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モノクロームと花束  作者: indi子
4 淡い紫の雨が降る
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4 淡い紫の雨が降る ⑦

「絵、ですか?」


「そう、お前の絵。……描きたくなったんだ」




 とっさの事で慌てると、それが顔に出ていたらしくそれを見たセンセイは噴き出した。先ほどとは全く違う、センセイのいつもの笑顔だった。それを見ることができた私もやっと安心して、ぎこちなくだけど同じように笑って……そして何度も頷いていた。




「そっち、窓の方に行って、椅子に座ってて」




 センセイは荷物の中からスケッチブックと鉛筆を取り出していた。私はセンセイに言われるがまま、窓近くに椅子を持っていき、そこに座る。窓を背中に向け、真正面からセンセイに向き合う形になっていた。センセイは脚を組み、膝の上にスケッチブックを立ててじっと私を見つめる。まるで私の体の中の物も頭の中にあるものも、そのすべてをかっさらうように、まっすぐ、真剣に。何だか恥ずかしくて顔を伏せると、センセイは「顔をあげて」と少し語気強めに私に向かって言った。




 センセイはキョロキョロと、私だけではなく私の周りも観察しているようだった。まるで今の目の前にある世界をそのまま目に焼き付けるように。




 私は絵を描いていくセンセイの姿を見つめながら、雨の音を聞いていた。降りしきる雨は、ザーッというノイズにも似ていて、その音が私の事故の記憶と交じり合っていった。




 先ほど聞いたばかりのセンセイの話を頭の中でなぞりながら、事故の事を深く思い出そうとする。でも、少しでも思い出すと真っ赤なイメージが頭の中に広がって、背筋がぞっと恐怖で粟立っていく。足元から床が無くなって、奈落の底に落とされていくような恐怖。その正体が何であるのか、私はどうしても思い出すことができなかった。その恐ろしさを払うように頭を振ると、センセイに「動くな」とちょっぴり怒られてしまう。




 絵を描いているセンセイは、やっぱり楽しそうだった。まなざしは真剣そのものなのに、口角は少し上がっていていたずらっ子が笑っているようにも見える。センセイが持つ鉛筆も動きを止めることなく、まるで鉛筆が生きているみたいで。センセイが、鉛筆と紙に魔法をかけているみたいだった。その様子を見ていると、センセイは本当に絵を描くのが好きなのだと伝わってくる。




 でも、彼はそれを捨てようとしている。




 私は絵を描くセンセイの姿を、頭の奥に刻み込もうとしていた。この時間もそのまま丸ごと、まるで頑丈な宝箱に仕舞うように。センセイが絵を描いている姿を見るのは、これ以上ないくらい幸せな事なのだ、とこの時心の底からそう思った。今この瞬間が永遠に続けばいいのにと思うこと。私は、それを幸せと呼ぶことにした。




 しばらくセンセイの鉛筆がスケッチブックを擦る音と雨が混じり合っていたけれど、先に止んだのは雨の方だった。下校時間も近いせいか、外は暗いままだった。センセイは手を止めて、スケッチブックをパタンと閉じた。




「三原は、もう帰ったほうがいいな」


「でも、絵、まだ完成してないんじゃ……」


「ある程度は描いたから、あとでゆっくり描くよ。……でも、見えなくなるのが先かもな」




 タイムリミットは想像していた以上に近いのだ。私は感じ取ったその不安をセンセイに悟られないように「楽しみにしてます」とだけ言って、美術準備室を出た。




 玄関を出ると雨はすっかり止んでいて、大きな水たまりがあちこちにできていた。雲の切れ間からのぞく陽の光に反射して、それらはキラキラと輝いている。その光が、その光すら、今は憎くて仕方ない。センセイから光が失われている今、この世界にある物すべてが――たとえ私から見えるものがすべてモノクロにしか見えなくても……私には、その光を見ることができる。




 翌週の月曜日、全校集会が開かれてセンセイの休職が発表された。センセイの代わりでやってくるまだ若い美術の先生の紹介もあったけれど、やっぱりみんなは『伊沼先生が学校からいなくなる』ことに動揺していたみたいだ。センセイのファンだった女の子も多かったから、その子たちは至る所に塊を作って涙を流したり互いに励まし合っている。




「ねえ、サヤ。サヤは伊沼先生が何の病気なのか知ってる?」




 全校集会が終わった後、私は舞にそっとそう聞かれた。




「え?」


「サヤ、伊沼先生と仲良かったでしょ? だから知ってるかなって……」


「どうして舞がそんな事知りたいのよ。もしかして、舞もセンセイのファンだった?」


「ちがう。仲良い後輩ががっかりしているから、少しでも何か知ってたら教えてあげたいと思ったんだけど」




 首を横に振る。私は、舞に嘘をついた。




「さすが知らないよ、そんなプライベートなことは。……知ってたとしても、たぶん、誰にも言わないと思う」


「……だよね。でもすぐに治る病気だといいよね! サヤも元気だしなって!」




 舞は私を元気づけるみたいに、背中を強く叩いた。ちょっぴり痛かったけれど、私は舞の優しさに感謝しながら深く頷いていた。




 私はそれから、美術準備室や職員室で片づけをしているセンセイの姿をよく見かけるようになった。この前まであれだけ見つからなかったセンセイが、今は探さなくてもすぐに見つかる。でも話しかけようとしても、私よりも先に他の女の子たちがセンセイに向かって走り出していた。きっとファンの女の子だろう、センセイの周りに輪を作って、口々に何かを言いながら別れを惜しんだり、プレゼントを渡したり。センセイは少し困りながらもぎこちなく笑っていた。私はそれを見ないようにスッと回れ右をして、センセイの元から離れていった。



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