4 淡い紫の雨が降る ⑤
小さな声だったのに、先ほどの大きな声を出した時みたいに玄関に反響していった。センセイは、ようやっと振り返って私がいるあたりを見つめた。その表情は、まるで自分自身をあざけ笑うようなものだった。
「三原には、ちゃんと話をした方がいいんだろうな。……ここだと目立つ。ついてこい」
センセイは覚悟を決めたようにさっさと歩いて行ってしまう。私は慌てて彼の後を追いかけていた。センセイが向かった先は美術準備室。以前来たときにはなかった段ボール箱が床にいくつも積まれていた。
「センセイが病気のせいで学校やめるって噂を聞いたんですけど、それって、本当なんですか?」
荷造りされた段ボール箱を見ながらか細い声で私がそう聞くと、センセイは「いや」と首を横に振った。わずかな期待を抱いたけれど、センセイが続ける言葉はやっぱり私の事を打ちのめすものだった。
「正確には、少し違うな。辞めるつもりだったのは間違いない。でもそれを校長に相談したら、まずは休職して様子を見てからでもいいんじゃないかって言われたんだ。もしかしたら、目の調子が良くなるかもしれないからって。――良くなることなんて、ないんだけどな。でも、校長の厚意を無下にすることもできないし、しばらく休んでから辞めることにするよ」
センセイは「もう噂になってるのか? 早いな」と屈託なく笑った。笑い事なんかじゃないのに。
「やっぱり、治療は受けないんですか?」
「……そのつもりはないよ。三原にも悪いけど、こればかりはどうしても」
センセイはそこで言葉を区切り、大きく、まるで胸に溜まっていた物を取り出すように大きく息を吐きだした。
「……いい機会だし、昔話でもするか。三原にしか話さないから、他の奴には絶対に言うなよ」
私が頷くのを見て、センセイは胸を撫でおろすように小さく笑った。
センセイは椅子に座るので、それに倣って私も手近な椅子に座る。センセイは顔を伏せていて、私の方を一切見ようとしなかった。
「子どもの頃から、俺は絵を描くのが好きだった。絵を描くたびに、親や先生が褒めてくれるから、なおさら好きになっていく。きっと自分は、絵を描く才能を神様から貰ったんだと思った。
絵を描くことを仕事にしたくて、高校生の時に美術大に進学しようと思ったんだ。でもそこで、生まれて初めて壁と挫折にぶち当たる。第一志望の美大は想像していた以上にハイレベルで、図に乗っていた俺はあっけなく落ちた。続けて第二志望も落ちた。家庭の事情で浪人は出来なかったから、不本意だったけれど、ようやっと合格できた滑り止めの、名前も聞いたことのない美大に入学した。
最初は不満ばっかりだったけどな、そんなのすぐに吹っ飛んでいったよ。先生は厳しかったけれど、丁寧に基礎から教えてくれた。仲間にも恵まれた。今まで以上に絵ばっかりの生活になったし、何よりも、前よりも絵を描くのが大好きになった。自分の中で、まだここまで気持ちが大きくなるなんて思わなかった」
センセイは一休みするように息をつく。私はセンセイの話を微動だにせず、ただ耳だけを傾け続けていた。
「大学二年の夏だった。実家にも帰らず大学にこもって絵を描いていたんだけど、気分転換をしたくなって近くの公園まで散歩に出たんだ」
センセイが深く思い出そうとするにつれて、ムッとした夏の空気が部屋中に広がっていく気がした。
「公園に着いた時、一匹の猫と目が合った。まだ体が小さくて、きっと子どもだったんだろうな。よろよろとおぼつかない足取りで公園から道路に向かって真っすぐ歩いていく。『あぶねーな』と思ったんだ、その時。車が近づいているのが見えていたから。どうしようか迷っている内に猫は道路に飛び出して行った。助けに行こうと思ったのに、体が動かなかった。このまま道路に出たら、自分だって車に轢かれると思って……怖くなった。
怯んでいる一瞬のうちに、公園から子どもが飛び出してきた。そいつの腕を掴もうと思ったけれど、子どもの方が素早くて……道路に飛び出したと思ったら、そのまま猫もろとも車に跳ね飛ばされていった」
センセイは頭を垂れて、耳を澄まさないと聞こえないくらいとても小さな声で語り続ける。思い出すのもつらいのか手をぎゅっと、手のひらに爪が食い込むくらい握りしめていた。
「猫は、きっと即死だったと思う。真っ赤な塊になって、血が広がっていくのが視界の端に映っていた。子どもの方も、もう虫の息だった。何を見ているか分からない目が、力を失うように少しずつ閉じていくんだ、まるで死ぬのを受け入れていくみたいに。俺は、何をしたらいいのかも変わらなくて、ずっと呼びかけ続けた。そうしているうちに……指先に何かが触れることに気づくんだ」
センセイはゆっくりと手を開き、指先を見つめる。その手はかすかに震えていた。
「その子どもの血が、小さな体からずっと流れ出していることに。気づけば、当たり一面が血の海になっていた。そのとき、自分が何をしたのか気づいたよ。もし俺が猫を捕まえていれば、この子どもを止めていれば……この子は、こんな目に遭わずに済んだんだ」
「それは、センセイだけのせいじゃないはずです!」
「何度も自分にそう言い聞かせたさ! でも、まだ体が、目が、手が、あの時の光景を覚えている。頭に焼き付いたみたいに、ずっと。……堪らなくなった俺は、そこから逃げ出していた。あの場にずっといたら、それこそ頭がおかしくなりそうだった……俺は、自分の可愛さのあまり、死にかけの子どもを置いて逃げたんだ」
「……その子は、その後どうなったんですか?」