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モノクロームと花束  作者: indi子
4 淡い紫の雨が降る
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4 淡い紫の雨が降る ②

「でも、彩香ちゃんが話していた美術の先生が伊沼さんだったとはね。偶然ってあるのねぇ」




 長谷川先生の言葉はとてものんびりしたものだった。私の気持ちはそれとは正反対で、どんどん迫ってくるタイムリミットに背中を押されるように口を開く。




「……センセイ、目の事はもう手遅れだって言ってました。私にできる事って、ないですか? それなら長谷川先生は教えてくれますか?」




 懇願するように、長谷川先生に向かって頭を下げる。前に垂れる髪をぎゅっと掴むと、指先がひんやりと冷たくなっていることに気づいた。




 センセイの左目はもう見えなくて、右目は時間の問題。センセイは、確かにそう話していた。




 私の世界はモノクロだけど、目の前にある物を見ることはできる、でも、センセイは光すら失うのだ。この世界にある物すべてが、彼の目には、見えなくなってしまう。




 何も見えない、真っ暗闇の世界。それを想像しただけで背筋がぶるりと震えて、得体のしれない恐怖が体中を包み込む。こんな恐ろしさとセンセイは人知れず戦っていたのに、私ときたら絵を描きたくないなんてワガママばっかりで……だだをこねる子どもだった。私の事を追いかけ回す時間があれば、もっとセンセイだって絵が描けていたはずなのに。そのわずかな時間ですら、私は奪ってしまっていた。後悔しながら私が深く息を吐くと、長谷川先生は少し迷いながらも……こう口を開いた。




「伊沼さんの事は教えてあげられないけれど、私の知り合いから聞いた、とある患者の噂話ならしてもいいのかな?」




 その言葉を聞いて、私はハッと顔をあげる。長谷川先生が私に向かって見せる笑顔は柔らかく、優しい。




「噂? ……それって、もしかして」


「いい? ただの噂話だからね」




 私が何度も頷くと、長谷川先生はさらに、頬に深く笑みを刻んだ。




「私の知り合いの医者から聞いた話だけれど、ある日、まだ若い男性の患者が病院に来たんですって。美大に通う大学生で、数か月前から目の調子が悪くて眼科に行ったら大学病院へ行くように勧められたって言って。慎重に診察と検査を重ねたけれど、その患者の目の病気は、その当時の医療技術では治すことが出来なかった。失明するまでの時間を先延ばしにする治療しかできなかったの」




 長谷川先生は、私がちゃんと話を理解しているか確認しながら続けていく。




「その患者の目はどれだけ治療しても、少しずつ悪くなっていった。今ではもう、片目は見えなくなっている。でも、時間が経つにつれて……もしかしたら、治るかもしれないっていう治療法が一つだけ見つかったの。彩香ちゃんは、再生医療って聞いたことある?」




「はい、ニュースとか生物の授業で少しだけ。詳しくは分からないけれど」




「患者本人の細胞を使って、どんな組織でも回復させることができる万能細胞を作って患者に移植するのが再生医療。この患者さんの場合は、目の組織の万能細胞を培養して、それを目に移植するのね。研究がどんどん進んでいて、その臨床試験がそろそろ始まるの。私の知り合いの医者は、臨床試験の対象にその患者を推薦しようとしているんだけど……」




 長谷川先生は、その『臨床試験』についても分かりやすく説明してくれた。それは、その病気に対する治療の有効性について本物の患者を使って実際に治療をしながら研究していくもの。その臨床試験を受ければ、完治への道筋が見えてくる……かもしれない。それでもまだ研究している治療だから、確実に治るものとは限らない。でも、何もしないでいるよりはずっといいと思うと、長谷川先生はしみじみと言っていた。だって、今の治療を受け続けるよりも治る可能性が上がるのだから。




「でも、その患者さん……断ろうとしてるんだって」


「え? 何で? 治るかもしれないんでしょ?」


「今回の臨床試験は確度が高いもので、彼の病気も治る可能性は高い。それなのに断るなんて……さすがに聞いたの、どうして治療を受けようとしないの? って」




 長谷川先生の視線は何かを思い出すに宙を漂う。そして、重苦しく口を開いた。




「――昔犯した罪をようやっと償うチャンスが回ってきたって、そう言うの。目が見えなくなるのも絵が描けなくなるのも、すべてがこれは自分に対する罰なんだって……」




 私はギャラリーで、センセイから同じ言葉を聞いたことを思い出した。顔をあげると、長谷川先生も悲しそうに目を伏せていた。




「長谷川先生は、知ってるんですか? その『罪』が何なのか……」




 祈るような私のその言葉に、長谷川先生は首を横に振るだけだった。




「知らないわ。どれだけ聞いても、彼は決して教えてはくれない」




 その罪とは何なのか。それさえ分かれば、センセイが治療を受けてくれるよう説得することだって出来るかもしれないのに。私が唇を噛むと、長谷川先生は微笑んだ。




「でも、こんなに心配してくれる人がいるなんて、伊沼さんは幸せ者ね」


「え?」


「彩香ちゃんなら、もしかしたら……彼の事を、変えることができるかもしれない」

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