4 淡い紫の雨が降る ⑧
ああやって他の女の子に囲まれて笑っているセンセイを見ていると、どうしてだろう、胸がチクチクと痛むのを感じていた。やっと手が届いた大事な物を、目の前で取られてしまうような感覚。そのざわめきは何日経っても私の体の中にとどまり、どんどんモヤモヤとしたものが広がっていく。それが顔に出ていたらしく、定期検査の時、長谷川先生に「何か不機嫌そうね」と笑われながら指摘された。
「別に、何でもないですけど」
私は唇を尖らせる。
「そう? なら良いけど」
カルテにはいつも通りの四文字が書き込まれていく。それをパタンと閉じて、長谷川先生は席を立ってドアを開けた。今日の検査はいつもより長引いたのか、次の検査までの時間がもうすぐそこまで差し迫っていた。
「そうだ、彩香ちゃん」
「ん? 何ですか?」
「この前話した、『私の知り合いの医者が担当している患者さん』の事覚えてる?」
私が頷くと、長谷川先生は話を続ける。
「今度、うちの病院で入院することになったの」
「え?! も、もしかして治療を受けることになったの?!」
私の淡い期待はものの見事に打ち砕かれる。
「ううん。目が見えなくなった時のために、しばらく入院して訓練するんですって」
「……そっか」
「でも、私は諦めてないわよ!」
落ちこむ私を見ながら、長谷川先生は大きく胸を張った。
「あの患者さんがいつか治療を受けたいと思うまで、私だって頑張って説得し続けるって決めてるの。だからね、彩香ちゃん」
長谷川先生は私の手を取り、ぎゅっと包み込むように握った。先生の手は柔らかくて、まるで火が付いたように熱い。それくらい気合に満ちている。
「伊沼さんのお見舞いに来てほしいの。ご家族も遠くに暮らしているみたいだし……一人だと気が滅入っちゃうでしょう? だから、お願い」
「わかりました!」
私も、深く頷いていた。
***
あっという間に伊沼センセイが学校に来る最後の日がやってきた。センセイは朝から大忙しで……新しい先生の引継ぎだけではなく、授業にも行って、少し校内を歩くだけでいろんな生徒に囲まれて。私がセンセイと話す時間なんて、全くなかった。私は彼を見つけても、センセイの周りに集まるファンの子たちの勢いに負けてすごすご引き下がる。私はじっと、センセイの周りに人がいなくなるまで待ち続けた。
時間だけがどんどん過ぎていって……センセイの周りに誰もいなくなったのは、最終下校時刻を回った頃だった。見回りの先生方にバレないようにトイレに隠れていた私は、静かに、忍び足で美術室へ向かう。
学校の中がはもうほとんど暗いのに、美術準備室だけがこうこうと電気がついていて明るかった。扉をノックすると、その中から「どうぞ」というセンセイの声が聞こえてくる。その声が聞こえることに少し安心して、私はドアを開けた。
「三原か、遅かったな。待ってたのに」
センセイが私の事を待っていたなんて言われ、私の胸は自然と弾んでしまった。その喜びが彼にバレないように、頬を膨らませる。
「何度も行こうと思っていたのに、センセイがみんなに囲まれていたせいで行けなかったんですよ。」
「なんだ、そうだったのか。自分でもびっくりしたよ、あんなに慕われていたとは思ってなかったからな」
椅子の上には白い紙袋が乗っていて、その中には寄せ書きだったりセンセイ宛てのプレゼントが詰まっている。センセイは先ほどから、美術準備室に残っていた私物を片づけていたようだ。
「そのせいで全然片付けが終わってないんだ。三原、手伝っていけよ」
「……もう、仕方ないな。少しだけですからね」
「分かってる。遅くなると危ないからな、三原は」