5 この思いは鮮やかな花のように ②
でも舞の優しさは、私の心に塩を塗るだけだった。
センセイが自身の病気を治すつもりがない事を、この学校で私だけが知っている。
伊沼センセイの代わりに美術の先生としてやってきたのは、この春大学を卒業したばかりの若い女性・渡辺先生。初めの授業こそ普通の教室で、渡辺先生の自己紹介やこれからの授業の方針を話すだけだったけれど、その次からは美術室に行って絵を描くようになった。
私を除いては。
「三原さん、ちょっと来てもらってもいいかな?」
渡辺先生の初めの授業が終わった後、私は彼女から呼び出された。思い当たる節もなくて不思議に思いながら先生について行くと、たどり着いたのは……誰もいない生徒指導室だった。何も悪い事をした記憶はないけれど、きっと怒られるんだ! 私が狼狽えているとそれを感じ取ったのか、渡辺先生は慌ててぎこちない笑顔を作った。
「大丈夫、別に変な話じゃないから……目に病気がある子って、三原さんで良かったわよね?」
「は、はい。そうですけど……」
渡辺先生が椅子に座ったので、私も机を挟んでその真向いにある椅子に座った。
「教頭先生から話は聞いてるわよ。交通事故で色覚を失ってしまったって……三原さん、大変だったのね」
「はあ……」
怒られるわけじゃないのか。安心した私の返事はどこか気の抜けたものだった。
「それが原因で、三原さんは絵が描けないって聞いたの。それで、美術の授業では絵を描くんじゃなくて、別の課題を出されていたって」
それについては。伊沼センセイのおかけで絵を描けるようになったからもう大丈夫です。そう言おうと思ったのに、渡辺先生は矢継ぎ早に口を開き私の言葉を塞いでしまう。
「学期の途中で先生が代わって不安だと思うけれど、大丈夫だからね! 安心して!」
「……え?」
渡辺先生はぎゅっと握り拳を作って、少し大きな声を出した。こじんまりとしている生徒指導室だと、その声はとても響いて耳が痛くなってしまう。思わず顔をしかめると、渡辺先生は私が不安に感じているのだとさらに勘違いしていく。
「今までの先生はレポートを代わりに出してたって聞いてね、私もそうしようと思うの」
「あの、いや、私……」
「美術室に行くのもつらいでしょう……みんなが絵を描いているのに三原さんだけが何も描けないなんて! そうだ! 三原さんには、図書室にある美術の本を読んで、それの感想を書いてもらうことにしようかな。司書の先生には私が言っておくから安心してね。あら、もうこんな時間。早く次の授業に行かないと!」
私が割って入る隙も無いくらい、渡辺先生は早口で話をしてはあっという間にいなくなってしまった。私は呆気にとられながら、生徒指導室に一人取り残される。次の授業が始まるチャイムの音が聞こえてからようやっと正気に戻って、大急ぎで教室に戻る。
それ以来私は、美術室に行ってもなぜか渡辺先生に門前払いされるようになった。どれだけ「絵を描くつもりで来た」とか「もう特別扱いしなくても大丈夫」と言っても、先生は全く聞いてくれない。
「私に気を使わなくたって大丈夫。無理しなくてもいいのよ」
こんなことを言って、渡辺先生は私を美術室に一歩も入れず、追い返してしまう。私は仕方なく図書室に行っては、課題のレポートに取り組むほかなかった。ひとりぼっちで。これなら絵を描いている方がずっとずっとマシなのにと思う。レポートを書く手も中々進まなかった。
私は図書室の中を歩き回って本を探した。すぐに読めて、面白そうな美術の本。それを探していると、ある一冊の本が目に留まった。見覚えがある背表紙だった。
「……これ、センセイが持っていた画集と同じだ」
私はポツリとそう呟いていた。センセイの事を思い出すと、やっぱり胸がざわつく。
私は背伸びをして、まるで吸い込まれるようにその画集を手に取った。ページをめくるとセンセイがいつか見に行きたいと話していた、マルク・シャガールの『夢の花束』があらわれる。パリのオペラ座の天井に描かれている円形の絵で、14のオペラがモチーフになっている。シャガールは様々な青色を用いて絵に深みを出した画家で、センセイは、彼によって編み出される青色の種類の多さに感銘を受けたと何度も話をしていた。一番憧れている画家だ、と。
離れてしまった今、私が思い出すのはセンセイの笑っている横顔ばかりだった。その笑顔は優しくて、やる気に満ちていて……何よりも、絵を愛していると雄弁に語っていた。
私は画集を開いては、一枚ずつシャガールの絵を指でなぞる。