4 淡い紫の雨が降る ⑨
私はセンセイから一つ段ボールを受け取って、本棚にある本を一冊ずつ確認しながら仕舞っていく。センセイの本にはちゃんと『伊沼』と名前が書いてあったからすぐに分かった。二人きりの時間が過ぎていくのが惜しくて、わざとゆっくりと片づけていく。
センセイは私とは正反対に、まるで時間に追われるように、てきぱきと机の中に残っていたこまごまとしたものを素早く片づけていく。センセイの手元を見ると、小さな段ボールの中には綺麗に整頓されていた。それを見習って私もできるだけ綺麗に丁寧に本を詰めていく。センセイは時折、机や棚に体をぶつけてその度に「痛っ」と小さな声で漏らしていた。センセイの視野が今、どれくらい残っているのか……それは私には想像することしかできない。けれど、もう相当狭くなっていることだけは、センセイの様子を見ているだけで私にも分かった。
センセイは立ち上がって、疲れをほぐすように腰を反らす。少しくたびれたようなセンセイの背中を見ていると、今まで感じたことのない感情がふっと芽生えていることに気づいた。センセイの事を知りたいと思った時とも、センセイに頭を撫でられた時とは違う。センセイを囲む女の子たちを見た時とも異なる。……私は本棚から離れ、センセイにそっと歩み寄り、彼に向かって手を伸ばしていた。
これは、センセイに『触れたい』という欲だった。
私の指先がそっとセンセイの白衣に触れた時、その欲が満たされると同時に……もっと触れたい、近づきたいと気持ちが高まっていく。
私が背中にそっと触れていることに気づいたセンセイは「どうかしたか?」と振り返ろうとした。私はそれよりも先に――センセイのお腹に腕を回して、ぎゅっと、しがみつくように抱き着いていた。
「……三原?」
センセイの呼びかけにも答えず、私は腕に力を込める。一度触れ合ってしまうと、センセイから離れがたかった。
私はセンセイの背中にピタリと耳をつける。センセイの心臓が刻むリズムが、初めて聞く音なのにとても心地良かった。センセイは、私の事を無理やりほどいたりしない代わりに、私の手にも触れることなく……じっと動かず、その場に立ち尽くしていた。
「何だ、俺がいなくなるのが寂しくなったのか?」
センセイの声は、今まで聞いたことないくらい優しいものだった。
「ねえ、センセイ。……私、センセイの目になりたい」
口から飛び出す私の言葉を聞いたセンセイは、ハッと呼吸を一瞬だけ止めた。体を小さく震わせて、何か言い返そうと言葉を探しているように、私はそう感じ取っていた。センセイが何か言うよりも先に、私は続ける。
「私、こんな目だけど。出来るなら、神様が許してくれるなら……私はセンセイの目になりたい」
センセイの体が、大きく震えた。心臓の音も、まるで時計の秒針のように早くなっていく。
ポタリ、と水が落ちていく音が耳に届いた。
私はセンセイの背中から顔を離して窓を見るけれど、空には月が昇り始めていて、雨が降っているような気配はない。私は耳を澄ます。しばらくすると、センセイの嗚咽が聞こえてきた。か細い糸のような、センセイの涙を流す音。その涙はセンセイの頬を伝って、私の手の甲に落ちた。私はもう一度ぎゅっと力を込めてセンセイに抱き着くと、センセイは崩れ落ちるように床に座り込んだ。もちろんセンセイにくっついている私も同じように、床にぺたりと座る。
センセイの涙は止まることなく落ちていき、まるで湖を作るみたいにそれが床に広がっていく。
私はその間、センセイの心臓の音を聞いていた。早くなったり、遅くなったり、不安定なその音を、ずっと聞いていた。
センセイの体温が、徐々に私の中にしみこんでいく。制服の袖がセンセイの涙で濡れていき、体中にセンセイの体の震えが伝わる……私はそれに心地よさすら感じていた。
とっても悲しい瞬間なのに、私は今この人に頼られているのだと……何だか、誇らしい瞬間だった。
私は何度もセンセイが泣いている間、ずっと神様に祈り続けていた。どうかお願いします、私の目をセンセイに渡してください。何度も繰り返し祈った。だけど、センセイが白衣で涙を拭って立ち上がろうとしたとき、再び開かれた私の目はいつも通りだった。
その願いが叶わなかったのだ。
「……悪かった」
目元を透明な涙を貯めたセンセイは、そっぽ向いたままそう言った。私は頭を横に振る。
「……私、帰ります」
「そうだな、もう遅い。……駅まで送るよ」
「いいです! センセイの作業、遅れちゃうし、それに」
それから後の言葉を、私は続けることはできなかった。鼻のあたりがツンと痛くなって、これ以上一緒にいると今度は私が、まるで滝のような涙を流してしまうに違いない。それを悟られないように私はセンセイに向かって頭を下げた。
「……今までお世話になりました。ありがとうございました」
「ああ、元気でな。俺がいなくなっても、絵、描くんだぞ」
でもやっぱりこらえきれなくて、私の涙は一粒、つま先に落ちていった。
私はこの時、センセイが最後に描いた『私の絵』を見ることなく、終わった。