私はセンセイが入院している常盤台大学病院に向かっていた。
その道中で、病院の近くにある小さな花屋が目に入ったときに私の足はぴたりと止まった。さすがに、お見舞いに手ぶらで行くわけにもいかない。私はその花屋に立ち寄り、小さな花束を買った。いつも花なんて見ても何も思わないのに、ふんわりと漂う華やかな香りが鼻腔をくすぐり、それはせわしなくざわめいていた私の胸を落ち着かせる。花の色は分からないままだけど、花がそれぞれ持っているその豊かな香りは感じることができる。その事実に私は少しだけ嬉しくなった。
病院の受付で伊沼センセイの病室の場所を聞き、病室に向かった。
一般病棟の中にあるセンセイの病室に近づくにつれ、心臓の音がどんどんうるさくなっていくのが分かった。体は強張って、歩き方も変になってしまう。久しぶりにセンセイに会うと思うと、どうしても緊張してしまう。私は花束を両手で持ちぎこちなく歩きながら、センセイの病室の前にたどり着いていた。
病室の引き戸を開けようと取っ手に触れた時、その中から話し声が聞こえてくることに気づいた。
(誰かお見舞いの人でも来てるのかな?)
私は病室の引き戸に耳を近づけて、中の様子を窺おうとその会話を盗み聞きする。聞こえてきたのは、男の人二人分の声だった。そのうち一人がセンセイであるのは、声を聞いただけですぐに分かった。話をしている二人の口ぶりは軽く、とても親密であるという事がわかる。
(……センセイの友達とかかな?)
私は親し気に話をする二人の間に割って入ることも出来ず、そのまま、どうしようかドアの前で立ち尽くしていた。でも、ずっとここにいるわけにもいかない。意を決して戸を少しだけ開けた時、思いもよらぬ言葉が耳に飛び込んできた。
「でも、びっくりしたよ。お前から、ついに目が見えなくなったって連絡を貰った時は……。思っていたよりも元気そうで安心したけどさ」
私は恐ろしさのあまり息を飲んでいた。間違いであって欲しいと祈ったけれど、センセイの言葉がその小さな祈りを簡単にかき消していく。
「ああ、入院してから急激に悪くなってな。そのせいで入院も長引きそうなんだよ」
センセイがそう返す声を聞こえてくる。センセイの目が見えなくなった、急激に悪くなった……その言葉が信じられなくて、まるで体が石になったみたいに固まってしまい、私はその場から動けなくなってしまっていた。頭のてっぺんからつま先までが冷たくなり、声を出そうにも、喉は震えるばかりでどんな言葉も出てこない。センセイが話していたことだけが頭の中をぐるぐると駆け回り、次第に体も小刻みに震え始めていた。
「……治すことは、できないのか?」
もう一つの声が、私の思いを代弁するように彼にそう尋ねる。
「そうだな、こうなったらもう慣れるしかないよ。仕事も、もう続けられないな」
「でも、無職になると大変だろう? そうだ! 俺が教授に、何か仕事をあっせんしてもらえないか聞いてみるよ。……あれ? 誰かいるのかな?」
センセイの友人と思われる人と、薄く開いた扉の隙間を通して目が合ったことに気づく。
(……あ)
「……どうしたんだよ、川畑」
「病室の前に誰かがいるみたいなんだ。直人の見舞い客かな? 今開けますね」
私は慌てて回れ右をして、センセイの病室の前から脱兎のごとく駆け出していた。
闇雲に病院の中を走り抜け……気づけば病院の中庭までたどり着いていた。中庭の中央に植えてある桜の木によろよろともたれかかり、すっかり息が上がってしまっていた私は胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。その時、手に持っていたはずの小さな花束をいつの間にかどこかに落としてしまった事に気づいた。私は空っぽになった手をぎゅっと握りしめ、その場にしゃがみ込んだ。
胸が痛いのは、走ったせいじゃない。
私は目を閉じて、センセイの事を思い出していた。




