4 淡い紫の雨が降る ①
春休みはあっという間に終わり、私は高校三年生になった。でも、以前とあまり変わり映えのしない生活を送っている。2年間着ているうちにすっかりくたびれた制服を着て高校に向かい、クラス替えもなかったから教室の中も見慣れた顔ぶれしかいない。私は仲が良かった友達を離れずに済んだから、それは嬉しかったけれど。
しかし、先生方の話は以前にも増して受験の事ばかりになってしまった。受験のための授業ばかりが増えていく。みんなはそんなこと言われなくても十分分かっているのに、先生方が口すっぱく言ってくるもんだからどこか辟易とし始めていた。
変わってしまったことがもう一つある。
それが美術の授業だった。
美術を担当するのは、二年生の時と変わらず伊沼センセイ。でも、センセイの授業で絵を描くことは無かった。他の授業と同じように、通常の教室の、自分の席に座って、美術の歴史や手法についての話を一方的にセンセイが話すのを聞く。みんな、絵を描くのはあまり好きではないけれどいい息抜きになっていたから、それがないのは少しつまらないと話していた。仕舞いには美術の授業を聞かないで、こっそりと受験勉強をするクラスメイトまでちらほら目につくようになってきた。
でも私は、皆が好き勝手やっている中……センセイのことだけをただじっと見つめていた。窓に差し込む日差しに対してまぶしそうに目を細めたり、黒板消しやチョークを探したり。時折見せる、ふとした仕草。私は彼の目の病気を知っているから少しヒヤヒヤしてしまう。けれど、センセイはそれを誰にもバレないようにしていた。何も知らない他の人が彼を見たら、センセイが目の病気にかかってるなんて気づかないだろう。
私はたまに、センセイに会いたくて、放課後に美術室を訪れていた。あのギャラリーで会った日以来、センセイと二人きりで話をしていない。でも、センセイはまるで私から姿を隠しているみたいで美術室で出会うことはなかった。美術室だけではなく、職員室や他の教室を探してみてもセンセイは見つからない。
新学期が始まって数週間過ぎた頃、待ちに待った定期検査の日がやってきた。私は帰りのホームルームが終わった瞬間、まるで矢のように学校を飛び出して病院に向かっていた。息を切らせて診察室に飛び込んだ私を見た時、長谷川先生は少し驚いたような表情をしていた。
「彩香ちゃんが通っているのって、常盤台高校だったわよね」
いつもの検査が終わった後、私が口を開くよりも先に長谷川先生が私にそう尋ねた。前にも同じことを聞かれたなと思い出しながら、小さく頷いた。
「それじゃ、私の患者さんが話していた『変わった目を持つ女子生徒』ってやっぱり彩香ちゃんの事かしら? 彩香ちゃんって、美術の先生と仲良かったの? 前、喧嘩してなかった?」
「その患者って、もしかして……伊沼センセイのことですか?」
私は驚きのあまりハッと息を飲んだ。もしかしたら声は震えていたかもしれない。長谷川先生は「やっぱり」と満足そうに頷いていた。
「そうそう、伊沼さん。前に常盤台高校で働いてるって言ってたから、彩香ちゃんの事知ってるかなとは思っていたけれど。……まさか彩香ちゃんと追いかけっこしていたのが伊沼さんだったとはねぇ。あの人がそんな事をするようには見えないから、びっくりしちゃった。彩香ちゃん、伊沼さんの病気暴いちゃったんだって? 驚いていたわよ、彼」
びっくりするのは私の方だ。まさか、センセイも長谷川先生の患者だったなんて、そんな事今まで考えもしなかった。同じ病院、同じ眼科の医者なら少し情報を知っているかなと淡く期待していただけだったけれど、長谷川先生の言葉はその期待を軽々と上回っていく。先生なら、私が望んでいること全て知っていそうだ。私は身を乗り出した。
「長谷川先生!」
私が声を張り上げると、長谷川先生は肩をびくりと震わせた。
「な、何? 急に大きな声を出して……」
「伊沼センセイの目の病気の事、できる限りでいいので教えてください!」
私が更に大きな声を出して先生に詰め寄ると、長谷川先生は両手で口を塞いでしまった。
「残念、これ以上は何も言えないのよ」
私の目が点になっているのを見て、長谷川先生は申し訳なさそうにため息をついた。
「え? で、でも……今、伊沼センセイが先生の患者なの教えてくれたじゃないですか」
「それは、私がついうっかり伊沼さんに彩香ちゃんの事喋っちゃったし……そのお詫びっていうの? これ以上話をしたら、伊沼さんに怒られちゃうわ」
「そんなぁ」
私がガクッと頭を落とす。