4 淡い紫の雨が降る ⑥
私の声も、少しだけ震え始める。センセイの話を聞いているうちに、胸騒ぎを感じ始めていた。
だって……センセイが今話していることは、私が遭った事故にそっくりだったから。もしかしたら、同じものかもしれない。少しだけ浮かんだ泡沫はすぐにはじけ飛ぶ、それが同じだという確証をどうしても得ることも出来なかったからだ。――だって、私に、猫を助けようとした記憶なんて残っていない。だから、センセイが見かけた事故と私の事故が同じとはどうしても言い切れなかった。
私はわずかな希望を抱きながらまるで答え合わせをするように、センセイにそう尋ねた。でも、そこに私が望んでいるような答えはないままだった。
「わからない。その後しばらく新聞もニュースも見なかったし、事故現場に行くこともしなかった……行けなかったんだな、正確に言うと」
私の事故とセンセイが目撃した事故は、イコールでは繋がらないままだった。
でも、私は嘘をつくことだってできる。その時の車に轢かれたのは私だと、センセイに向かってはっきりと言ってしまえばいい。私はちゃんと生きているから、センセイが良心の呵責に潰されることはもうないって。……だから、センセイには治療を受けて欲しいんだって縋り付くことだってできた。
しかし付け焼き刃のような嘘をついてもセンセイにすぐ見抜かれてしまいそうだし、それに、喉がピタリとくっついて、私はわずかな声すら出すことはできなかった。
「……その後、まるで現実から逃げるみたいに絵を描き続けた。目の前にあるもの、それを緻密に細かく描いていると無心になれた。作品が増えていったことと、美大の友達と展覧会を開いた時にファンができたこともあって、それらが絵描きとしての自信につながっていった。だけど絵で食べていくことはまだ難しいから、恩師から勧められて美術の教師になることにした。それなら絵を仕事にすることができるって。
教員採用試験に受かった頃かな? 視界に影があるというか……視野が少し欠けているような気がした。最初は疲れているだけだろうと思っていたけれど、その影は一向に消えることはなかった。それを話したら友達に心配されて、半ば強引に近所の眼科に連れていかれたんだ。どうせ勉強と制作続きで疲れたが出たんだろうってたかをくくっていたら、そこでは大学病院に行くように言われた。
大学病院にはすぐに行った。そこで言われたんだよ、視野が欠けているのは目の病気のせいだって。大分進行していたらしく、もう、現代医療では治すことはできない。このまま進行を遅らせることはできるが、治すことはできない。いつか必ず、何も見えなくなる日が来る。……友達も、大学の先生だってその当時の一番良い治療を受けられるようにカンパを出してくれるって言ってくれたけど俺はそれを断った。
目が見えなくなるって聞いた時、どうしてだろう……不思議と怖いなんて思わなかったことを、今でも覚えている。
これでようやっと、罪を償える。あの時、子どもを見捨てた罪が。これが神様が与えてくれた俺への罰なんだと……俺に与えられていたのは、絵を描く才能じゃなくて、償うチャンスだけだった」
私は恐る恐る口を開く。
「……だから、治療はしないんですか?」
「もう、何も見たくないんだ。この世界にある物、すべて」
絞り出すようなセンセイの声は、まるで祈りに似たようなものだった。床にぽたりと、何かが落ちる。それは、センセイの涙だった。センセイは顔をあげず、目から零れるそれをただ拭っていた。居場所のない私は、雨のように落ちていくそれから目を反らしていた。
空には厚い雲が覆い、まるで夜のように暗くなっていく。私は外をじっと見つめていた。センセイが描いたあの空模様の絵にも、こんなにどんよりとした濃いグレーはなかった。きっと、センセイはこんな空は好きではないのだろう。
コツンと叩くように本物の雨が窓に当たった。その雨音はどんどん増えていき、あっという間に本降りになっていく。降り続ける雨をじっと見ながら、私は小さな声で独り言をこうつぶやいていた。傘、持ってきてないのに……と。とても小さな声だったのに、シンと静まり返った美術室に反響していく。
センセイがようやっと顔をあげ、親指で目の下を拭いながら私と同じように窓を見つめる。そして、小さく息を吐いた。
「……止むまで雨宿りしたらいい」
私たちはそのまま、雨の音を聞いていた。狭い美術準備室の中は、雨の音と互いの呼吸しか聞こえなくなっていた。まるで二人で空に混じり合ってしまったみたいに。しばらく経った頃、センセイは立ち上がって美術準備室の電気をつけた。パチッと強い光があたりを照らし、まぶしくて私もセンセイも目をしかめている。
「……最後に、絵を描いてもいいか?」
センセイはそう口を開いた。私がセンセイを見ると、彼は目を細め淡く微笑んでいる。




